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短編小説【ホームシェア】

「ホームシェア」あらすじ

 企業戦士として全てを会社に捧げた「礼二」は定年後5年間の延長も終え、妻の「晴美」と二人…水入らずの生活を満喫。
家庭も顧みず一切を任せっぱなしにした晴美と、ゆっくり温泉旅行も楽しみ、遊んだ記憶も少ない「息子」も立派に育ち独立していたが、「2人の孫」にも何度か会いに行った。

 礼二の懺悔の気持は晴れたかに思えたが、以外にもそうではなかった。何かポッカリと心に空洞が出来ていた。
 礼二にも、それが何かは分からなかったのである。妻の晴美は、そんな礼二をもどかしく思い、あれこれ勧めたがうわの空だった。

 そんな折、晴美の友達つながりで【ホームシェア】の話しが舞い込んだ。
年配者の家で若者が一緒に生活をすると言う最近話題の話しである。

「大町文代」は、父親を知らない20代半ばの女性で、出来れば「夫婦の家庭」で一緒に生活がしてみたい…との希望があった。不動産屋の仲介で、礼二の家にホームシェアすることになったのである。

 どこにでもある家庭の話しだが、そこにはお互いに埋められなかったものが、ついに埋められ長年、心につかえていたものがスッキリすると言う、ホームドラマであり、爽やかな読後感が得られるのでは…と。

「ホームシェア」

 妻の「晴美」は、大学時代からの友人達と一泊旅行に出かけた。その晩、夫の「礼二」は一人、DVD映画を見るともなく見ていた。
酒を口にする代わりに、たしなむ程度のワインが、今の礼二には心地よかった。

 六十歳の定年を過ぎ、再雇用制度の五年間も勤め上げ、サラリーマンを卒業したのである。肩書という窮屈《きゅうくつ》な鎧《よろい》も脱いだ。
「男は仕事、女は家庭」
 誰に言われた訳じゃない。家訓めいた言葉を、信じるでもなく疑うでもなく、いつしか礼二の頭に、ピン留めされていたのである。

 ガムシャラに走り続け、家庭を顧《かえり》みることもなく、自分を捧げ尽くした企業戦士。その任務を終えた老兵がここにも一人いた。
 三つ歳下で専業主婦の「晴美」は、家事一切を担い、子育てもしてくれた。「息子」は立派に育ち、今では東京で独立し「二人の孫」もいる。

 晴美にも実は、二人目を身ごもった時期があった。しかし、無理が生じて流産してしまったのである。
「女の子よ」
お腹をさすりながら、楽しみにしていた晴美だったが、新しい命の灯火《ともしび》は無情にも儚く消えてしまった。
「あの時、家にいてサポートしていれば」
 そんな悔いの念が「礼二」に、ずっとまとわりついたのである。頑張って二人目を、との期待にも応えることは出来なかった。

 仕事を辞めたら晴美と、のんびり温泉旅行にでも行こう。礼二は、そう心に言い聞かせていた。そして、ここ数年でその夢も叶えた。孫たちにも会いに行ったり、晴美と水入らずの時間を過ごしてきたのだった。
 だが礼二の胸には、なぜかポッカリと穴が空いているのである。
「何だろう、これは?」
 行き先を見失った舟が、大海原に漂流している。羅針盤を持たない俺の不始末なのか。それとも・・。

 有り余るエネルギーで、闘い続けた企業戦士は今、見る影もなく彷徨《さまよ》っている。
「あなたも何か見つけたらどう?」
晴美が時々、そんな声掛けをするが、礼二は取り立てて何かをする気持ちが湧いては来なかった。
 晴美は、料理や縫物、着付け等、女としてのたしなみをコツコツ身につけてきた。還暦を過ぎた女には、とても見えない。

「着付けのほう、行ってきますね」
襟元に手を添えながら、嬉しそうに部屋を出る晴美を、礼二は週に一度は見送っていた。和服姿の、しなやかな所作に漂う色香は、歳を感じさせない魅力があった。
 そんな晴美からすれば、一番近くにいる礼二を、もどかしく思ったであろう。

礼二は午前中、リビングを包む陽射しを浴びながら、くつろぐ日が多かった。
「自然界とは、上手く出来てるんだなぁ」
 冬は太陽の位置が低いため、陽射しは部屋の奥まで入ってくるのである。夏の太陽は逆に、高い位置を移動するため、陽射しは部屋の入口あたりをかすめる程度なのだ。
 知識はあったが、身体で実感したのも、サラリーマンを終えてからのことだった。

