33 第二次護憲運動から第1次加藤高明内閣の成立へ

本時の問い「憲政の常道とは何か。どのような問題点があったか。」

第33回目の授業は原敬首相が暗殺された1921年から、第1次加藤高明内閣のもとで普通選挙法が実現した1925年までの国内政治を扱いました。本時の問いは「憲政の常道とは何か。どのような問題点があったか。」でしたね。

原敬首相の死後の国内政治

米騒動は国民の政治参加の思いの強さを元老山県有朋が感じたほどの出来事でした。そのため、国民をまとめるには政党内閣を認めざるを得ないと考えた元老たちは、原敬を首相に選びます。しかし、原は国民が求める政治を実現すると言うよりは、立憲政友会の拡大を主にしたところがあり、1921年暗殺されました。

その後、首相となったのは立憲政友会の高橋是清でしたが、彼には大きくなった立憲政友会をまとめることができず、内紛により内閣は総辞職します。では次の首相を誰にするのかとなったときに浮上したのが、ワシントン会議で海軍大臣として日本の全権をつとめた加藤友三郎でした。しかし、彼は議会の運営と健康面に不安を感じて首相になるのをためらっていました。そのような状況の中で元老井上馨はこう言います。

加藤にあらずんば加藤

もしも、加藤友三郎が首相を断ったら、衆議院第2党で憲政会の党首加藤高明を首相に任命するという意味です。

これを知った立憲政友会は、憲政会に政権を渡したくないという思いから、議会では協力するから加藤友三郎に首相になってもらいたいという意向を伝えます。加藤友三郎内閣の成立です。

 海軍内閣が連続した

海軍出身の加藤友三郎内閣は、ワシントン会議の決定事項を実行に移していきます。シベリアからの撤兵、海軍の軍縮です。海軍軍縮に影響され、陸軍も軍縮をおこないました。国際平和の時代の到来です。

しかし、加藤友三郎は首相在任中に病死します。そして次の首相に海軍出身の山本権兵衛が選ばれ、内閣を組織しているさなかの、1923年9月1日、関東大震災が発生します。これにより第2次山本権兵衛内閣の最大の使命は東京の復興ということになりました。

ただ、震災の混乱のなか、東京では朝鮮人・中国人が虐殺されたり、亀戸事件や甘粕事件など労働運動家、無政府主義者を軍人が殺害するなどの事件がおこりました。これらの出来事に憤慨した無政府主義者の青年が、大正天皇の摂政をつとめていた皇太子を暗殺しようとした虎の門事件がおこります。この事件の責任をとり山本内閣は総辞職します。

第二次護憲運動

国民の政治参加への思いが強まるなか、立憲政友会の高橋是清内閣が倒れてのち、海軍内閣が2度続き、次の首相には貴族院出身の清浦奎吾が選ばれました。清浦内閣は陸・海軍大臣を除く閣僚が貴族院議員によって構成されていました。政党勢力はこの内閣を、「時代錯誤の特権階級による内閣」と非難します。そして、清浦内閣打倒と政党内閣の樹立をめざし、第二次護憲運動が始まりました。

この護憲運動は、第一次と第二次の違いをはっきりとさせておく必要があります。授業の中でも護憲運動では、その結果、内閣が退陣することになったことは第一次も第二次も共通するけれども、何が退陣のきっかけになったのかは違っていたので、そこを確認してもらいました。

第二次護憲運動は、清浦内閣が内紛により立憲政友会の一部が分裂して結成した政友本党を味方とし、衆議院を解散して選挙で戦います。その結果、清浦内閣を非難した護憲三派が勝利をしたので、清浦は身をひきます。つまり、選挙の結果が清浦を退陣に追い込んだのです。

護憲三派のうち、第一党になったのは憲政会でした。そこで憲政会の党首加藤高明が首相に選ばれます。選挙結果によって首相になった初めての例です。

第1次加藤高明内閣(護憲三派)

加藤は外務大臣に幣原喜重郎を選びます。幣原はワシントン会議の全権ですからワシントン体制を守り、国際協調外交を進めました。このことは、日中関係、日米関係悪化の原因となった対華二十一カ条要求を主導した加藤高明が、中国や欧米諸国との関係を重視していたことをあらわします。加藤の外交に対する姿勢が変化したことがわかります。第1次加藤内閣の時の幣原外交で特筆すべきは、1925年に日ソ基本条約を締結しソ連との国交を樹立したことです。

第1次加藤内閣は国民が求めていた普通選挙を実現します。1925年にいわゆる普通選挙法が制定されます。男性に限られますが、25歳以上になれば選挙権を持つことになりました。これにあわせて、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス。」という治安維持法も制定します。治安維持法については、教科書の記述からこの法が制定当初から悪法だったのかについて考えてもらいました。

「第一次世界大戦後、多くの先進国で急進的な社会運動を取り締まるため、治安立法が制定された。治安維持法もその一つで、…」

と教科書にはあります。治安維持法のような法が多くの先進国で出されていたことがわかります。特定の思想を取り締まる法が悪法ではないとは言いませんが、当時、多くの国で必要とされていたということを確認しておきます。それと同時に、それではなぜ治安維持法が悪法と言われるのかについても根拠をもって説明できるようにならなくてはいけませんね。

憲政の常道

憲政の常道については、まず教科書でどのように説明されているのかを確認しました。

「選挙によって衆議院で多数の議席を得た政党が政権を担当し、失政で退陣した時は、野党第一党が政権をとるのが当然だとする考え。」

今回学んだ第二次護憲運動の結果成立した第1次加藤高明内閣は、総選挙の結果、清浦内閣の倒閣をめざした護憲三派が勝利したことで成立しました。憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の護憲三派の中で、衆議院第一党となったのが憲政会だったので加藤高明が首相に選ばれたのです。まずは「選挙によって衆議院で多数の議席を得た政党が政権を担当」することになりました。この後、失政で退陣した時に野党第一党が政権をとることになれば、憲政の常道が始まったと言えます。そのことについて、又今度学びましょう。

今日はここまでにします。

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