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私は「先生」じゃないから


こちらの記事を拝見して、「他所様はしっかりとした教え方をしてるんだなー」と感嘆してしまった。


私はこのやり方とは真逆だし。
大体教えるんでなくて、手渡してるだけやね。

手持ちの技や知識を、ほぼ教えちゃいかん所まであっけなく披露して。
見せるだけでなく、説明して理解してもらって、注意点やコツなどをきちんと並べて。
パッケージとして渡す。

こういうのを自分の知る限り並べ立てて、
「お好きなように選んでね!」
とやる。


もちろん、要望があればそれに沿うように工夫したり、素材を基に組み立てるんだけど…
本来そこは、
「自分で試行錯誤して、
身をもって何が失敗なのか、どうしたら成功したのかを積み重ねないと…使い物にならん」

ここの所は同じなんだけど、
形として動作だけを伝える、ひたすら真似ていく、というのは。
最低限の情報にまとめて伝えて習熟してから、
その後自分の中で展開して…
嬉しい楽しいといった情動や、
目的のための動作への推察、
それを超えての調和や没入体験、思いの昇華へとまで繋げていく事だと思ってる。
そして、この体験をフィードバックすることで、「より良く生きる」ための指標としようというものだと。

これは、空手の型稽古そのものでもあるわけで。
従来からの慣習とも言えるのだけど…

じゃあ何で同じ事しないの?と


私は先生ではないからだね。

別に指導してるわけじゃない。
それで生計立ててる訳でもない。


じゃあなんだ?

私は単なる同輩でしかない。
同じ目線に立って、同じ目標を目指す、単なる修行者でしかない。

持ってるものは開放するから欲しいものあれば持ってけばいい。

これは指導じゃない。
ただのお節介やね。


私はかなり遠回りして、結局さかりを無駄にして大成はできなかったから。
後から来る人たちには、手間を省いてやりたいとも思うわけで。

まあ本当にお節介だw


でも、引用した記事は、そのあとについてを話してるんやね。
とりあえず材料だけは手渡して。
それを「身につける」ために、色々考えて行動していく。

そうしたもんだろうさ、道だのお稽古だのってのは。
主体は「先生」じゃなくて生徒たる本人やで。


教える、倣う、指導する、学ぶ…
これは、上下関係だから。

無い訳でもないが、大したもんでもない。
上手けりゃ上か、というのもまた違う。
そこでは下なだけ。
他分野では逆転だって大いにあり得るさ。

あまり偉ぶってると、別の方から痛いとこ突かれるよ。
私なんて失敗ばかりの人生だしなw


うちの生徒さんらも、仲良く楽しくやればいいのさ。
敵やないんよ、仲間やで同門は。
敬意も無くクレクレしてるやつは、それなりに…だけど。