ピナ・バウシュ 夢の教室

昨夜は、ざあざあ雨が降り、風が吹き荒れた。
今日は、朝から、しとしと雨が降る。

ひとまず、掃除をすませる。
どこぞから、澄んだ鐘の音が、ひとつ、ふたつ、みっつと、聞こえてくる。

わたしの好きな映画に、「ピナ・バウシュ 夢の教室」というのがある。
舞踊家、振付家の、ピナ・バウシュが振り付けた、
「コンタクトホーフ」という作品を、
ダンス経験のない若者が、市の舞台で上演する。

その過程を追った、ドキュメンタリーだ。

ピナ・バウシュは、とても革新的な振付家だった。
身体表現であるバレエと、台詞を、舞台のうえで組み合わせた。

わたしは、バレエを習っていた割に、疎いが、
革新的な振付、と聞いて、モーリス・ベジャールくらいは浮かぶ。

ベジャールの作品には、踊り手を選ぶ、敷居の高さと共に、
いつでも(踊り手の)未知の表現を、引きずり出すような、懐の深さがある。

春の祭典やボレロ、は、今見ても新しさを感じるし、
見る機会に恵まれれば、何度でも、見たいと思う。

対して、ピナ・バウシュのそれは、新しいのはもちろん、とても自由なのである。

ベジャールの作品と同様、踊り手は、試される。
しかし、その試され方は、プロの表現者として、よりは先ず、
ひとりの人間として、のように思う。

だから、バレエ経験のない若者にも、踊ることができた。

映画のなかで、強く印象に残ったシーンがあった。
声を上げて笑う、という振付を、指導する一幕である。

大声で笑いながら、舞台を半周する姿は、
それ自体が、一度見たら、忘れ難い光景である。

ところが、この役を割り振られた女の子には、なかなかそれができない。
何度やっても、違うと言われてしまう。

しかし、笑いが違う、とは、どういうことか。

傍目にわかるのは、演技指導の先生がみせた見本と、
女の子の笑いが、明らかに違う、ということである。

では、「正しい」笑いとは、何なのか。
この振付では、笑いそのものを、切り出して見せなければならない。

想像するに、
他者の視線を強く意識し始める、十代の若者にとって、
このような形で、人前で、笑うシーンを演じるのは、
さぞ気恥ずかしいことだろうと思う。

しかし、躊躇いやごまかしがある限り、振付は完成しない。
ここで、一番に求められるのは、殻を破り、自分のすべてを晒す覚悟である。

笑いは、誰の身体にも、備わっているもので、
ただそれを、外に向かって放つのだ。

不思議なことに、
件の少女が、だんだんと自分を解放していく過程は、
それを目にする人びとにも、同じような効果をもたらす。

ピナ・バウシュの作品には、
人を、他人事という立場から、振り落とし、
素の自分と、対峙させる力があるように思う。

彼女の振付が、踊り手を、ひとりの人間として試す、
と言ったのは、そういう意味である。

それにしても、海のものとも、山のものとも、つかぬ時期に、
このように決定的な形で、自分と向き合う体験を得るとは、
恵まれた若者たちである。

本来ならば、その機会は、誰にでも訪れてよいはずなのだ。

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