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注目の一戦

2023年1月1日。
何をおいてでも観たかった一戦があった。
その日、日本武道館で行われる、プロレスラーの中邑真輔とグレート・ムタの一戦だ。

高校生の頃、プロレスにハマっていた私は、主にNOAHとWWEが好きだった。新日本プロレスはそれほどでもなかったが、特に中邑真輔が好きで、高校生の頃の一番のヒーローだったかもしれない。
特に中邑と棚橋の試合はいつも名勝負で、感情的で、異次元の熱量のある試合という印象だった。
大学への進学をきっかけにプロレスからは離れてしまったが、きっかけは思い出せないがコロナ禍でプロレス(特に親日)に再度興味を持ち、昔の映像をYouTube で見返していた。

中邑に関してはWWEでの活躍も知ってはいたが、古い試合から、最近の試合なども追いかけていた。
そんな中邑が久しぶりに日本で試合するとなれば何を置いても観たいと思っていた。

しかし、問題があった。
毎年、元旦の夜はパートナーの実家で、集まって夕食を食べるのが慣わしとなっており、いつもテレビを見ながら甘いか、酸っぱいか、しょっぱい惣菜をつまみに、ビールか日本酒でそれを流し込みながら、尿路結石にならないよう、限度を見極めながら過ごすのが通例となっている。

その最中で携帯片手にプロレスの試合を見ようものなら、パートナーの家族にはさぞかし私は感じ悪く映るだろう。
そう思った私は年末からこの一戦だけは何を置いても観たいのだ、とパートナーにさりげなく伝えていた。
その甲斐あってか、パートナーの実家に着き、新年の挨拶を軽く済ませた後、宴会が行われている広間ではなく、台所のある部屋に備え付けられたテレビでプロレスの生配信が見られるよう、段取りをつけてくれた。
私は新年早々パートナーの優しさに感謝しつつ、甘えることにした。

とはいえ、このまま配信が終わるまで、人の少ない部屋でただ酒を呑んでいるのも忍びない。
まだ注目の試合まで3試合ほどあるし、時間にすると1時間半は開始までに余裕があるだろう。
まずは軽く妻と乾杯し、少し腹を満たしたところで、グラス片手に宴会の席について軽い世間話でもしてまわろうかと思案していた。

まずはお土産に持ってきたノンアルコールのスパークリングで乾杯をした。どうやらパートナーは私が感じ悪くならないよう、私と同じ部屋で食事をしてくれるようだった。
本当に良いパートナーを持ったものだ。
ついでに火にかけたおでん鍋の番まで仰せつかり、台所にいる大義名分も得た。

だか、少しして、パートナーがお腹が張っているのが気になっているようだった。
パートナーは妊娠中で、30週を過ぎた頃だった。
妊婦のお腹の張りは早産だったり、胎児の酸素の供給に影響があるなど、長く続くようだったり、張る感じがいつもと違う場合は良く無い事もある。
パートナーには一度横になって休んでもらうため、別室で横になってもらうこととなった。
私は食事をしつつ、一人台所で火にかけた鍋の様子を確認する。

私とパートナーの間にはすでに息子が1人いるのだが、彼を妊娠中の時はあまりお腹の張りについて、心配する機会が少なかったと記憶していた。
私は携帯を手に取り、妊婦のお腹の張りについて調べてみた。
大抵の場合、休んでいれば良くなるものの、やはり、良くないケースもある。

おでん鍋が煮えるのを待ちつつ、パートナーを心配すると同時に、私は卑しくも、どのようにして注目の一戦をリアルタイムで観戦するかを思案していた。
できることなら早めに自宅に戻り、妻を休ませながらスマホで視聴するのが望ましい。
そう思った私はまた卑しくもポケットにあったワイヤレスイヤホンを取出し、片方だけ右の耳に装着した。
それからイヤホンを携帯と接続し、プロレスの生配信をアプリで視聴できるようにした。
卑しくもまだ私はプロレスの配信を諦めてなかった。
携帯は台所に置きつつ、耳で状況は確認できる状態だ。

おでん鍋がぐつぐつしたところで火を止め、パートナーの元に駆け寄った。
パートナーは横になりながら携帯をいじっていた。
一見余裕がありそうだが、まだお腹は張っているようだ。
とりあえずこのまま休んでもらいつつ、プロレスが終わったら帰るのが目的を達成する上での最適解だと思った。
しかし、この状況下でプロレス観戦するのも難しい状況だ。
宴会の席で世間話に興じる代わりにパートナーに寄り添っているのであれば、まだ面目は保てるだろう。しかし、そっちのけでプロレスを観戦するなんて、とんだクソ野郎だ。

結果、私は何故か近くに置いてあった家電量販店のチラシをパートナーと眺めることにした。
それでパートナーの緊張が解け、お腹の張りが収まることに賭けた。そうすればプロレスを観ることができるかもしれない。
しかし、私の拙い計画も虚しく、全く変わりは無いようだ。
イヤホンからは清宮と拳王の試合が始まろうとしていた。この試合が終われば次はいよいよ注目の一戦が始まる。

ふと我に返り、パートナーも私のために無理をしてくれてる可能性もあることに気づいた。
そうなると私としても心苦しい。
私はパートナーにかかりつけの産婦人科の病院に連絡することを勧めた。
少し渋ったが、パートナーもそれに応じた。
パートナーが電話をしている間に帰り支度を始め、息子に事情を説明して早めに帰ることを伝えた。
息子は迷いなく承諾した。

程なくしてパートナーが電話を終えた。
医者が今は手が離せないらしく、助産師に状況を伝えてあるので、手が空いたら折り返してくれるそうだ。
イヤホンからはアナウンサーの声が脳まで響き渡り、試合が最高潮に達したのが明らかだった。

少ししてパートナーの携帯に折り返し電話がきた。
正月だからといって出歩いてはダメだと言われたようだった。
イヤホンからは試合終了のゴングが鳴り響いた。

お腹の張りを和らげる薬を処方してもらっているので、帰って薬を飲んで、今日は休むことになった。

イヤホンからはすでに中邑の入場曲が流れ始めている。
一瞬、迷って私はイヤホンを外した。

しばらくして、パートナーの弟に車で送ってもらい、パートナーと息子と私は帰宅した。

その頃にはプロレスの一戦はすでに終わっていた。

帰ってきて息子は言った。
「もっとみんなと一緒にいたかったな。」
帰るまでは何も言わなかったが息子にも葛藤があったのかなと思った。
ただ、息子は私とパートナーが話している間、台所のテレビでYoutubeを見まくっていたので、ある程度満たされたからかもしれない。

イヤホンを外したあの時点で、中邑の入場曲がかかった瞬間、すでに私は高揚していて満たされていた。
なので諦めがついたのかもしれない。

そして何より、あの日のパートナーの気遣いが嬉しかった。
私には何を置いてもパートナーが一番のようだ。

ただ、すぐにイヤホンを外さなかった罪悪感が少しあったのか、まだ武藤と中邑の試合はまだ観ていない。

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