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2022年大学入学共通テスト日本史B解説その2

第3問 中世の海と人々との関わり歴史に関する問題

問1(問題番号12)中世の海と人々との関わりについて述べた文の正誤を判定する問題。

この問題も問題文(生徒と先生の会話)のなかにヒントがあります。

①については以下のようにアジアやヨーロッパ諸国との交易によって、新しい製品や技術がもたらされたことがわかります。ですから正文と判断できます。

ひろみ:朝鮮からは、木版印刷の大蔵経ももたらされたのですよね。
先生:アジアやヨーロッパから出版文化がもたらされます。

第3問の会話文

②については、次の先生の発言から戦争が新しい道具・技術の開発や導入を促したことがわかりますので、正文と判断できます。

先生:戦国の争乱は列島各地で人・物・文化の移動を加速させました。鉄砲などの新しい軍事技術を普及させ…

第3問の会話文

③については、次の先生の発言から大量の物資を運搬・輸送するための方法や技術が改良されたことがわかりますので、正文と判断できます。

先生:中世になると、各地に港町ができて、海上交通がより発達します。海上交通が発達すれば、国内外の流通が活発になって技術革新や・・

第3問の会話文

④については倭寇に関する知識を問うています。倭寇がアジアの海域を自由に移動したことは確かですが、それは国家権力による保護があったからではありません。ひろみさんの発言に「ただの海賊」とありますが、国家権力と対立する海賊という側面もあれば、海の貿易商人という側面もあるのです。
ところで、律令制度の出題のリツさんに続き、中世の海の問題だからひろみさんなのでしょうか(笑)。

この問題は会話文からわかることと、中・近世の外交史の知識を用いて解く問題でした。

問2(問題番号13)海上交通の動向に関して述べた文を年代順に並び替える問題。

Ⅰの「毛利輝元に従う海上勢力が、大坂(石山)本願寺に兵糧を搬入した」の文は、織田信長と本願寺勢力の争いであることを判断できれば時期が判定できます。毛利輝元や大坂(石山)本願寺で時期を判定するのは難しい気もしますが、近世だってことまでわかればこの問題は解答可能です。

Ⅱは重源が東大寺再建をとなれば鎌倉時代(中世)であることはわかるでしょう。

Ⅲは平忠盛が海賊鎮圧の功績を経て貴族として活躍とあるので、平安時代後期・院政期(中世)であることはわかります。

この問題は時期判断の問題です。毛利輝元、大坂(石山)本願寺で時期を判断することに少し難しさを感じますが、重源や平忠盛で時期を判断することはができると思います。

問3(問題番号14)室町時代の運送業者を示した図(『石山寺縁起絵巻』)について述べた文の正誤を判定する問題です。

この図が馬借を表していることが分かれば解答することが容易になります。

Xは馬借の説明です。ときには徳政を求めて蜂起したというのは、正長の徳政一揆のことでしょう。山川出版『詳説日本史』にはこのことが書いていないのですが、授業のなかでは話しています。(授業プリントにも書いています)問題演習を繰り返していれば、正長の徳政一揆が「近江坂本の馬借の蜂起」から始まったという知識にふれるのではないでしょうか。

Yの文も『詳説日本史』には馬借の拠点がどこにあったのかは書かれていないので判断が難しかったかもしれません。大津や坂本は琵琶湖のほとりの港町です。廻船が運んできた荷物は大津や坂本で荷下ろしされ、陸路京都へ運ばれます。

この問題は馬借に関する知識を問うものでした。どちらも正文であるという、X・Y正誤の問題では正答率が低くなるパターンなので、悩んだ挙句にどちらかを誤りと判断してしまった人が多かったようです。

問4(問題番号15)16世紀の日本と朝鮮との貿易に関する朝鮮側の史料(『朝鮮王朝実録』)について述べた文の正誤判定問題です。「この史料を踏まえて」と問題文にありますから、選択肢の文を読んだうえで資料の読解にあたらなければいけない問題です。史料が出てきたときには、その史料がどの立場で記されているのかを確認することも重要です。

aの文は銀は日本の輸入品で、その多くは朝鮮からもたらされるとありますが、史料では日本国の使いが通信という名目で来るがその時に貿易もしており銀を持ちこんでいることが記されています。この頃の日本の主要輸出品が銀であるというのは、授業でも学んだ知識ですから、aが誤文であると判定できると思います。

