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女になりたい男と、男になりたい女。

男に生まれたいか、女に生まれたいか。
これは古今東西、きっと永遠のテーマですね。

今の人生は男(あるいは女)として、「次の人生は?」となると、また意味が変わったりもします。

肌感覚で思うのは、きっと「女になりたい男」と「男になりたい女」が増えてきているなということ。

おそらく、昭和の昔や平成の始めくらいまでは、「女になりたい男」はそれほど多くはなかったでしょう。

もちろん、内心はそう思っていたり、一瞬好奇心が襲うようなことはあっても、表現として言葉にする人はごくごく一部でした。

それは「男になりたい女」にしても同じで、ふと男の人生を想像することはあっても、真剣にそうなりたいという人は極めて少数派でした。



なぜ時流が変わったのでしょうか?

明治以来の教育や社会システムがある意味強制してきた「男らしさ」「女らしさ」の観念が揺らぎ、もっと自分らしく多様性を持ちたいという意識が高まっている背景があるでしょう。

国策として男女平等や女性活躍推進が叫ばれ、女性が男性社会に参加し、男性と同じように経済的、社会的地位を獲得しようという意味で、「男性化」することへのイニシアチブが得られつつあるともいえます。

それは男性にしても同じで、イクメンに象徴される男性の家事参加が推奨され、性の多様性があらゆる社会生活や職業生活で認められつつある時代の中で、「女性化」もまた進みつつあります。



男が「女になりたい」のには理由があります。

ずばり、男であることは「多様性の否定」だから。

男であるかぎり、働かなければなりません。
それも、「男らしく」という社会通念と社会システムの中で。

男であるかぎり、「男らしい」格好をしなければなりません。
スーツを着るか、作業着を着るか、それ相応のユニホームであって、女のように自由に着飾ることはできません。

男であるかぎり、感情を表に出してはいけません。
「男は人前で泣いてはいけない」。
今でも男の子はこう言い聞かされながら育てられ、大人になっていきます。

これらはすべて、女が「女らしく」あるという社会のあり方を前提として、機能してきました。

それが揺らいだり、変容する時代になれば、当然ながら「男らしく」生きることの意味もまた問われ直すことになります。



女が「男になりたい」のには理由があります。

ずばり、女であることは「女らしさの呪縛」だから。

女であるかぎり、女らしく家庭的であることが期待されます。
いかに男と肩を並べて仕事を頑張ったとしても、結婚や出産というライフイベントを意識するのが“普通”とされます。

女であるかぎり、「女らしい」恰好をしなければなりません。
本人の意思やセンスに関係なく、いつまでも若々しく美しくあるべき、という社会の目線にさらされます。

女であるかぎり、気遣いが求められます。
男は実力社会の中で権力や経済力を手にすると偏屈であることが許されても、同じ地位を手にした女が同様にみられることは稀です。

これらはすべて、男が「男らしく」あるという社会のあり方を前提として、機能してきました。

そもそも女に男社会に出て活躍することを期待しながら、従来の社会と同じような育児や家事の役割を一手に担い続けることを求めるのは、無理があるというものです。



「女になりたい男」と、「男になりたい女」。
こう考える人が増えるのは、無理からぬことだと思います。

であれば、無理せずに女になればいい、男になればいい。
そう私は思います。

本格的なダブルインカム型社会に向かおうとしているのに、昭和以前のような「男らしさ」「女らしさ」を求める方がおかしいです。

こんな時代の気遣いを、平成以降に生まれた人の多くは本音で感じ取っていると思います。

男が「女になりたい」なんてとんでもない。
女が「男になりたい」なんて生意気だ。

こんな発想自体が、概念的にはかなり古くさい。

そんな無秩序なことを許したら、社会が混乱してしまう。
ただでも出生率が下がっているのに、将来がますます不安。

こんなふうに杞憂する人も少なくありませんが、少なくとも外国人を大量に日本に受け入れようとする国策の転換などに比べれば、懸念はとても小さいと思います。


夫婦が離婚する原因の一位は、性格や価値観の不一致です。
これは、「男らしさ」「女らしさ」をひたすら追い求めた結果、すれ違いが増幅して悲しい結末になるケースも多いと考えられます。

逆に、男が「女らしさ」を帯びても、女が「男らしさ」を全面に出しても、それが共感力や責任感といったポジティブな変化として受けとめる分には、必ずしも問題とはなりません。

やや極端な例ですが、夫が頻繁に女装しているのに、妻がそれをむしろ好意的に受け止め、お互いに楽しい趣味としているというカップルを、私は全国で何組も知っています。

こんな夫婦やカップルは、かえって仲睦まじく、「男らしさ」「女らしさ」だけにとらわれない自由さと、夫や妻という役割を超えた連帯感があるように感じます。



人間は、そもそも異性になりたいという好奇心を帯びた生き物であり、100パーセントの男も女も、どこにも存在しません。

であれば、異性化への意思を無碍に抑圧するのではなく、むしろ自然に発揚させることで、固定観念を超えて相手への理解が進み、真の人間的な愛情が芽生えるのかもしれません。

「女になりたい男」と、「男になりたい女」。
こんなのは普通だよっていえるくらいに、みんなが本音で認め合い、高め合える社会であってほしいものですね。


学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。