16 日清戦争

本時の問い「日清戦争はどのような目的で行われ、どのような問題を残したか。」

第16回目の授業は、1880年代から朝鮮をめぐって日清間の対立が高まり、その延長で1894年に日清戦争が起きるまで、さらに1895年の三国干渉についても扱います。
本時の問いは、「日清戦争はどのような目的で行われ、どのような問題を残したか。」でした。

壬午軍乱

1876年、日朝修好条規が締結され朝鮮は開国しました。以後、朝鮮国内では親日派勢力が台頭します。政権を握っていたのは国王の妻の一族である閔氏で、日本の協力のもとで近代化政策を進めていきましたが、これに国王の父である大院君は不満を強めていました。そのようななかで、1882年壬午軍乱が発生します。これは大院君を支持する兵士がおこした反乱で、これに呼応した民衆が日本公使館をおそいました。反乱は失敗に終わりましたが、これ以降閔氏政権は日本から離れて清国を頼るようになります。日本の朝鮮進出を警戒した清国も朝鮮への影響力を強めようとします。そのため、朝鮮国内では親清派の閔氏と、日本との関係により朝鮮の近代化をはかる独立党の金玉均ら改革派が対立することになりました。

甲申事変

朝鮮国内での親清派と改革派の対立は、フランスと戦争を始めた清が劣勢だったことをきっかけに、甲申事変というクーデタに発展します。独立党が日本の支援のもとにおこしたクーデタは、清国軍の来援で失敗に終わります。その後、日清間で緊張が高まりますが、日本政府は伊藤博文を清へ派遣して天津条約を結び武力対立を避けました。

朝鮮問題をこれまでに学んだ国内政治と結びつける

壬午軍乱と甲申事変という2つの出来事を通じて日清間の緊張が高まります。日本は清の軍事力に対抗すべく軍備拡張を進めます。そのため、例えば松方財政の時に緊縮財政をとったのに、軍事費は緊縮をしませんでした。また、初期議会で政府が軍備拡張を進めようとしたのも日清間の緊張が背景にあります。

日清戦争

1894年、朝鮮でおきた甲午農民戦争の鎮圧のため、朝鮮政府は清国軍の救援を要請します。これに対抗し日本も軍を半島に派遣しました。農民反乱はおさまったので、そのまま両軍が撤兵するという選択肢もあったはずですが、日清戦争がおきます。それはなぜでしょう?

理由は日本が国内の矛盾を対外問題へと転嫁したことと言えます。この頃、条約改正問題で政府は政党と対立をしていました。議会とのやりとりがうまく行かない政府は、国内問題を外交問題へとすり替えて、人々の目を外へと向けようとしたのです。実際、開戦が決まると議会は軍事関連の予算をすべて承認します。

ここでみなさんに日清戦争で日本が勝利した要因を教科書を資料にして考えてもらいました。教科書は、挙国一致の姿勢で戦争にのぞんだ日本と、国内の政治対立が激しかった清国政府を対照的に書いていますね。

下関条約と三国干渉

1895年、日清講和条約が締結されます。条約の内容の第1には「朝鮮の独立」とあります。日本は清国政府に朝鮮は従属国ではなく独立国であることを認めさせるためにこの戦争を戦いました。そしてその目的を達成したのです。また、杭州・蘇州・重慶・沙市の開港にはどのような意味があるのかについても考えてもらいました。

日本は巨額の賠償金と清の領土の一部も獲得します。しかし、遼東半島を手に入れたことは、東アジアへの進出を考えていたロシアを刺激します。ロシアはドイツ・フランスを誘って日本に遼東半島を清に返還するよう要求します。三国干渉です。日本国内では三国干渉に強い反発がおこります。そして「臥薪嘗胆」を合い言葉にロシアに対する敵意を強めていきました。

日本は戦争では勝利をおさめましたが、欧米諸国との関係ではまだまだ独立を達成しているとはいえないのです。さらなる近代化が戦後の課題となったのです。

今日はここまで!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?