 礼二は、たまに図書館に行ったり、映画館に行ったり、行きつけの喫茶店で半日、本を読んだりしていた。
 小さな庭に、晴美がコツコツ育てた家庭菜園や、季節の花々が咲いて、礼二を楽しませてくれたりもした。

 晴美は強かった。息子が反抗期の時も、全部受け止め乗り切ってくれたのである。礼二が夜遅く帰ると、食卓に顔を伏せながら泣いている日もよくあった。それでも、翌朝は家族のために、辛い身体を押して弁当もつくり、送り出してくれたのだった。
 晴美にも息子にも、何もしてやれなかった不甲斐なさが蘇ると、礼二は今でも胸が痛むのである。

 そんな時代を乗り越えて、妻という木は逞しくなった。しっかりと根を張り、頼もしさを感じるのだった。
 晴美といれば、何かと会話もあるし気もまぎれるが、一人になると、考えることが暗くなってしまう。歳をとると、ひがみっぽくなるらしいが俺もその口か。はたまた、認知症の前触れなのか。

 そんな時であった。
晴美が、「ホームシェア」の話を持ちかけてきたのである。最近の高齢化・少子化時代にあって、老夫婦の家に若者が宿泊するという、あの話題である。
「少しのリフォームで出来ると思うの」
晴美はそう言いながら、礼二の隣に座ってパンフレットを広げた。

 長男が使っていた部屋を、女性限定にして賃貸契約を結ぶというのである。東京では仲介するNPO法人もあり、オーナーも入居者も安心感があるらしい。礼二の住む名古屋でもあるようだが、晴美の主婦友つながりで、親切で熱心な不動産屋がいるから大丈夫だと言った。

「ほんとに上手くやっていけるのか?」
礼二は内心、不安が募った。しかし、晴美が真剣に考えているのなら、反対する理由は見つからなかった。
「高齢者と若者。いいと思わない?」
 晴美は、人の面倒を見るのが好きだし、会話もうまい、料理も得意だ。あとは、どんな女性が入居するかであろう。

 家の間取りは、長男が結婚しても同居できるようにと、バストイレの水回り等は別にしてあったのだ。
玄関は一つだが、廊下で繋《つな》げることは簡単に出来るし、必要なら別にしたっていい。そんなに費用はかかるまい。
プライベートの空間さえ、きちんと区別しておけば何とかなるのではないか。
 礼二は、その程度に考えて
「不動産屋と話し合ってみるか」
と返事をしたのである。


 もうひとつ礼二には、ある期待もあった。心にポッカリ空いた空洞が埋めれるかも知れない、と思ったからである。
 早速、不動産屋が来て、とんとん拍子でことは進み、ある程度の準備が整った。同じ頃、礼二夫婦に相応しい入居希望者の話を、不動産屋が持って来たのである。その話によると、大町文代という、二十代を折り返したばかりの明るい女性だが、ひとつだけ希望があるというのだ。

「大町文代」は、富山の大学を卒業後、名古屋の商社に就職して三年が過ぎようとしていた。ワンルーム生活をしていたが、何か物足りない日々を送っていたらしい。
「父親を知らないんです、わたし」
 母親と弟の三人暮らしで、父親の顔は憶えていないと言う。文代が二歳の時、交通事故で亡くなったと、母親から聞かされていた。

 苦労した母親の姿を、嫌と言うほど見てきたので、文代はは幸せな家庭を夢見ていた。そんな時、友達がホームシェアしていることを知った。
ご主人を亡くし、一軒家で孤独な一人暮らしをしている老婦人が、若者と一緒に生活してみたいとの希望があり、友達が入居した。文代は、その家に遊びに行った。綺麗にリフォームされ、バストイレも別にあった。食事だけは、一緒にしているようだった。きさくで明るく優しい老婦人で、文代も嬉しくなったと言う。
 老婦人の寂しさは消えて、すっかり元気を取り戻した。友達も、プラスになることを多く学んでいたらしい。

 このシステムは、これから益々広がっていくかも知れない。文代はそんな期待も寄せたというのである。
また、不動産屋はこうも言った。
積極的に展開中で、他の物件もいくつかあること。そして今後、若者と年配者の仲介役をするNPO法人を設立する方向で動いているのだと。
 老婦人の家で、文代も一緒にどうか、という話も出た。しかし文代は、父親の顔を知らずに育っている。たまに他所《よそ》の家で、両親と囲む団欒が、何とも羨《うらや》ましかった。
 出来ることなら、夫婦のオーナーと家族のように暮らしたい、と申し出たのである。

