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『安達としまむら』の<語り>

2020年12月現在、『安達としまむら』のアニメが絶賛放送中です。アニメの出来については、作画に少し不安を覚えなくもないのですが、原作の核となる場面やモノローグを上手く拾いながら、9話のバレンタイン回のようにここぞという箇所は気合が感じられて概ね好印象です。特典小説目当てではありますが、BDも買いました。

『電撃大王』で連載中の柚原もけ先生によるコミカライズも素晴らしいですね。元々、柚原先生は『アイドル百合アンソロジー』で存じていましたが、柔らかい線が『安達としまむら』のゆるい雰囲気にとてもマッチしています。個人的にはアニメよりも好きだったりします。

『安達としまむら』の原作小説は既刊9巻です。原作は入間人間先生、イラストはのん先生(※8巻まで)です。アニメやコミカライズ等、これほどまでにメディアミックスが盛り上がっている現状は、6巻で長らくレイニー止めをくらっていた身からすれば隔世の感すらあります。

『安達としまむら』のジャンルを一言で表すと「百合ラノベ」です。作者自身もセルフツッコミしているように「ゆるゆり」ではなく「ゆりゆり」です。アニメ組の方にはめちゃくちゃネタバレになりますが、6巻のラストで安達としまむらは晴れて恋人になりますし、8巻では10年後、社会人になってもふたり一緒で同棲していることも明かされます。

一見すると、安達⇒しまむらへの想いが強く、しまむらが安達へと向ける感情はそれほど大きくないように思えるかもしれません。6巻で恋人になって以降はしまむらが安達へ寄せる好意的な描写は次第に増えますが、先述の傾向が初期のころには顕著なことも確かでしょう。

しかし、私はそうだとは考えていません。安達ほどではないですが、しまむらも安達のことをかなり好ましく、好きへと漸近するほどには強く意識していたはずです。そのことについて、「信頼できない語り手」というキーワードをもとに本稿では示していきたいと思います。

1.「信頼できない語り手」とは?

『安達としまむら』の物語の大部分は、安達もしくはしまむらの語りに沿って進行します。時系列的には一方のみ、あるいは同じ出来事を両者の視点から立体的に描くこともあります。しかし、この<語り>が曲者です。安達もしまむらもいわゆる「信頼できない語り手」だからです。

そもそも「信頼できない語り手」とは何でしょう。まず、この概念の歴史的な経緯からごく簡単に説明することにします。

言葉の誕生としては、文芸評論家ウェイン・ブースが名著『フィクションの修辞学』(1961)で述べたのが初出です。端的に言ってしまえば、「一人称による語りは必ずしも信頼できない」というものです。要するに、語り手は嘘を言うこともあるし、敢えて語らないこともあるということです。後にピーター・J・ラビノウィッツがブースの定義を修正し、語り手に嘘偽りがなくとも、読者⇔語り手との間に生じるギャップ(基準)によって「信頼できない語り手」が意図せず生まれる場合もあるとされました。

「信頼できない語り手」の代表的な例としてはアガサ・クリスティー『アクロイド殺し』(1926)があります。これは語り手=犯人のミステリーで、私こと医師のシェパードの手記(語り)に嘘はありませんが、敢えて殺人の瞬間はぼかして描写されています。いわゆる叙述トリックです。また、ノーベル文学賞作家であるカズオ・イシグロの『日の名残り』(1989)も有名ですね。語り手である老執事のスティーブンスは自分にとって都合の良いことばかりを回顧し、都合の悪いことは決して思い起こそうとしませんでした。

総じて「信頼できない語り手」とは、虚言を語ったり、そもそも語らない、あるいは意図せず読者に誤解を与えてしまう語りを著すことで、読者⇔語り手間で認知のギャップを感じさせる小説技法と言えそうです。

2.安達は「信頼できない語り手」か?

安達の語りは信頼できますか。つまり、安達の認知は実際の作品世界を正確に、客観的に切り取ったものと言えそうでしょうか。答えはNOです。

安達が「信頼できない語り手」であることを示す顕著な例では5巻の問題のシーンがあります。しまむらと樽見が夏祭りで遊んでいる光景を目撃したことから、安達がしまむらに電話で詰め寄る場面です。ここのセリフは安達視点では以下のように描写されます。

私は!しまむらが知らないとこで笑っているとか!嫌で他の子と手を繫ぐのも!私だけがよくて!私と一緒にいてほしくて!祭りだって、行きたかったし!しまむらが楽しそうにしていると、笑っていると、その側に私がいて!そういうのがよくて!