日本国使、通信を以て名と為し、多く商物を齎し、銀両八万に至る。

史料『朝鮮王朝実録』

bの文については、室町時代の日朝貿易に関する授業で朝鮮から大量の木綿が輸入されたことは扱っているので、学んだ知識で正文と判断できます。史料では次の部分からも確認できます。

民の頼る所を以て、其の無用の物に換え
※民の頼る所は史料から綿布とわかり、無用の物は同じく銀とわかる。

史料『朝鮮王朝実録』

この問題はc・dの正誤判断で間違う人が多かったようです。綿を売って銀が大量に手に入れば、普通に考えたら利益だろうと思ったのでしょうが、そこは史料から根拠を見つけなければいけません。

民の頼る所を以て、其の無用の物に換え、利は彼に帰し、我れ其の弊を受く。甚だ不可たり。(中略)今若し貿を許さば、則ち其の利の重きを楽み、後来の齎す所、必ずや此れに倍せん。

史料『朝鮮王朝実録』

民衆の生活に必要な綿布が、食べることのできない「無用」な銀と交換されていることは、日本にとって利益だが、朝鮮にとっては弊害であること。このまま貿易を許していたら、銀の流入と綿布の流出がさらに増加していくことを述べています。生活必需品が流出し宝物ではあるが生活には無用な銀が流入することを心配していることが読み取れますから、「未来に大きな弊害を及ぼす」というdが正文と判断できます。

これは史料の読解問題でした。

問5(問題番号16)中世の遺跡に関して述べた文からその場所を判定する問題です。

Xの文には、倭人を館主とする館の跡、大甕に入った37万枚の銅銭から志苔館と志苔古銭であるとわかれば、現在の函館市を示すaであることがわかります。bの位置は若狭国ですが、「越前焼」を見てこちらに飛びついてしまった人もいたようです。

授業では中世の蝦夷ヶ島になぜこれほど大量の銅銭が埋められていたのかというテーマで授業で取り上げるのが、志苔古銭です。その古銭が越前焼や能登半島で生産される珠洲焼の甕に入れられていたことも、蝦夷ヶ島が日本海の海路を通じたネットワークの一部だったことを示す証拠として取り上げますから、私の授業を受けている人ならここは正解してほしいところです。

Yの文には、「沖合の海底の沈没船から元軍や高麗軍が使用したてつはう」とありこの場所が蒙古襲来の時に元・高麗の連合軍が襲来した場所であると判断できれば、cの場所だとわかります。まさかdの種子島の方にした人はいないでしょうね。

この問題は蒙古襲来と中世の蝦夷地に関する位置を含めた知識を問う問題でした。

中世の問題には授業のまとめとなる問題が出題されていませんね。

第4問 近世の身分と社会について高校生が調べた内容をもとにした出題です。

問1(問題番号17)近世の村や町について述べた文の正誤を判定する問題。

①村が「村役人を中心に本百姓によって運営された」というのは基本的な知識です。正文。

②は村請制を理解していれば正文と判断できます。
室町時代、惣村が領主へ納める年貢などを惣村でひとまとめにして請け負う仕組みのことを地下請(村請・百姓請)と言いました。村を自治的に運営する伝統は秀吉の太閤検地、そして幕藩体制のもとでも受け継がれていきます。

③町も村と同じような自治組織があったことがわかっていれば、家持の住民が町人と呼ばれ、その代表である名主・月行事などを中心に運営されていました。町の運営には地借、借家、店借などの階層の人々が参加できなかったことを知っていれば、「町内に居住する人々の総意により運営」が誤りであることがわかります。

④町人(家持町人のこと)は、都市機能(城下町の上下水道や道・橋の整備、城郭や堀の清掃、防火・防災・治安など)を支える役割を、町人足役と呼ばれる夫役でつとめ、あるいは代わりに貨幣で支払っていたことを理解していれば正文と判断できます。

この問題は江戸時代の村や町に関する標準的な知識を問う問題でした。

問2(問題番号18)近世の芸能・文化に関する文を年代順に並び替える問題。

桃山文化の時期に出雲阿国が始めたかぶき踊りが人気となり、それを真似た女芸人や遊女が始めた女歌舞伎が流行しましたが、江戸時代初期に風俗取締りのうえから禁止されました。ついで少年が演じる若衆歌舞伎が盛んになるが、これも禁止され、17世紀半ばから成人男性が演じる野郎歌舞伎だけになりました。そして17世紀後半の元禄文化の時期に、江戸には初代市川団十郎、上方には坂田藤十郎、芳沢あやめらの名優が出ました。
という歌舞伎の発展を理解していれば、迷うことなく解くことができたのではないでしょうか。

