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大人は進化するのかー拾う人=ホモ・エクスペチラン
4歳下の妹は、幼少時、「拾ってくる子」だったようだ。
未だに覚えていることがある。
とある日のお出かけ、母と私と妹の3人で 歩いていて、 幼稚園生になるかならないかぐらいの年齢の妹は、母と手をつなぎながら歩いていたと思う。
市街地の大きな横断歩道を最後まで渡りきるかどうか、というタイミングで、 母が「あぁっ」と 声を上げた。 何があったかと驚く私の目の前で、妹を引っ張って慌てて歩道に移動した母が、妹から何かを取り上げている。
母は「信じられないような素早さだ」「妹がこんなものを拾い、ポケットに突っ込んだよ」「 また何でこんな変なものを拾うのか」 と言うようなことを、 怒りながら 鹿児島弁でガンガンまくし立てる。
母の手には 20センチ位の長さの竹片が握られていた。「なんでそんなものを」「 あんな場所でよく見つけたな」と思うと同時に、「ちょっといい形だよな」とも思った。 車やトラックに何十回と踏みつぶされ、 アスファルトで削られ続けたその竹辺は 先の方が茶道に使う茶杓のような形になっていた。
驚いたのは、妹の衝撃的なスピードだった。 母と妹と私は全く速度を落とすことなく、一定のスピードで歩いていて、 私は妹が瞬間的に腰を落として竹辺を拾ってたことに一切、気がつかなかった。 妹の技は、鮮やかと言ってもいいほどだった。
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はっきり言って、まんまスパイのスピードだった。 ほら、 映画なんかでよくあるじゃないですか、 人混みの中で、通りすがり、情報の入った買い物袋を交換して、 そ知らぬ顔で2人とも現場を離れていくあれですよ。
自分より小さくて、面倒を見てあげなければならない存在であると思っていた妹の、違う一面を知った気がして、結構、衝撃的だった。
この事件と関連して思い出すのは、またしても母が洗濯機の前で「またこの子は、何でこんなものをポケットに入れてくるのか」と嘆きまじりに鹿児島弁で捲し立てている記憶だ。
2つのエピソードを通して、私は、「小さな子というものは、色々ものを拾ってくるものらしい」「小さな子が拾うという行為を否定する大人がいるようだ」ということを認識した。
時は流れて、私自身が子どもを育てるようになった。
ある日、息子のズボンを洗濯しようとして気づいた。ポケットに何か入っている。
取り出してみると、「何でこんな物が?」という謎アイテムだった。はっと気づく。これは、妹がやってたアレではないか!
そうか、この時期がきたか、と思った。我が子も「拾う人=ホモ・エクスチぺラン(✳︎私命名)」だったのだ。
拾うことを怒らないようにしよう、と思った。ホモ・エクスチぺランにとって拾うことが自然であるのなら、それを否定したり矯正したりするのはよくないんじゃないか。それに、10年拾い続けるわけでは無いだろうし。
それから、洗濯機の横で、息子のポケットから何か不思議なモノを取り出す日々が始まった。
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謎の拾得物は、発見を免れ、小一時間洗濯機の中で洗われて綺麗に磨かれることもある。
拾得物はポケットの中以外の場所で発見されることもあった。息子は何を考えてか、玄関の上り框のど真ん中やソファの上に、5ミリほどのアイテムをちんまりと乗せていることがよくあった。
ホモ・エクスチぺランは拾った後は大抵、忘れる。モズがせっせと作ったハヤニエを忘れて放置してしまうが如く、拾得した後はなぜか見向きもしない。
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初めのうちは、その謎アイテムを洗濯機の横でポケットから取り出すたび、玄関やソファや食卓の上に発見するたび、「後から使うのかも」と思い、小箱に入れて、目のつくところに置いておいた。
しかし、先にも述べた通り、息子は拾った後は見向きもしない。
拾得は途切れることなく続く。
はじめは、小箱に溜まったそれを、定期的にこっそりと庭に捨てていた。
だんだん、「いつまで続くんだろう」と思うようになってきた。
「捨てる」というごく短いオプション家事ではあるが、「意味がないことに飽きちゃったよ」と脳が判断したということなのだろう。
「ちょっと嫌になってきたなあ」という気分を抱えながら、洗濯機の後ろの小窓の前に「とりあえず置き」してあった、今日と昨日と一昨日かその前の拾得物を眺めているうちに、「なぜ、この石がいいと思ったのだろう」という疑問が浮かんできた。
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息子が何かを感じて拾った時のことを想像してみる。古生物学者並みの判断力で、他の誰も気に留めないようなカケラを地面から削り出し、スパイか鑑識並みの分析力でアスファルトの上の証拠品を拾い上げる。
どこで拾ったのか、誰と一緒だったのか、一人だったのか、ポケットに入れた理由は何だったのか。
「可愛い」「後から工作に使おう」「武器に似ている」「今度、何か緊急事態が起きた時にこれで身を守る」「なんか形が好き」そんなことを考えて拾得したものをポケットに突っ込むホモ・エクスチぺランのことを想像していたら、面白くなってきた。
外に放り投げる前に、記録を取ってみようと思った。
拾得物のラインナップが意味不明なものの羅列だったら笑えるし、何か一連の意味を見出すことができたら、それはそれで面白いじゃないか。
それから、洗濯機の横で拾得物を取り出し、写真を撮って小箱に入れるという作業がルーティーンに加わった。作業は増えたのに、ウンザリ感は無い。むしろ面白かった。
息子は、自分の拾得物を私がいちいち批評していることに気づかないだろう。下手すると、一生。それも笑える。
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ある日、ホモ・エスペチランの「拾得期」は、はじまった時と同じぐらい、唐突に終わった。
拾うという行為に飽きたのか、意味を見出せなくなったたのか、ともかくやり切った、ということだろう。
家事の手間が消えたのは喜ばしいことのはずなのに、少し、残念な感じすらした。
嬉しいような、寂しいような、という親の勝手な惜別を味わいながら、改めて思う。
子どもは成長する。誰にも止めることはできない。
過去はまるで別の人間、別種の生き物のようだ。蝶が青虫に戻ることができないように、過去に戻ることはない。
子どもだけだろうか。
大人も成長する。
大人だって変わることができる。青虫が蝶になるような、ヤゴがトンボになるような鮮やかな変身ではないかもしれない。それは時間をかけた、小さな変化の積み重ねだ。それでも、変わることができる。
ただ、大人の成長は見えにくい。
本人の目に写るのは、髪が白くなり、皮膚から水気が失なわれ、体力が衰えていく、むしろ「劣化」ばかりだ、と思うかもしれない。
でも、コーチなら気づく。小さな成長に、揺れ動く気持ちに、未来を変えようと考える意志に気づく。
子どもではなくなった人の進化を、見守り、一緒に喜び、必要があれば手を差し伸べる。
私がコーチングセッションでやっていることは、ホモ・エクスペチランの進化の観測と同じことなのかもしれない。
ところで、完全にストップしたと思っていた拾得が、最近再び復活(息子は現在小6)。
何かと思ったらコレ
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息子談「珍しくない?缶ジュースの缶が落ちてるんじゃなくて、自販機の中に入ってるサンプルだよ。珍しいっていうか、なんでこれが落ちてるのか不思議じゃない?」
息子は相変わらず、一旦拾ったら気持ちが離れ、放置している。
置き去りにされた拾得物を片付けながら、これはまだ続くかもしれない、と思った。
面白いような、怖いような・・・笑
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