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椿の花は首から落ちる【短編小説】

小説は最後まで無料、制作裏話のみ有料です。


「赤ちゃんができたの」

 夕飯を囲む食卓で、椿はなんの前触れもなしに切り出した。

 アカチャン?

 話を理解出来なくて、向かいに座る彼女の顔をただ見つめるだけだった。椿は、綺麗に整った顔を強張らせて、私たちの反応を窺っている。

 母が私の横で何か言った。続けて父も口を開く。二人の声は驚く程小さくて、私の耳には届かなかった。でも、椿には届いているようで、彼女の顔は緊張から解放され、くりくりとした大きな瞳は涙でいっぱいになった。

 私も口を開こうとした。だけど、何を言っていいかわからない。それは、ある意味で当然だった。椿のお腹にいる子は、哲真の子なのだから。


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 椿は、どこもかしこも完璧なひとつ違いの私の妹。大きな瞳、スッと通った鼻筋、柔らかそうな唇。小さな顔と長い手足はまるでモデルのようだったし、頭も良くて運動もよく出来た。

 対して私は、椿と比べて何もかもが駄目だった。一重の細い目。ぽっちゃりした胴体。それに、勉強も運動も出来なかった。私たちは姉妹とは思えない程差異が大きかった。

 私の欲しかった多くのものを、椿は生まれながらにして持っていた。だけど、彼女を憎んだことはない。うらやましいと思ったことや、劣等感を抱いたことはあったけど、何よりも椿が好きだったから。

 私たちは仲が良く、遊ぶのもご飯を食べるのも、お風呂に入るのも眠るのも、何をするのもずっと一緒だった。「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と私に駆け寄ってくる椿のことを可愛いと思っていたし、そうやって甘えてくる彼女の面倒を見るのが好きだった。

 でも、一度だけ大喧嘩をしたことがある。それが哲真のことだった。


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「お姉ちゃん、ごめんね」

 大人二人が入るには少し狭いバスルーム。湯船に浸かって体を温めていると、浴槽の向こうで、体を泡だらけにしていた椿が小さな声で話しかけてきた。

 ゴメンネ?
 真意がわからなくて、眉間に皺を寄せる。

「哲真くんとのこと。びっくりしたでしょ、何も相談しなかったから」

 椿がその話を切り出したことの方に驚いた。

 私の元彼で、椿のお腹の子の父親である、幼馴染みの哲真。私たちの間で、彼の話題は出来る限りタブーだった。

 真っ直ぐ私のことを見てくれるから、ずっと哲真のことが好きだった。

 よく出来る椿と比べられる私は、椿のことが好きなのに、どこか妬ましく思ってしまう一種のコンプレックスのようなものを抱えていて、幼い頃からそんな感情に悩まされていた。

 でも、それを理解してくれたのが哲真だった。彼は、私と椿を比べるようなことを決してしなかったし、私が不出来なりに、全てのことを一生懸命取り組んでいたのにきちんと気付いてくれていた。こうやって哲真が私を見てくれていたから、椿を憎んだりせずに済んだのだと思う。

 高校生の時、念願叶って哲真と付き合い始めたけれど、そう長くは続かなかった。

 哲真が浮気をしたのだ。
 しかも、その浮気相手は椿だった。

 私と椿が大喧嘩をしたのはこの時だった。でも、結局、椿に彼を譲って終わらせた。だって、私よりずっと美人で完璧な椿だもの。哲真だって人間なんだから。完璧なものを求めるのは当然でしょ?

「お姉ちゃん?」

 乳白色のお湯に視線を落としていた私を、椿が呼んだ。ハッとして顔をあげる。いけない、嫌な記憶を掘り返す所だった。

「驚くに決まってるでしょ、デキ婚なんて」

「ごめんね。早く話さなきゃ、って思ってたんだけど」

「いいわよ、話しづらいのはしょうがないし……。でも、私のことは気にしなくていいのよ? 私たちが付き合ってたのなんて、もう十年も前なんだし。だから、ちゃんと話してね。私たち、二人きりの姉妹なんだから」

 私がそう言って笑いかけると、椿は眉毛をへの字に曲げ、今にも泣き出しそうな顔になって頷いた。もう、情けない顔。苦笑してしまう。

「……じゃあ、早速相談なんだけど」

 と、言いながら、椿はお湯をかけて全身の泡を洗い流し、狭い湯船に無理矢理入ってきた。

「結婚式の時、私の髪をお姉ちゃんにセットしてもらいたいの、だめかな?」

 椿は大きな瞳をキラキラ輝かせ、少しこちらに身を乗り出した。
 ケッコンシキ?