Ⅰは東洲斎写楽の役者絵とあるので宝暦・天明期

Ⅱは出雲阿国とあるので桃山文化

Ⅲは初代市川団十郎と言えば元禄文化です。

この問題は、文化史の知識が時期とともに理解されていれば、答えられる問題でした。文化史は作品名と作者と図像をセットにして覚えるまではしていても、それがいつの時期のことかまで頭に入っていない人が多いようです。文化史も時期区分が重要です。

問3(問題番号19)近世後期、村・町などの集団・組織を通じた支配が動揺したことを記した資料を読み取る問題。

Xは史料1から一揆に加わらない村へ制裁を加えるとあります。

史料1は天保七年八月に大風により麦や米の価格が上昇し困窮した人々が集まり一揆の相談をしています。その下から3行目

もし不承知の村は、一千人の者ども押し寄せ、家々残らず打ち崩し申すべし、もし遅参の村は、真っ先に庄屋を打ち砕き候趣、申し次ぎにて言い送りける。

史料1『鴨の騒立』

この部分が一揆に加わらなかったり、参加が遅れた村に対する制裁が記されている部分と読み取ることができるので正文と判断できます。

Yは史料2が世直し一揆について述べているかを判断すると、史料2は「天明七丁未年」とあり天明年間が田沼時代、18世紀後半とまでわかれば、世直し一揆とは時期がずれているとわかるので誤文と判断できます。

または、史料2の内容を読めばこれが米屋や富裕な商人を襲った打ちこわしであることがわかるので、そこから誤文と判断することもできます。

この問題は江戸時代の一揆に関する知識と史料の読み取りの力を問うものでした。

問4(問題番号20)1836年に江戸の町奉行所が、配下の者に提出させた報告書を読み取ること、この時期の幕府の政策についての問題です。

まず1836年に注目をしなければいけません。1830年代後半は天保年間の前半で、天保の飢饉や大塩の乱など「内憂」とよばれた幕藩体制の動揺の時期でした。まず史料の読み取りから

aは江戸の場末の町家には、物乞いをするその日稼ぎの人々が多数住んでいたとありますが、史料では場末の町家に「其日稼ぎの者ども」が住んでいることはわかりますが、彼らは物乞いでしょうか?続きを読んでいくと借家の家賃が払えずに無宿になり、野非人動揺の物乞いをする者もいたことが書かれています。そうなると「物乞いをするその日稼ぎ」というのは誤文であることがわかります。

bは史料の「右の通り御座候て」以降を読み取っていくと、非人頭が野非人を捕まえて配下においても、仕事をあてがうことができないために出て行ってしまい、その結果、再び野非人になり野非人が増加するとあります。ここから、幕府は非人頭に野非人を捕え配下に置かせることで野非人を減らそうとしていたことがうかがえるので正文と判断できます。
さらに言えば、最初のユウキさんのメモにもbの文を判断するヒントがあります。

近世後期になると、村・町などの集団・組織を通じた支配が動揺した。都市では、組織に属さない「野非人」と呼ばれる人々も増加し、その取締りが社会問題となった。

ユウキさんのメモ

cとdについては、1836年が天保期前半だとわかれば、c、dそれぞれの記述が、天保後半以降の幕府の政策であるかを判断したら解答を導くことができます。

c人足寄場は、寛政の改革の政策ですから「この後」とあるのは誤文となります。

d人返しの法は、天保の改革の政策ですから、こちらが天保期の後半です。正文です。

この問題は史料の読み取りと江戸時代の政治史の時期に関する知識を問うたものでした。

史料の読み取りが3つも続いたので、この辺りは脳のエネルギーをかなり使ったのではないでしょうか。

問5(問題番号21)授業の最後に生徒が学習内容を整理した設定の問題です。

史料の読み取りが連続していて、ここでさらに第4問全体を振り返りながら答えるとなると、かなり大変ですが、実際は①の判断がかなり容易だったために救われたのではないでしょうか。

