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雑居ビルを眺めながら

雑居ビルを眺めるのが好きである。
もっと言うならば、遠く雑居ビルのある風景を眺めるのが好きである。

子供の頃からビル群に囲まれて育ったとか都会にあこがれていたとか、決してそういう訳ではない。しかし、雑居ビルを見ると不思議と安堵する。一体どういう訳だろう。

例えば、なじみのカフェの窓側の席に座り、通りを眺める。
そこには街路樹があり、時には空を鳥が行き交うこともあろう。
葉が揺れる様を見ていると、いつの間に「言の葉」に置き換えられて、葉が揺れることによって生じる空気の振動はやがて鳥の群れに伝わり、今度は鳴き声という音声によって遠くへ伝えられていく、つまり言葉が発生する根源的なものを見出すような、そんな考えが頭を巡ってしまう。まったく大げさなことこの上ないが、日頃から詩のことばかり考えているせいか、葉や鳥の存在を都市の中で違和として認めてしまうのか、ついつい思考が暴走してしまう。

それに引き換え、雑居ビルはその造形があるだけでよい。
わざわざ都市の中に、それを引き込まなくてもよい。
それは最初から都市の一部としてあり、古ければ古いほど、まるで主のようにそこにあるのだから、窓の向こうにビルの一角が垣間見られるだけで、不思議と落ち着いてしまう。

屋上のフェンスや
ベランダに置き去りにされた鉢植え
罅が入ったままのガムテープで目張りされた窓
大きな看板と煤けた壁

そのすべてに通過した跡があり、都市の痕跡とでもいうような、過ぎた時間を内包している。と同時にそれは、都市の現在そのものだ。

しかしこのまま、雑居ビルについて思いを巡らせていくとどうなるだろう。それは都市という空間をより深く知るための呼び水になることは間違いないが。

今はただひたすらその造形を眺めていたい。時間そのものが建っているような、その片隅の、色褪せたカーテンの掛かる窓の奥をぼんやりと想像してみたい。悪趣味といえばそうでしかないのだが、通過したものの気配をどこかで感じていたいのだ。

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