「するの? お腹大きくなっちゃうのに?」
「お腹があんまり目立たないうちにするって言ったじゃない」
「あ、ああ、そうだったっけ。わかった、いいよ」

 さっき、そんな話までしてたのか。全然聞いてなかった。まぁでも、椿の頼みなら、最初から答えはひとつなんだけど。


___


 よく晴れた日、ブランコのある大きな庭に、小さな女の子たちの笑い声が響いていた。

「いらっしゃいませー。今日はいかがなさいますか」
「これからパーティーに行くの! それに合う素敵なヘアスタイルにして下さいっ」

 この場面をよく知っていた。少女たちは私と椿だ。幼い頃、自宅の庭でよく美容師ごっこをしていた。ブランコの後ろに立つ私が美容師で、ブランコに座っている椿がお客さん。可愛い髪型にしてあげると、お姫様になったみたい、と椿が喜んでくれるから、この遊びがとても好きだった。

「かすみ、ちょっといらっしゃい」

 幼い私が、幼い椿の髪を櫛で梳かし始めると、縁側から母が顔を覗かせた。私は母の元に走って行く。すると、母はバツ印のたくさんついたテストを私に突き付けてきた。

「なんなのこの点数は!」

 母の怒鳴り声に、ビクッと体を震わせた。テストで悪い点数を取ると、いつもこうやって叱られた。母は、どこからか丸ばかりの椿のテストを取り出して見比べ、溜息を吐く。

「どうして椿は出来るのに、お姉ちゃんは出来ないの」

たまに、母は私にそう言った。


___


「——茶屋、花見茶屋」

 電車が地元の駅に到着すると、グッドタイミングで目を覚まし、いそいそと電車を降りた。久しぶりに、子供の頃の懐かしい夢を見た。思い出したくないこともあったせいか、少しだけ気持ちが悪い。ヘドロのようにネチネチした、真っ黒く汚れたものが喉から胃にかけて詰まっている感じがする。

「かすみ!」

 改札を通り抜けた時、後ろから声をかけられた。振り返ると、ネクタイを緩めたスーツ姿の背の高い男がいる。哲真だった。

「今帰り? 遅くねぇ?」
「残業。常連さんが閉店後じゃないと来られないって言うから」
「そっか。かすみ、表参道で人気の美容師だもんなぁ」

 夜の帳が下りた町を、自然と肩を並べて歩き出した。

 最後に哲真と会ったのは一ヵ月くらい前だったと思う。椿が妊娠を告白した、次の日曜日。彼がうちの両親に挨拶をしに来たのだ。あの告白からもう一ヵ月経つのだから、月日の流れって本当に恐ろしい。そうこうしている間に二人は結婚し、お腹の子もいつの間にか生まれているのだろう。

 彼とくだらない話をしながら、頭ではその子が出来る工程を想像していた。哲真の程良く筋肉のついた体と、椿のスレンダーな真っ白い体が絡み合う。哲真の熱い息、椿の甲高い嬌声……。

 ああ、気持ち悪い。
 哲真は同じ体で私を抱いたのに。

 別れ際、私の家の前で、哲真はいつかの椿みたいに「ごめん」と言った。どんな意味なのか最初はわからなかったけど、椿のそれと同じ種類の意味だとわかると、喉の向こうのヘドロが渦を巻いて込み上げてきそうになった。そのヘドロを無理矢理呑み込んで、体の奥の方に押しやる。

「今更。椿のこと、幸せにしてくれるまで許さないから」

からかうと、彼はホッとしたように笑って、背を向けて歩き出した。……椿みたいに完璧だったら、哲真は離れていかなかったのかな。 


___


 どしゃぶりの雨の中を、ビニール傘をさしたセーラー服姿の女子高生が走っていた。女子高生にも、この場面にも見覚えがある。ああ、また昔の夢を見ているみたい。

 この日、高校から家に帰ったら、美容学校の合格通知が届いていた。それを恋人の哲真に見せるために、大雨の町を走っていたのだ。

 行き慣れた哲真の家。二階にある彼の部屋に向かって、階段を上る私の足は軽やかだった。

「哲真! 見て見——」

 彼の部屋のドアを勢いよく開けた。でも、その部屋で起こっている出来事を目の当たりにして、言葉を失ってしまう。椿と哲真が、紺色のベッドの上で体を重ねていたのだった。

 この出来事が、生きてきた中で一番の地獄で、屈辱だった。日常生活では出来るだけ思い出さないようにしていたのに。こんな夢の中で思い出してしまうなんて。


___


 喉の奥から胃の辺りまでを埋め尽くしていたヘドロが沸き上がってくる。そんな感覚に息苦しくなって目を覚ました。突っ伏していたテーブルの上から体を起こし、椅子の背もたれに寄りかかる。