①将軍に拝謁できる者とできない者といえば、旗本と御家人の違いを理解していれば正文だとわかります。

②職人が農村にも居住していたことを知識として知っていれば誤文と判断できます。

③百姓=農民ではないことは、日本史を学んでいる人であれば当然知っておかなければいけません。誤文。

④かわたとされた人々の生業に関する理解を問うていて、かわたの中には遠隔地と皮革を取引する問屋を経営する者もいたことがわかっていれば誤文と判断できます。

この問題は近世の身分と社会に関する知識を問うものでした。

第5問 日本とハワイの関係についての歴史を調べる高校生の会話からの問題。

問1(問題番号22)幕末における日本と海外諸国との交流について述べた文とそれに該当する語句を選ぶ問題。

X開国後に幕府がオランダ人による海軍伝習をはじめた場所が長崎であることを知っていれば答えられます。

開国後、幕府は江戸に蕃書調所を設けて、洋学の教授と外交文書の翻訳などに当たらせ、講武所で洋式砲術を含む武芸を教え、長崎ではオランダ人による海軍伝習を始めた。

教科書『詳説日本史』山川出版社

Y幕末に日本の英語教育に影響を与えたアメリカ人宣教師がヘボンであることを知っていれば答えられます。知識としては細かいよな~と思いますが、教科書の本文に記述されている人物です。私たちが自分の名前をアルファベットで表記するときには、ヘボン式ローマ字で書きます。そのことを知っていれば答えられるでしょう。

この問題は幕末の文化史に関する理解を問うたものでした。

問2(問題番号23)日本とハワイ王国の修好通商条約の条文を読み取る問題。

a日本とハワイ王国の国民が相手国の国内を場所の制限なく往来することができるよう条約が定められているのかを判断します。

ここに条約を結べる両国の臣民は、他国の臣民と交易するを許せる総ての場所、諸港、及び河々に、其の船舶及び荷物を以て自由安全に来り得べし。

史料1『大日本外交文書』

「他国の臣民と交易するを許せる」すべての場所ですから、制限なくとは言えません。誤文です。

b「他国の国民に認めたことを、日本とハワイ両国の国民にも適用」というのは、最恵国待遇の内容ですね。それが認められているのかを史料から判断します。

他国へ一般に許容するものは両国の臣民にも同様推及すべし。

史料1『大日本外交文書』

上の部分から正文とわかります。

cとdは日清修好条規に関する知識を聞いています。

c日清修好条規には台湾での琉球漂流民殺害事件の賠償金は含まれていません。それは台湾出兵後のことなので、日清修好条規の締結とは時期がずれます。誤文。

dこちらは、日清修好条規が対等な条約であったという内容が正しく表現されています。正文です。

この問題は史料の読み取りと明治の外交史(日清修好条規から台湾出兵)の知識を問うています。史料の読み取りを「ただの古文でしょ」と批判する人もいますが、日本史の授業の中で「内地雑居」や「最恵国待遇」を理解していると、この史料を「なるほど!」と読めるのです。(aは内地雑居、bは最恵国待遇のことを述べていますよね)だから、ただの古文だって批判する人は、日本史の勉強が不足していると宣言しているようなものなのですよ。日本史の読み取り問題は、授業で学んだ日本史の知識を背景に史料を読むのです。

問3(問題番号24)1885年から1894年までの10年間に生じた出来事を年代順に並び替える問題。

わざわざ1885年から1894年までと時期の条件をつけているのは、それぞれの選択肢の中に具体的な事件名がないからなのでしょう。では、この10年間がどのような時期だったのかは、わかりますか?
年代暗記を授業の中ではあまり強調しない私ですが、1894年は日清戦争が始まった年で、そのあと、1904年に日露戦争、1914年に第一次世界大戦と10年ごとに日本が戦争を行う、または参戦していたことは何度も授業の中で確認しています。
ですから、日清戦争が始まるまでの10年間の出来事と考えたら、正解を導きやすくなるのではないでしょうか。

Ⅰ日本と清国の両国が朝鮮からの撤兵を定めたとなると天津条約です。壬午軍乱、甲申事変と朝鮮をめぐる日清間の緊張が高まる中、これ以上の衝突を避けるために結ばれたのが天津条約(1885年)でした。

条約締結により当面の衝突を回避した日本は、清国に対抗できるだけの軍備増強につとめました。松方財政が緊縮財政をとりながらも軍事費は削らなかったことや、初期議会のときに山県有朋が「利益線」の防衛のため陸海軍の増強が必要としたことを思い出しましょう。
また、当時、清の軍事力を背景に日本の経済進出に抵抗する朝鮮政府との対立が強まっていたことも天津条約締結後の状況として理解しておかなければいけません。
それが

