弟子教育~人生が文字通り変わってしまうきっかけ

2024年1月31日、謎の連絡が入った。今思えば、苦難の道を告げる連絡であった。その連絡が来たのは仕事が始まる直前だったので、都合の良いタイミングで連絡しようという話になった。しかし、残業を始めとして邪魔が入り続け、かみ合わずに文面での連絡となった。何の力が働いたのかは分からないが、どうやら何らかの障害が僕を邪魔したようだった。

そして、やっと分かった連絡の内容、それは「弟子教育」というものだ。ざっくり表現すると、一対一で時間を取り、イエス様の弟子となるための信仰教育をしてくださるとのことであった。なんで、自分なんかのために時間を割いてくれるのだろう。なんで、自分なんかを選んでくれたのだろう。疑問は尽きなかったが、自分にとっては恩恵以外の何物でもなかったため、言われるがままに受講をお願いし、テキストを購入した。

初回の授業では、キリストとの関係性の構築の必要性、そしてキリストの四肢として私たちはそれぞれの道を行かなければならないことを学んだ。それと同時に、講座と並行してわたしたちに試練がやってくるといことだった。話を聞いた当時は、そんなもんかなと軽い気持ちだったが、本当に人生が揺れ動いたのだった。

実際、連絡が入ってからいろいろと人生がかみ合わなくなってきてしまった。食堂の朝食営業の終了と同時にアサクンもやめてしまい路頭に迷い続ける朝の時間。責任と業務量と叱咤でストレスフルになる業務。何もできず睡眠に逃げる休日。悪化するアトピー。離れていく神様との関係性。

自分が嫌になると同時に仕事にはどんどん行きたくなくなっていく。しかしながら、当然弟子教育は続いていく。分かっているようで、聖書を全然知らなかったということに気づく。思えば、アサクンや聖書検定で聖書に触れ合う時間が増えている。神の言葉を知り、クリスチャンの間で常識となっていそうな聖句を学ぶ、これが自分にとってはすごく価値あるものであったし、そういう環境を神が用意してくださったのだなと感じる日々であった。一方、日常の辛さに耐え忍ぶのが必死でもあった。

そんな中、仕事を辞めたすぎる僕に甘い甘い誘惑が待っていた。それは、「傷病手当金」というシステム。うつ病と診断されれば、会社に行かなくてもお金がもらえる。社宅が継続されるのであれば、住むには困らないくらいのお金はもらえそうだ。精神病院なんて人生で行く機会があるわけない、うつ病になんてなるわけないと思っていた古き良き人類の一人ではあったが、衝動というのは、そんな人の心すら動かしてしまう。結局、一人の友人の共感を得たのち、ほかには誰にも相談せずにその衝動を実現してしまった。そんな人生が変わった日、それが2024年3月25日だ。

今考えてもその判断が正解だったのか分からない。得られるお金はクリーンなものとは言えないだろう。そしてもちろん、経歴、信頼、人間関係、すべてに大きな傷をつけた。しかし、5月21日現在、当時に戻ったとしても同じ判断をしてしまうとは思っている。とにもかくにも、決断したからにはその判断を正解にしなければならない。自分の人生を決めるのは自分だし、解釈するのも自分自身だ。一つ、唯一後悔があるとすれば、神様にちゃんとお祈りして決めなかったことだ。日々すべてのことは神様に報告すべきだし、重大な判断は当然お伺いをすべきだ。もちろん祈らなかったわけではないが、圧倒的に時間は足りていなかった。

だが、ある意味では当時にはその能力がなかったとも思える(恥ずかしながら、2か月経った今もその能力はないのだが)。だからこそ、その能力を育てるため、すなわち神様との関係性を築くためにもこの時間が必要だったような気もする。

とにかく今は、神の導きと自分の信念に従ってやるべきことをやるだけである。4月は棒に振ってしまい、勝負の土俵にすら上がれなかった。5月は何とかレーンの上には立ったが、マイナスからのスタートでなんとかスタートラインに戻れたといったところである。そう考えると、2か月間というのは到底有意義とは言えなかったかもしれない。だからこそ、残りの期間は死に物狂いで戦わなければならない。6月、7月、8月。ホップステップジャンプ。よちよち歩いている暇はない。


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