 テーブルの上に置いてあるデジタル時計は、もう午前二時を回っていた。十二時間後には、椿の結婚式が始まっている。

 押しつぶして寝ていたウエディング用のヘアーカタログをパラパラ捲った。どんな風に椿の髪をセットするか、まだ大体しか決まってない。椿は何でも似合うから、どんな風にしても問題ないだろうけど……。いくつかある候補の中から椿と相談して、彼女が選んだものにしよう。

 太さの違うヘアーアイロンを何本か、あとヘアスプレーとワックス、櫛にヘアピンにハサミ、普段から愛用している道具を鞄に詰め込んだ。

 とうとう椿と哲真が結婚する。明日、椿は、女の子なら誰でも夢見る、美しく幸せな花嫁になるのだ。


___


 結婚式当日、純白のウエディングドレスを着た椿は、とても幸せそうだったから、いつもに増して美しかった。

 肩を出したエンパイアラインのドレスには、薔薇の刺繍が裾の細部まで施されていて、エレガントな雰囲気を醸し出していた。お腹のラインが目立たないよう視線を上にあげるために、胸元には大きなリボンをあしらっている。

「どんな髪型にしてくれるのか楽しみ!」

 化粧台の前に座った椿は、美容師ごっこをしていたあの頃みたいに無邪気に笑っていた。椿の長い黒髪を櫛で梳かし始める。美しい髪は通りが良くて、一度もつっかえることがない。

 椿の髪を梳かしながら、もし椿が生まれてこなかったら、今頃どうなっていたのだろうと、ふと考えていた。

 もし椿がこの世に生を受けなかったら、比べられることもなかったし、哲真をとられることもなかったんじゃないだろうか。もし椿がいなかったら、今椿の場所にいたのは私だったのかもしれない。今頃このお腹に、私と哲真の子を孕んでいたのかもしれないのに。

 そんなことを考えたら、泣きたくなるほど椿が憎らしくなった。

 どうして今になってこんなに椿が憎いの?
 椿がとても幸せそうで、綺麗だから?
 今まで椿を憎いなんて思ったことなかったのに。

 ……本当に?

 私は本当に椿を憎いと思ったことがないのだろうか?

 椿は、私の欲しいものを生まれながらにして全部持っていたし、哲真だって、欲しかった未来だって奪っていったのに。

 椿の髪を梳かし終えると、背後のミニテーブルに広げて置いていたシザーケースに櫛を戻した。

 ……あれ?

 シザーケースの中に行儀良く収まっている銀のハサミの煌めきに、瞳が吸い寄せられる。髪をセットするのに、ハサミはいらないのに。どうして持ってきてしまったのだろう。

 右手が銀のハサミを掴んだ時、喉の奥に詰まっていた黒いヘドロが、急にサラサラと溶け始めるのを感じた。粘り気を失った黒い物が、静かに全身に通っていく。

 何もかも、わかったような気がした。
 黒いヘドロの正体も、このハサミの意味も、椿への本当の気持ちも、何もかも。

「ねぇ、椿」

 幸せに満ち溢れた目をした椿が、鏡を通して私を見つめ返す。その時、彼女に対する愛情は一切なかった。私を動かしていたのは憎しみだけ。それ以外、何もない。

 鏡に映る私の右手は銀のハサミを持ち、よく研いであるハサミの刃を、椿の真っ白な首に押し当てた。

「もう十分幸せでしょう? お願いだから私にも少しちょうだい」

 左手で椿の小さな頭を押さえ、右手に力を入れた。鋭い刃が柔らかな首に食い込む。鮮やかな赤が、噴き出した。


(おわり)


*制作裏話

(どうやってこの物語が生まれたのかとか、私なりの物語の書き方みたいなことをつらつらと書いています。面白かった方はお駄賃代わりに購入していただけたら嬉しいです…!)

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