Ⅲ朝鮮の地方官が大豆などの輸出を禁じたことに対し、日本政府が朝鮮に損害賠償を求めた、防穀令事件につながっていきます。

Ⅱ日本とイギリスとの間で、領事裁判権の撤廃が定められたとあれば、条約改正が一部成功した日英通商航海条約の締結とわかります。そして、この条約が結ばれたことで、日清間の衝突には批判的だったイギリスの態度が変わり、日本は戦争へと向かっていくことになります。

この問題は近代の外交史(朝鮮半島をめぐる日清の対立)を問うものでした。

問4(問題番号25)なぜ1885年から多くの日本人がハワイに渡航したのかを調べるために集めた資料の読み取り問題です。

Xハワイに欧米式農業を伝え、移民たちがその対価を得て帰国することを外務卿が期待したとありますが、日本の移民がハワイで欧米式農業を伝えることができたのでしょうか。

我が農民を送り、欧米式農業法を実習し、秩序的労働法を覚へ、且つ相応の貯蓄を携へ帰国せしめ、(中略)十数年の後には我が農村の労働方法、大いに改良せらるべしと思惟

史料2『海外在勤四半世紀の回顧』

史料からは日本の農民がハワイで欧米式農業を実習し、それを持ち帰ってくることを期待していますから、Xの文が誤文であることがわかります。

Yハワイへの海外渡航者がどのような理由で渡航したのかを史料3から読み取ります。

労働出稼者の増加するは…労働者就業の困難に迫らるるに依るもの

史料3山口県「県政事務功程」

」と日本での生活に困窮したために出稼ぎに出たと読み取れますから正文と判断できます。

この問題は史料の読み取りの問題でした。この史料についても、松方財政によるデフレ不況で農村が打撃を受けていたことを理解していれば、史料に記されていることを深く知ることができます。

第6問 2022年は日本に鉄道が開通して150年を迎える年なのですね。鉄道の歴史とその役割に関する出題です。

問1(問題番号26)問題文の空所補充問題です。

基本的な知識を問うているので間違えるわけにはいきません。空欄(ア)は「開港以来の主要輸出品」とあるから生糸、空欄(イ)は「九州では、産業革命のエネルギー源」とあるから石炭が入ります。

この問題は近代経済史の知識を問うたものでした。

問2(問題番号27)1872年の改暦を定めた勅書と鉄道の時刻表を題材とした問題。

aは勅書には「太陽暦ヲ用ヒ」ると宣言したのが、1872年11月9日であることと、時刻表が9月10日から運用されることが読み取れれば正文と判断できます。教科書では「1872年12月には、…旧暦を廃して太陽暦を採用し、1日を24時間とし、のちには日曜を休日とするなど」とあり、その知識にこだわると、太陽暦を採用するまでは時刻表はできないはずだって考えてしまうかもしれません。しかし、問題文に「この史料に関して述べた文」とあるのですから、史料を根拠に考えましょう。bはaがわかれば誤文と判断できます。cは明治期に鉄道の動力が電気ではないことがわかっていれば誤文だと判断できます。dは時刻表の史料から「遅くとも表示の時刻より十分前に「ステイション」に来て、切符を買うこと」など乗客に規律ある行動を求めていることが読み取れますから正文と判断できます。

この問題は史料の読み取りの問題ですが、教科書の知識に縛られると読み取ることが難しくなるものでした。

問3(問題番号28)1885年から1930年までの鉄道の旅客輸送と営業距離の推移を表わす表をもとに述べた文の正誤を判定する問題です。

この表やグラフが出てきたら定番のあのことが聞かれることは予想できるでしょう。①は1890年に民営鉄道の営業距離が国鉄のそれを上回った原因に、日本鉄道会社が設立されたというよく問われることが書かれていますが、日本鉄道会社は官営事業の払い下げによって営業距離をのばしたのではないから誤文です。②は1900年から1910年にかけて、国鉄の営業距離が増加し民営鉄道が減少した要因には鉄道国有法があるというよく問われることが書かれています。正文です。③は1910年から1930年にかけて民営鉄道の旅客輸送が増加した要因について述べていて、これは大正から昭和初期の大都市に新中間層が大量に現われたことによる大衆文化のことを理解していれば正文と判断できます。④は1920年から1930年に国鉄の営業距離が伸びたきっかけに立憲政友会の鉄道の拡大政策があげられており、これは立憲政友会のことを理解していれば正文と判断できます。

