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41 恐慌からの脱出

本時の問い「日本経済はどのようにして昭和恐慌から脱出したか。」

第41回目の授業は1930年代の日本経済について扱いました。世界中が恐慌で苦しむなか、日本は世界に先がけて恐慌から脱出します。本時の問いは「日本経済はどのようにして昭和恐慌から脱出したか。」でしたね。

高橋財政

今回の主役は犬養毅内閣・斎藤実内閣・岡田啓介内閣の蔵相を務めた高橋是清です。彼の財政政策を高橋財政と呼びます。

まず、1931年12月に高橋蔵相が登場する前の日本経済を思い出してみましょう。浜口雄幸内閣の蔵相井上準之助は、金輸出解禁を軸に日本経済の再建をはかったのですが、世界恐慌の影響もあり、昭和恐慌という深刻な経済不況を招いてしまいました。

そうなると井上準之助は悪者のイメージになってしまいますが、彼は緊縮財政を行うことであえて一時的な不景気をもたらし、その状況の中で企業が産業合理化などの努力をすることで、高い競争力を持った企業に成長して欲しいという思いできびしい政策をとりました。ですから、高橋財政の時期に不況を克服したのは、井上財政によって鍛えられた企業があったからこそだと言うことができます。

綿布などの輸出が大幅に拡大した

恐慌から脱出した一つ目の要因は、輸出の拡大です。

1931年12月に犬養内閣が成立すると、高橋蔵相はただちに金輸出再禁止を行い、金本位制から離脱します。金輸出再禁止とはその名の通り国外へ金を輸出しない、つまり貿易の支払に金を使わないと言うことです。また金本位制をやめ、通貨を金の保有量に縛られることなく発行できるようにしました。これにより円の外国為替相場は下落します。この大幅な円安を利用して、輸出が飛躍的に増大しました。特に綿織物の輸出拡大はめざましく、イギリスを抜いて世界第1位の規模に達しました。

政府が意図的に誘導した円安を利用して輸出を拡大したことは、貿易摩擦をまねきました。日本の綿織物は満州国やインド・東南アジアなどへの輸出が拡大していたので、インド・東南アジアを植民地としていた宗主国の中でも特にイギリスは、国ぐるみの投げ売り(ソーシャル=ダンピング)と非難します。そして、日本の製品に高い関税をかけて対抗したのです。

輸入面での変化

授業では、資料集のグラフ「地域別輸入額の推移」から、1930年代の日本の貿易相手がどのように変化したのかを説明してもらいました。

グラフでは日本の輸入額にしめるアメリカの割合が1930年代を通じて上昇していることがわかります。1940年に35.9%となっていますが、その翌年にはアジア・太平洋戦争が始まります。このグラフからも、日本がなぜ無謀な戦争を行ったのかという疑問が浮かんできますね。

このように1930年代の日本経済は輸入面での対米依存度が高まっていったことが特徴ですが、それはなぜなのかを資料集のグラフで考えました。日本の工業総生産額の推移を見ると、重化学工業の占める割合が1938年に50%を超えたことが読み取れます。そして、重化学工業の原材料である石油や鉄類の国別輸入額(1940年)を見ると、どちらの品目もアメリカが半分以上を占めています。日本の重化学工業の発達が輸入面での対米依存を高めていったと考えられます。

重化学工業の発展

重化学工業の発展もまた日本の恐慌からの脱出の要因の一つです。

高橋財政では赤字国債をもとに、軍事費や農村救済費を支出する積極財政をとりました。これにより軍需を中心に重化学工業が発達します。鉄鋼業では、製鉄会社の大合同が行われて国策会社の日本製鉄会社が生まれました。また、日産や日窒といった新興財閥が軍部と結びついて発展し、既成財閥も重化学工業部門に進出するようになりました。

農村の復興

農業恐慌で打撃を受けた農村の救済のため、1932年から時局匡救事業として公共土木工事を行い、農民を雇用して現金収入の途を与えたり、農山漁村経済更生運動を始め、戦後の農協につながる産業組合を拡充するなどして農民の自力更生をはからせました。

ただ、農村の復興は工業に比べると遅れていました。

今回の授業では恐慌からの脱出について扱いました。

今日はここまでとします。


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