 不動産屋の話しを聞いた礼二は、少しためらった。晴美はいいとしても俺は男だ。玄関も、食事も別にするならともかく。
 あと数年で古希を迎えるが身体は元気だ。身だしなみは綺麗なほうである。髪も爪も鼻毛もしかり。企業戦士時代に身に着けたことは、習い性となっている。そんな男が、若い女の子と同居する。
「大丈夫かな?」
礼二は、腕組みをして考え込んだ。

 若いころは遊んだものだ。男と女の物語の一つや二つ、無い訳じゃない。女心と男心の違いに戸惑ったこともあった。
 上役に連れられ、キャバレーに行ったこともある。接待でクラブにも通った。酒が入ると人格が変わる、ということも知っている。だが、そんな場所で成立した商談も、礼二は幾つも経験していた。太陽がキラキラ輝いている時間だけが、企業戦士の仕事場では無かった。暗闇に獲物を狙う動物のように、ギラギラする男の目は、夜の街が好きなのである。男と言っても、本能の部分ではあくまでオスであることに変わりはない。自分を制御するのは、難しいものなのだ。

「大丈夫よ」
ためらいがちに見えたのか、晴美が礼二を宥《なだ》めるように言った。
 礼二は、あれこれ考えた末《すえ》に、やはり我が家で受け入れようと決めた。断れば、他所《よそ》に行くであろう。それよりも、我が家で何とか希望を叶えさせてあげたい。
 礼二にはもう一つ、決めた理由があった。晴美が長女の流産で、果たせなかった「女の子」との暮らしである。

 不思議なめぐり合わせでこうなったのも、きっと意味があるに違いない。これで晴美の叶わなかった夢が叶うのなら。いや、礼二自身がずっと抱えていた晴美への、懺悔《ざんげ》の思いが少しでも晴れてくれるなら。そんな気持ちもあったのである。

 礼二の家に、文代がホームシェアを始めてから、すでに四ケ月が過ぎていた。
 晴美の努力もあり、今ではスッカリ家族の一員となっていた。何よりも、晴美と文代の関係が面白い。まるで友達みたいに見えるのだ。母親と娘というのは、小さい頃は親子だけれど、結婚して子供が産まれると、友達みたいな関係になるそうだ。晴美と文代も一緒にいると、とにかく良く喋るのである。

これも男と女の違いだなぁと、礼二は苦笑いしながら見つめているのだった。
 父親との生活経験がない文代だったが、礼二もまた、娘との暮らしは初めてなのだ。新鮮でワクワクするような反面、戸惑いもあったが、少しずつ文代と会話を重ねた。あまり自分から文代に入り込むことはせず、むしろ聞き役に回っていたのである。

 食卓では、晴美のリードで文代の話は聴ける。礼二は相槌《あいづち》を打ちながら時折り、文代から言葉を引き出すように心がけていた。
「僕に出来ることがあれば、遠慮なくね」
と、言葉を添えることもあった。
 たまに三人で外食したりもする。

ある日のこと
「行ってきま~す」
見違えるような着物姿で、礼二の前に立つ文代は、どうですかと言わんばかりの笑みをみせたのである。晴美に着せてもらったのだが、文代は嬉しくて友達に見せたいと言って出かけたのだった。

 ひと月ほど前、文代の母親が訪ねて来た時である。一度ご挨拶にと思いながら、遅くなってと恐縮されていた。礼二も晴美も全く気にしておらず、逆に文代さんのお陰で楽しい生活を送っているんです、と切り返すと母親は安堵された。
 晴美が、せっかくだから、と言って一泊していくことになった。礼二は、のっぴきならぬ用事で出かけたが、母親と晴美の二人だけで遅くまで話し合っていたようである。

 その後ぐらいだったか、文代は少し考え込むように、暗い表情を覗《のぞ》かせたりして、礼二は気になっていた。晴美に言うまでもないだろうと胸に収めていた。
 (回想ここまで)

その晴美が今、一泊旅行中で、自分は一人ワインを飲みながらDVD映画を見ている。ハッと吾に返った礼二は時計を見た。もう夜の九時半を過ぎていた。
 その時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
文代の声である。

