【エッセイ】学年概念は毒か薬か

生きとし生けるものすべてに誕生日がある。
年齢は記号だよととりあえず先に自分から申告しておくと楽である。
楽であると感じるのは記号に縛られている証であって年齢に思うことがある人ではないだろうか。私はそうである。
お笑い界では第7世代が旋風を巻き起こしている。若くてフレッシュな春の風だ。当たり前だがそのうち第8世代がその役を担う日がやって来るわけだが、もう時の流れにはさからえないのだ。
年々同い年、もしくは同学年への思い入れが強まっている。
初めて読んだナンシー関さんの本「何が何だか」(角川文庫)の137ページの【「学年概念」。この有名人が同じクラスだったら……】という話が妙にしっくりくる。
ナンシーさんも学年の概念にこだわった一人であった。こだわりたくてこだわったわけではないだろうが、ナンシーさんの気持ちが痛いほどわかる。
学年概念など都合の良い約束事であって同じ年に生まれても早生まれというだけで学年を分けられてしまう。よく考えれば理不尽な話だ。同い年とは呼べないのに同じ教室で一年間学びを共にする。この多感な時代の集団生活は将来眩い思い出として燦然と輝くのだ。
それほど同学年とはかけがえのない存在なのだ。
決して若いとは呼べなくなった時でもまだ自分は若いと信じたい時がある。
私は1983年生まれの38歳。ファミコン発売、朝ドラ「おしん」放送、東京ディズニーランド開園…
中森明菜様は「1/2の神話」でいい加減にして~!とカメラに指をさしていた年でもある。
分かっている。決して若くないことは。
でも、そんな時私は私を励まさねばならない。


「嵐の松潤と同じ学年じゃん!ニノもじゃん!山田孝之さんも宮野真守さんも同じクラスになってたかもしれないじゃん!」

狂気じみた妄想はアクセル全開である。

でもそれで平静を保てるのだ。
人はいつまでも若くいたい、されたい(はず)だ。
放り出された年齢の宇宙は真っ暗闇が果てしなくどこまでも広がっている。それはそれは心細いものだ。漂流しながら同じ学舎の友を求め教室の灯りを目指す。
そして美化された学校生活を夢見る。
圭子の夢は夜ひらくのだ。

数字からは逃げられない。
学年概念は毒か薬か。
幻想か。

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