この問題は近代の経済史、政治史に関する理解を問うているものでした。

問4(問題番号29)鉄道が関わる20世紀の対外関係を年代順に並び替える問題です。

近代の年代並び替え問題は、明治、大正、昭和戦前、戦後が区別できれば答えられるものがセンター試験以来出題されていますが、まさにその問題です。Ⅰは張作霖爆殺事件で昭和戦前、Ⅱは南満州鉄道株式会社の設立ですから明治、Ⅲは西原借款ですから大正です。それがわかれば答えられます。

この問題は近代の政治史の知識と時期を問うものでした。

問5(問題番号30)戦後10年(1945年~1955年)の間に撮影された2枚の写真に関する説明を選ぶ問題です。

Xが買出し列車、Yが松川事件です。『詳説日本史』ではYの写真はありますが、Xの写真は違うものが使われています。屋根にまで上がろうとしている乗客がいることを読み取ることができれば、買出し列車とわかるでしょうか。ただ、これは写真を見なくても、それぞれの文に時期を判断できる用語があるので、写真を使わなくても解答することはできます。aは買出し列車の説明なので正文。bは「恐慌の影響で、都市から農村に戻る人が多くなった」という部分から、昭和恐慌だとわかれば誤文だとわかるでしょう。cは「平均して前年比10%ほどの伸び率で、経済が急成長」と言えば高度経済成長ですから、問題の条件である戦後10年とは時期がずれるので誤文です。dはドッジ不況とそれによって社会不安が広がる中で下山事件、三鷹事件、松川事件が起きたことを理解していれば正文と判断できます。

この問題は戦後の社会経済史の知識を問うものでした。

問6(問題番号31)高度経済成長期の鉄道・自動車に関する資料について述べた文の正誤を判定する問題。

①は表を見れば誤文とわかります。②は日本で最初に開かれたオリンピックが、オリンピック東京大会で1964年だとわかっていること、東海道新幹線が東京と大阪(新大阪)を結ぶ鉄道であること、名神高速道路が名古屋と神戸、東名高速道路が東京と名古屋を結ぶ高速道路であることを知っていなければいけない問題です。北海道の人には難しいかもしれません。私も新幹線や高速道路が公共事業として整備されたことが高度経済成長を続けた要因の一つとして取り上げますが、どこからどこまでという説明まではしていません。ごめんなさい。③は第1次石油危機の年代がわかっていれば誤文と判断できます。④は正文です。これは東北新幹線が大宮ー盛岡、上越新幹線が大宮ー新潟とあるので、判断しやすかったと思います。そう考えると太平洋ベルト地帯に住む日本の大部分の人にとって有利な問題だったのかもしれません。

この問題は資料から読み取ったことと、戦後の社会・経済史についての知識を問う問題でした。

問7(問題番号32)国鉄の民営化に関して述べた文の正誤を判断する問題です。

国鉄の民営化を行ったのが中曽根康弘内閣であり、この内閣の時の政策が頭の中で整理されていれば答えやすいでしょう。Xは「戦後政治の総決算」電電公社の民営化が中曽根内閣の政策を表わしているので正文です。Yは誤文です。中曽根内閣と小泉内閣はどちらも新自由主義的な政策を行い、中曽根内閣が電電公社・専売公社・国鉄の民営化、小泉内閣が郵政民営化や道路公団の民営化に取り組んだことが整理されていれば答えることができました。

この問題は現代の政治史(新自由主義的政策)を問うものでした。

まとめ

一通り問題の解説をしてみると、史料の読み取りが増えたこと、しかも昨年のように現代語訳や大意がなくなっていることが特徴の一つにあげられます。試験時間の60分でも足りないと感じる受験生が多かったのではないでしょうか。正直、私は90分かかりました。そういう意味での難しさもありますね。次に年代を覚えていないと解けない問題が多く出題されました。これまで、基本的な年代は覚えた方が良いけど、センター試験では年代を暗記してないと解けない問題はほとんど出ないと言ってきましたが、その考え方は改めないといけません。今回は、アジア・太平洋戦争、昭和への改元、東京オリンピック、第1次石油危機の年代が出題されました。どれも重要な出来事ですから、「近現代史の時代の区切りとなるような年代は覚えておきましょう」と、これから私は言うことにします。3つめに史料の読み取りについて、古文だと考えているうちは日本史の勉強が甘いと心得てください。史料を読み取るときには、日本史の知識を活用して読み取るのです。

今年の問題は2018年の試行調査に近づくのではないかという意見が多かったように思いますが、センター試験のような形で知識を問いつつ、史料の読み取りの問題が増えたことで時間がかかり難易度が上がったという印象です。

以上が自分の印象です。

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