 今日は珍しく酔って帰宅した。ドアが開くと、ふっくらと桜色した文代の笑顔が飛び込んできた。
「おかえり、上機嫌だね」
 礼二は、DVDの音量を下げながら笑顔で迎えた。職場の先輩が寿退社するというので、仲良しだけの送別会をしたらしい。
 外は北風が吹いてるというのに、リビングはまるで春が来たみたいになった。
 文代は、ショルダーバッグを無造作に置くと、礼二の隣に崩れるように座り込んでしまったのである。
 ソファーに背を預け、ブラウスに手を伸ばすと、少し苦しそうな仕草を見せた。スラリとした体形、肩まで伸びる黒い髪。ふっくらとした胸元が、男の視線を引き付ける。
「あーっ、わたし酔ったみたい」
タメ息なのか、呑みすぎた苦しさなのか。礼二は冷蔵庫のペットボトルの水を、コップに入れて文代に差し出した。
 若いころ礼二も、何度こうして晴美の手を煩《わずら》わせたことか。文代が一気に飲むのを、礼二は自分に重ねながら、微笑《ほほえ》ましく思った。
「あぁ美味しかった。ありがとう」
 そう言うなり文代は、礼二の膝に倒れ込むように持たれてきたのである。
「酔ってるな」
礼二は、そう思いながらも、そのままにしておいた。文代の温かい体温が伝わってきた。
「男と女って、いろいろあるんだね」
 文代はそう言いながら、さらに身体を寄せてきたのである。礼二の左膝にあった文代の頭が、さらに膝を越えそうな位置まで移動してきたのだった。そして礼二の膝を掴《つか》むように、文代は左手を添えてきた。こんなことは初めてだった。

 父親との思い出が少ない文代である。礼二を父に重ねるのも解らないではない。だが今夜の文代は少し様子が違っていた。
 腰と足をくねらせながら、小さな声が口元から漏れてくるのだ。礼二は、一瞬どまどいながらも、いま目の前に起きている状況を、じっと見守るしかなかった。
 七十に手が届きそうな男と言えど、まだまだ元気である。若いピチピチした女性が、ひとつ屋根の下で自分の膝に倒れ込んでいる。何も感じない筈はあるまい。文代は酔っているが意識はちゃんとしていた。

 礼二は、若いころ経験した映像が浮かんできた。数人で立ち寄ったカラオケボックスでのこと。酔っていた女性が突然、礼二に寄り掛かって来たのである。未亡人だった。
「大胆だなぁ」
と思った。あの時、燃えるような女体を、礼二の両腕に包み込んでいたら、彼女はどうしたのか。どんな展開が待ち受けていただろう。翌日も顔を合わせるのである。

 同じように今ここで礼二が、文代の髪をそっと撫でたなら、文代はどういう反応をするであろうか。文代の頬を指でさすったら、文代の左手に礼二の手のひらを重ねたら、文代の手は、じっとしてるだろうか。
 冷静な判断を狂わせるのが酒の勢いであることも、嫌というほど経験している。取り返しのつかない、男と女の関係に踏み込んでいくのも容易に想像ができた。そんな実例も礼二は知っている。かと言って、黙って放置するのもどうなのか。

 礼二に、あのクラブでの夜が蘇《よみがえ》ってきた。企業戦士時代、上役と一緒に大事な得意先の幹部を、クラブに招待した時である。商談もまとまりかけていた。その日は、クラブのママが、ずっと付き添っていたが、得意先の幹部が急用で帰ったのである。礼二の上役も一緒に出たのだが
「君はもう少し、ゆっくりして行き給え」
と、ママに目配せをして店を後にした。
 それから礼二は、ママと一時間ほど、二人で過ごしたのである。いつもより客足が少ないことも幸いした。

 酒に酔って絡んでくる客も後を絶たない。商売とはいえ、身体を張って夜の社交場を見事に取り仕切っているのである。
 礼二は、まずそのことに敬意を表した。
ママは笑みを浮かべ、軽く頭を下げながらビールを注《つ》いでくれた。
 黒を基調にした高級そうな着物。自分は主役ではない。お客様に花を持たせて、精一杯のもてなしをさせて頂きますよ。凛とした横顔が、そう語っているようにも見えた。
 歳は解らないが、その気品の高さ、しなやかな身のこなし、どれをとっても隙がない。惚れ惚れする女とは、こういう女を言うのだと礼二は思った。

