コロナ禍のダンス ―ダンスユニット・CORVUS 配信作品「IRIS」を見る
先日、オイリュトミスト・ダンサーである鯨井謙太郒氏と定方まこと氏によるユニット・コルヴスのライブ配信作品「IRIS」を見る機会を得た。ダンスブリッジ2020どこでもシアターセッションハウス監修公演 『ダンスCNP(分類不能)』の一作品として、11月15日にライブ配信された後、1週間にわたって見逃し配信されたこの映像は期間限定であれ、通常は一度きり、生でしか見ることの出来ないダンスパフォーマンスを何度も見ることが出来るという貴重な機会となった。
ライブ配信時は残念ながら仕事が重なり見ることが出来なかったものの、その後、時間を見繕っては何度も映像に触れることが出来たのだが、見るたびに幾つもの目が浮かび上がる不思議な経験をすることが出来たと思う。ギリシャ神話の虹の女神であり、虹彩の意味も持つ「IRIS」というタイトルが象徴的だ。
内容に触れる前にひとつ、確認しておきたいのだが、配信という手段では当然のことながら、ダンサーと見る者の間にカメラが差し挟まれる。このカメラという目がどういう意図を持っているかによって、配信される映像が大きく変わってくる。ドキュメンタリーとしてダンサーを客観的に捉えるのか、生で見る時の高揚感を再現するのか、あるいはそれ以上の新たな価値を提示するのか。今回の配信映像は、映画「the Body」を発表したばかりの富田真人監督のカメラによるものとのことで、そちらにも注目しながらの鑑賞となった。
作品を見ての第一印象は、「現在すらも色褪せて見える」ということだった。コロナ禍で変化したはずの生活、習慣、感覚。疑念を抱きながらも、ようやく新しいものとして認識されたはずのそれらが、もはや過去のように感じられたのだ。なぜか。都市を彷徨うふたりの身体は紛れもなく、忘れられた感覚を体現していたからである。最初に現れたオイリュトミーを通しての身体は、ヒトが本来持ち続けている感覚を、後半部分の身体は、現在の社会状況に抗う感覚を。間に流れた街を彷徨う映像は、ふたりの身体が現在において違和として表出していることを如実に表しているように思えた。しかしこの違和感こそが、我々が今もっとも欲している感覚の証であるとすればどうだろう。途端に街は色褪せ、二人が通過した東京という街があたかも荒廃した都市のようにすら感じられる。
かつての感覚を、かつての身体を、コロナ禍で失われた感覚を再生させること。それは単なる焼き増しではない。再び生きるということが何を指し示すだろうか。
Hey Siri
IRIS
鯨井氏はそう囁いたと思う。
聞くことに「目」を尋ねること。
コロナ禍にあって、五感は従来通りの機能を失うのではなく、あらゆる可能性を発芽させようとしているとすれば、それはまさに想像力の賜物だろう。
オンラインという制約のため、そこに居合わせることの出来ないふたりの身体から、目を、耳を、息を紡ごうとするとき、視覚は声を捉え、聴覚は身体のふるえを目撃するかもしれない。カメラ越しに与えられる身体感覚は何処に何を訴えかけるのか。
それにしても不思議である。オンライン公開という本来は多くのひとの目に触れるために開かれたイメージの強い空間が、なぜかこの作品に限っては閉鎖的に見える。それは、実際にダンス公演を見に行く感覚に近い。限定配信ということも一役買っているかもしれないが、見に行く者の身体が、実際のハコへと入っていく、その感覚をこの映像で味わうことが出来る。それは実に心地よい閉鎖性だ。今だからこそ、感覚に身をゆだね、一心にそれを欲していたいという願いをこの閉鎖空間は叶えてくれる。ここに富田氏のカメラの目が加担していることは疑いがない。ダンサーと見る者を一対一の世界に引き込む。まるでダンサーの姿を覗き見るように。もちろん、同時刻にほかの誰かがこの映像を見ている訳だが、その視線を感じさせることなく、しかし、時にダンサーの姿さえ捉えない構図は明らかにカメラの目があることを見る者に提示するように。
そうしてもうひとつ。1週間にわたり何度も繰り返し見ることが出来るということが、この映像作品を違うものに作り替えていく。
浮かび上がる無数の目。
ふたりの身体が指し示す目。それを見るカメラの目と、それを捉えた過去の自分の目。
見ることに特化しているはずなのに、過去には捉えきれなかった場面。
見逃していた空と指先。
白と黒、動と静、光と闇の両極を開示しながら、全身に差し迫ってくる声、呼吸、風。あらゆるものを映し出し、反射する景色。
コロナ禍で失われた身体感覚はこの映像越しに新しい感覚を目覚めさせるだろう。それはかつての身体、本来持ち合わせていた機能の、覚醒の瞬間であるかもしれないとさえ思う。
目を見開きながら、呼吸を、声を、感じること。
もちろん、ダンスは目の前で見ることこそ本来の在り方であろうと思う。だがそれが困難な状況下、ふたりの身体はいつも以上の熱量で、見る者の身体に新たな目覚めを与えてくれた。一概にオンライン公開という方法を否定することなく、そこで何が出来るかを問うこと。命が宿る凄みとさえいえるふたりの身体が交差するとき、そこで生まれる感覚は新しい時代を渡るための貴重な糧となるかもしれない。
そうであるからこそ、いつかまたダンスを間近で見ることが楽しみだ。一体どんな感覚が降ってくるだろう。その日が遠くはないことを願ってやまない。
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