文庫版では見開き2ページ以上に及ぶ、安達の壮絶な叫びですが、6巻で明かされたしまむらの視点だとこのように聞こえていました。

私は!しばむらがしだないどこでばらっているとかぁ!嫌でぇぼかのごとてをつだぐのも!わだしだがよって!までぇりだっでぃだかったし!しばむらだのじそっにしでると、わらっでっど、そろぞばに私いて!ぞぉいうのがよくて!

意味不明ですよね。安達が涙声で活舌が悪かったため、しまむらにはこんな風に聞こえてたのです。安達が言いたかったのは上の内容ですし、安達は、しまむらが聞き取れていないとは考えないので、作品世界における安達の語りは上のようになります。同じ対象に遭遇しても主観人物(=語り手)によって語り方はもちろん異なります。その極端な例と言えるでしょう。

5巻では安達が一通り喋り終えた後、しまむらが一言「めんどくさいなぁ」とつぶやきます。そこで安達は絶望するのですが、数日後再開したところ、しまむらの様子が普段と変わらないことに安達は不安を覚えます。安達にとってあれほどまでに取り乱したのは大事ですが、しまむらにとっては大したことじゃない、要するに自分はしまむらにとって大きな存在ではないのではと考えてしまいます。

この思い込みも誤解です。しまむらは安達の絶叫をほとんど聞き取れていなかったのですから、前提から誤っていたということになります。しかし、安達はしまむらが聞き取れていたことを前提に語るため、結果的に読者は安達を通したしまむら像を見ることで、実際のしまむらの語り(=認知)とは距離が生まれてしまうというわけです。

3.しまむらは「信頼できない語り手」か?

さて、ここまで「信頼できない語り手」とは何か、また『安達としまむら』において、安達の語りに全幅の信頼を寄せることはできないということはわかったと思います。以降はしまむらの語りについて見ていきましょう。

しまむらは安達に比べると、内省的なモノローグを多用する傾向にあります。安達がしまむらのことを多く語ることに比べると、安達についての語り自体は少なくなり、出来事の散文的な描写や過去の自己を顧みた立体的な語りの割合が増えます。安達はものごとを無機質に捉えるので出来事を描写するには向いていませんし、過去の自身を回顧することもほとんどありませんので、しまむらがこうした役割を必然的に担っていると考えられます。

しまむらの語りで特徴的なのは「語らない」ことです。意図的に語らないこともありますし、本人は無自覚なこともあります。まずは前者の例を確認しましょう。

無題

原作3巻の終盤、しまむらは安達に「これからも仲良くしていこうね!」というメッセージを電光掲示板を用いて送ります。メッセージは夜中にやっている占い番組のキーワード応募によるプレゼントでした。安達が語り手になる第二章では、占い番組のことが積極的に描写されていましたが、一方でしまむらが語り手になる第三章では初日を除いて一切登場しません。

キーワードがどうとか話し終えたところで電源を落とす。シャーマンの踊りは結構面白いけれど、占いに興味はないのでもう観ることはないと思う。多分。

しまむらが占い番組について語らないことで、読者はしまむらが占い番組を見ないものと思い込みます。しかし、独白として語らないだけで、実際には番組を見ていたのです。もちろん語り手は作中世界で起きた出来事の全てを語る必要はありませんが、敢えて語らないという手法として、「信頼できない語り手」に分類することができそうです。

もっとも、しまむらは「信頼できない語り手」ではありますが、一方で語りに対してとても誠実な面も備えています。嘘は言わないのです。こうした一面を端的に表したのは以下の場面でしょう。6巻において、母親に浴衣を出すようお願いするところです。

母親への言葉に噓はない、語ったのはどれも自分が動く理由の一つだ。そして隠したもう一つの理由はごく単純な思いつき。安達が喜ぶかなぁと、思ったから

嘘ではありませんが全てを包み隠さず話しているわけでもありません。6巻で祖母から「潔癖」や「律儀」「誠実」と評されるように、根本的には、しまむらの語り自体は非常に誠実です。先の引用でも「多分」と保険をかけていますし、語りにおいて推測や憶測はあっても嘘偽りを避ける傾向にあります。だからこそ、これらのことについては自制して語らないのです。そして、この誠実な語りはしまむら自身の感情表現についても適用されます。

4.しまむらは安達がかわいいと語る

5巻の夏祭りの場面です。浴衣姿の樽見から感想を催促されてしまむらは以下のように返答します。

「輝いて見えるよ」……だって確かに今、たるちゃんは輝いていた。抱っこしているヤシロの髪の影響であるのは内緒だ。

無題

ここでしまむらが言う「輝いて見える」とは外見的な描写にとどまり、しまむらの内面を表しているという保証はありません。だからこそ、6巻で安達の浴衣姿を見た際の「安達もかわいいよ」という返答も心から出た言葉と思われます。告白した後、返事を待っている安達を見て「なんとなく、かわいいな」と感じた場面も同様です。もっとも、しまむらは以前から安達のチャイナドレスを褒めたり、美人と形容したり、安達のことを美人やかわいいと認識している描写は以前より多々ありました。