 酔い客が手を握ってきても、それを嫌味のないように、そっと笑顔で交わす話もしてくれた。時には会社の秘密事項に触れることもあると言う。大勢の男を相手にしていると、見えてくるものが沢山あるとも言った。

「一流男はみな自然体です」

 ママのこの一言が、礼二の胸に今も突き刺さっていた。見る角度が違うのである。一流男は決して、しつこく絡んだり口説いたりはしないそうだ。とは言っても、恋心が芽生えることはないのだろうか。

「そりゃありますよ。女ですもの」

 夜の城で幾たび、修羅場を乗り越えたであろう。屈託のない表情には、その誇りや意地、涙、恋、悔しさも全て醸成された女の美しさと逞しさがあった。
 高級クラブで長年下積みをし、女手ひとつで築き上げた店である。一朝一夕で成し遂げられるものではない。金や物だけでは絶対につくれないものを、このママはつくり上げてきたのだ。

文代を前にして、礼二はあの日のママの言葉を思い浮かべていた。
 礼二夫婦を信じて、文代を預けた母親の顔や、妻の晴美の顔が浮かんできた。
「裏切ってはいけない」
 礼二は、ともすれば誘惑に持っていかれそうな、自分の手を宥《なだ》めていた。そして、文代の肩をやさしくポンと叩いた。
「風邪ひくよ」
と言い終わる否や、文代のバッグから携帯音が鳴った。文代は、むっくりと起き上がり礼二を見た。一瞬だったが、礼二を見つめる文代の目が、女の目をしていた。
「おやすみなさい」
 バッグから携帯を出しながら、文代は自分の部屋へと向かったのである。

翌日は日曜日だった。
久し振りに風もなく、リビングは穏やかな陽射しに包まれていた。礼二は日課とも言える新聞に目を落としている。
 文代も休日だったが、昨夜のことはスッカリ忘れたかのように、鼻歌を歌いながらキッチンに立っていた。

「お待たせしました」

 食卓に遅めの朝ご飯の支度が整った。とは言っても、簡単なパン食である。目玉焼き、野菜サラダなどがきれいに添えられていた。
「いまコーヒー、お持ちしますね」
 文代と二人だけで、日曜日を過ごすのも初めてである。
 礼二は不思議な感覚になった。父親と娘の食卓というシチェエーションは、もちろん初体験である。
「いいものだなぁ」
 本当の父娘であったらと、礼二はまた晴美の流産が蘇ってきた。が、すぐに切り替えた。 いつまでも過去を振り向いてはいかん。過去の出来事は変えれないが、今の想いを変えることで、過去の価値は変わるんだと言い聞かせた。

 文代の、白く綺麗な歯並びが、笑顔を一層引き立てている。昨夜、二人の体温が触れ合ったことで、なぜか距離感が近くなった気がした。それは文代の笑顔にも現れていたからである。

 新しい朝には 新しい何かが見える
 二人だけの空間を やさしく包む
 いつもの香り
 新しい一日を あなたに
 グッドモーニング

 随分前だが朝の食卓で、こんなポエムを見た。晴美が綴ったものだった。

文代と向かい合い、文代の入れたコーヒーを飲んでいる。礼二は至福のひと時だった。
 文代は仕事の内容について、あまり話すことはなかったが、人間関係の悩みなどについては、晴美によく話していたらしい。

「お母さんはその後、元気にされてる?」

ふと礼二は、気になることを思い出し、何気なく言葉を投げかけてみた。文代の母親が訪れた時、何かがあったのではないか。少し気になっていたからである。
 そしてその予感は、いま目の前にいる文代の笑顔が消えたことで的中したのである。
 文代も、礼二に話そうか迷ったと前置きし
「実は」
と、ポツリポツリ話し始めたのである。
 文代の母親と晴美が、遅くまで話し合っていた夜のこと。文代がトイレに起きた時、母親の泣き声がしたと言う。そっと聞き耳を立てていると、おおよそ次の内容だった。

 母親が文代を連れて、実家に帰っていた時のこと。夫である父親に迎えに来て欲しいと頼んだ。父は、仕事が忙しく行けないと言ったのだが、文代も小さいし、荷物もあるからと無理を言ったらしい。
 やむなく父は、翌日の夜に車を走らせた。だが途中で急な大雨になり、慣れない道もあってか、カーブでスリップし崖に落ちてしまったと言う。
 文代の母は、自分のせいで、文代から父親を奪ってしまったことを、悔やんでも悔やみきれないと言うのだった。
 ずっと後悔しているが、文代には真実を打ち明けられずにいた。いつか話そうと思いながら今に至っている。再婚話もあったが一切受けなかったという。

