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カイツブリについて

「あ、鴨だ!」「かわいいねぇ。」

 と言いあっている男女の声が聞こえた。男女の視線の先を見ると、一羽の小さな鳥が、池の水面をちまちま進んでいた。僕はいつも通り落胆した。

「いえ、あれは、鴨じゃありませんよ」

 と僕が話しかけると、カップルがこちらを振り向いた。歳の差がある二人だったが、そんな他人の事情はどうでもよかった。二人は怪訝そうな顔をして何も言わない。

「あれは、カイツブリですよ」

 男女は黙っていた。

「あれは、カイツブリです。カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属のカイツブリです。鴨ではありません。鴨とは、まったく違う生き物なんです」

 僕が言い終わる前に男女はもう歩き出していた。男女は橋を渡り終え、こちらに一瞥もくれなかった。

 池のほうに注意を移すと、すでにカイツブリの姿もなくなっていた。さっきまでカイツブリが居たあたりに、波紋があった。カイツブリが潜った証拠だ。特有の飛び上がるような予備動作を経た潜り方が、あの波紋を残す。「掻いつ潜りつ」が名前の由来、という説もある。古くは鳰(にお)、鳰鳥(におどり)などと呼ばれ、鸊鷉(へきてい)という難読の異名も持っている。さてそのカイツブリたちは精力的な潜水士として知られ、水中で獲物を探すために、日夜素潜りを繰り返す。潜っている間、水草や岩の隙間を、懸命にくちばしでつつきながら、獲物を探し続ける。そしてしばらくすると、どこかからまた、水面に顔を出すはずだ。

 僕はしばらく眺めていたが、いつまでたっても、カイツブリが再び浮上する姿を観測できなかった。見逃したのかもしれない。視界の外で浮上と潜水を繰り返し、そのまま遠くに行ってしまったのだろうか。

 カイツブリが浮かんでこないので、僕は橋の上から動けなくなった。

 やがて通り過ぎる人もまばらになり、陽が落ちてきた。公園はさっきまでの賑わいが嘘のように暗くなった。池は何もない真っ黒の板になっていて、そこに池があることを僕は、明るい時間の記憶によって把握しているに過ぎなかった。

「カイツブリは、鴨とは違う生き物なんです」

「カイツブリを、鴨と呼ぶのはやめてほしいです」

「カイツブリは、カイツブリという生き物なんです」

「カイツブリを、みくびるな!」

 僕は演説を繰り返し、徐々にその声の音量に遠慮がなくなっていった。

 真っ黒な平面を挟んだ向こう側に一つの小さな光が見えた。そのぼうっとした光は沿岸を進み、こちらに向かって近づいてきた。彼が橋のたもとに近付くまでもなく、懐中電灯を持った警備員の男性だとわかる。

 僕は決められないでいた。
 飛び上がって、潜るかどうか。

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