しかし、8巻において、しまむらが安達のことをかわいいと形容する描写は目に見えて増加します。

まるでないところがなかなかどうして面白みというかかわいげというかそそるというか、安達の大体なのだけど
無理しておどけようとするの、かわいい
それもまた、なかなかに可愛らしい
ふ、と気が抜けたように自然に微笑む。あ、かわいいと思った
ふと見ると、にやーっとしているときは結構あるんだけど。ああいうときかわいいんだけどなぁ
なにかなにかな、と揺れる瞳がこちらの反応を待っている。       かわいい

これまで止めていた堰が切れたかのように、8巻ではしまむらが安達のことをとにかくかわいいと褒めたたえます。この変化は安達のことを彼女として、特別に認識したからこそ生じたものです。

しまむらの人間関係のあり方は祖母によって、以下のように評されます。

周りとの関係を真っ平らであろうとしすぎる。高さがあることを不自然に思う

元来、しまむらは人間関係に偏りがあってはならないと考えていました。だからこそ、6巻までの描写は安達のことを友人として認識しており、それゆえに語りの中においても、安達を特権的に扱うことを避けてようとしていました。しかし、自身が安達に偏っていたことを自覚したことで、しまむらの中に変化が起きます。要するに、安達は自分にとって特別な存在なのだと自覚することができたのです。

7巻の大きなテーマは「運命」ですが、安達としまむらの関係に着目すると、彼女になったことへの戸惑いとそれを上回る前向きな思いが多く描写されています。安達の独占欲に戸惑いながらも、安達が隣にいれば楽しく心強いことをしまむらは再確認するのです。

8巻で、しまむらが安達のことをかわいいと感じるのは、安達=彼女ときちんと認識できたからです。7巻では関係性にいささかの戸惑いを見せていましたが、8巻では今この時を安達と共有することが前提条件になっています。その上でいつまで一緒にいられるかと自問し、10年後もずっと一緒にいたいと考える過程と結果が8巻の全てです。

逆に言えば、好感度の程度はともかく安達をあくまで一友人として捉えていた期間(1~6巻)においては、実際にどのように考えていたのかはともかく、しまむらは安達とのことをかわいいとは殊更に語ろうとはしないのです。なぜなら、一人の友人のことばかりをかわいいかわいいと言ってしまえば、人間関係が偏ったことになってしまうからです。

終わりに

語り手は意図せず「信頼できない語り手」に変ずることがあります。なぜなら、語り手が無意識的に行なってしまう仕草や挙動について、語り手は知りうることができないからです。

しまむらは「信頼できない語り手」である一方、語りには慎重であろうとします。しかし、本人が無意識の場合はどうしても語りから抜け落ちてしまうのです。具体的には以下のシーンです。4巻において、校門前で樽見を待ちながら、安達のチャイナドレスを思い出していた場面です。

「なに笑ってんの?格好 おかしい?」樽見が服の裾を弄る。笑っている?と指摘されて頬に触れてみたけど分からない。

類似した場面はもう一つあります。しまむらは樽見の絵のモデル務めながら、安達と樽見の気配りを比べます。

色々と気を遣ってくれて、しかもそれが的確だなぁと感心する。     安達も結構考えて気配りしてくれるのだけど、いつも少しなにかがズレているのだ。考えすぎ なのだろうと思う。それがまた、面白いというか密かな楽しみなのだけど。                       「……?おかしなこと言った?」                 「え?」                              「いやなんか、にやーっとしてるから」

しまむらは樽見に指摘されてはじめて自分が笑っていることに気づきます。一方で6巻以降ではしまむらが安達の水着姿の写真を待ちながらにやにやとする場面もあります。ここでは自身が笑っていることに自覚的です。この辺りをターニングポイントに、しまむらが安達の挙動に対して楽しそうに笑う描写は増えていきます。

ここまで<語り>をキーワードに安達と(特に)しまむらの語りを見てきました。まず安達の語りを例に「信頼できない語り手」について確認した後、しまむらの内面を考察しました。しまむらは「語らない」ことによって、ある意味では自己韜晦を見せていましたが、安達との恋人としての関係を深めるにつれて、内心と語りのシンクロ率が上昇します。

二人の間を巡る思いは、決して安達の一方通行な感情ではありません。むしろ、語らなかったしまむらが巻を経るにつれて、自分の内心を語りに乗せて吐露するようになり、そこに読者はしまむらの思慕を読み取ることができるのです。それが『安達としまむら』におけるしまむらの成長過程と言うことができるのではないでしょうか。



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