 父が、交通事故死であることは文代も知っていた。真実を初めて知り、母がそういう自責の念で再婚しなかったことに、文代はショックを隠せなかった。
 二十年以上も歳月は流れているのである。今更どうすることも出来ない過去に、人はこんなにも心を引きずられるものなのか。目をうるませながら文代は語ってくれた。

 晴美は、どう対処したのだろうか?
礼二は、ふと思ったが、文代はあの時、途中で部屋に戻ったという。
「そうだったのか」
礼二は、腕組みしながら目を閉じた。母親の気持ちは痛いほど分かる。

 ここでも礼二は、企業戦士時代の、ひとコマが浮かんできた。何の研修だったか、僧侶の講話を聴いたことがる。じんと胸に沁みてきた部分を、文代に聞かせるでもなしに、つぶやき始めたのだった。

「この世は無常であるのに、常と見ている。苦に満ちているのに、楽と考えている」

 つまり人は、物事を逆《さか》さまに見ていると言うのである。日本人が桜を愛してやまないのも、そこに常が無い。すなわち無常を感じるからであると。

「文代さんのお母さんの苦しみは、まさにこの苦しみだと思うね。人間のチカラでは、どうすることも出来ない領域ですから」

礼二は、そう呟きながら窓を見つめた。

「わたし、母を恨んではいないんです」

もうすべて忘れて、母の幸せだけを考えて生きて欲しいと付け加えたのである。

十二月にしては、温かい一日になった。
 晴美も一泊旅行から帰宅し、おみやげを囲んで、いつもの団欒が始まった。

「赤い温泉だったのよ。鉄分が多くて」

「エーッ、行ってみたい」

女二人が揃い、また賑やかになった。

 その後、晴美のアドバイスもあり、文代は母親あてに手紙を書いたらしい。母親から晴美に電話がかかってきたのは、それからすぐのことだった。
 母親は泣き崩れるように、文代の気持ちが嬉しかったと言うのである。

「長年、閊《つか》えていたものが取れました」

と喜んでくれたのだった。

 ホームシェアという未知の世界に、踏み込んだ夫婦である。悲惨なことになっては大変だが、少しでも役に立てたことに、礼二も晴美も安堵した。

慌ただしい一年も、暦に残された日は、数えるほどしかない。キッチンでは、晴美と文代が料理を作りながら、しきりに盛り上がっていた。礼二は聞き耳を立てた。

「じゃぁ、あとでタンスから出して見るね」

「わぁ、嬉しい」

「着付けの先生ね、ご実家が老舗の呉服屋さんなのよ。教室でも、晴れ着か   ら男物の着物までいっぱいあるのよ」

どうやら初詣に着る、文代の晴れ着の話だったのである。

「文代さん、お願い、このお鍋ちょっとかき混ぜてくれる」

 晴美はウキウキしながら、食器棚の皿を取り出していた。

「主人も最初は嫌がってたのね。だけど皆に褒められたらスッカリ気にいっちゃって」

「あっそう言えば、アルバムに載ってましたね。ご夫婦で」

 文代は鍋をかき混ぜながら、礼二を見てクスッと笑って見せた。食卓でお茶を飲みながら、礼二も笑顔で返した。

 ホームシェアという新しい取り組み。今まで礼二は、遠くばかりを見ていた気がする。灯台の灯りを必死で探す難破船のように。

 だが、その灯りは自分の足元にあったと気づいた。自分がこれから先、何年生きられるか、それは分からない。
 それでも今、何かが見えてきた。その糸口をホームシェアによって掴んだのだ。

「やってみよう」

 今まで培ったものを、これからの人生に活かせる筈だ。不動産屋の取り組みに、興味も湧いてきたのである。忘れかけた企業戦士の血が、また騒ぎ始めた。

楽しい食事が終わり、礼二は心の空洞も満たされたように感じた。
 隣の和室では、文代の晴れ着が飾ってあるらしい。興奮する文代の声や、晴美との弾むような会話が、心地よく聞こえてきた。(完)


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■ 小説【もくじ】

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【全目次】言の葉記念館

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