36 田中義一内閣

本時の問い「中国国民党による北伐は日本の外交にどのような影響を与えたか。」

第36回目の授業は、田中義一内閣について扱いました。本時の問いは「中国国民党による北伐は日本の外交にどのような影響を与えたか。」でした。

「憲政の常道」の始まり

金融恐慌の処理に失敗した第1次若槻礼次郎内閣が退陣すると、立憲政友会総裁の田中義一が首相に任命されました。憲政会内閣の政治が失政ととらえられたため、野党第一党の立憲政友会に内閣が回ってきたのです。「憲政の常道」は、選挙によって衆議院第一党となった憲政会総裁が首相を務める第1次加藤高明内閣から始まります。しかし加藤高明、若槻礼次郎の2名の首相はいずれも衆議院第一党の憲政会総裁です。その憲政会内閣が失政をしたのちも、政党内閣が選ばれました。ですから、ここに「憲政の常道」が始まったということもできます。

社会主義の弾圧

1928年、普通選挙制度のもとでの初の総選挙が行われました。その結果、無産政党から8名の当選者がでます。無産政党は合法的な社会主義政党のことをいいます。田中義一はこの選挙結果を受けて共産党員の一斉検挙を行います。(三・一五事件)また、同年に治安維持法を改正し、最高刑を死刑・無期としました。さらに、道府県の警察にも特別高等課を設置しました。翌年には二度目の共産党員の検挙を行います。(四・一六事件)これにより日本共産党は大きな打撃を受けました。

田中外交

この頃の中国では、中国全土の統一を目指して国民革命軍が広東から長江流域を各地方を制圧しながら北上する北伐と呼ばれた動きが進められていました。1927年、北伐軍が南京に入場すると、そこに住んでいた外国人に乱暴をはたらく行為が行われました。アメリカやイギリスは武力行使を行いましたが、日本はそれをしませんでした。当時の外務大臣は幣原喜重郎、彼は中国に対する内政不干渉を原則としていましたから武力行使を避けたのです。しかし、これに対して国内では「軟弱」と非難するものもいました。第1次若槻礼次郎内閣は、幣原外交に対する不満を持った枢密院の保守派が台湾銀行救済の緊急勅令案の問題を利用して倒したという一面もあるのです。

それに対し、田中義一は中国に対する強硬姿勢をとります。1927年、山東半島に住む日本人居留民の生命・財産を守るという名目で軍を派遣します。(山東出兵)2度目の出兵では済南で日本軍と北伐軍との間に軍事衝突が発生しました。日本としては日本人の生命を守るという名目でも、北伐軍が何も日本人に危害を加えていないのに戦ってしまえば、中国からは「日本は中国の統一を望んでいないのではないか」と思わせることになる可能性があります。

注意!
田中義一内閣の外交姿勢が中国に対して強硬だったというのは、その他の国に対しても当てはまるものではありません。欧米諸国との関係では、これまでの協調外交を引き継いでいます。1928年にパリで不戦条約に調印したことはその例と言えます。

北伐軍が北京に入場

山東半島の日本軍を避けて北上する北伐軍は、北京を占領します。北京よりさらに北上すると、中国東北部=満州です。日本は満州にある日本の権益が中国に脅かされるのではという危機感を持ちます。これまで、満州権益は満州を支配していた軍閥の長である張作霖を利用して権益を守っていました。しかし、このころ、日本の南満州鉄道を守る関東軍の一部に、張作霖を排除して満州を直接支配しようとする考えが生まれていました。

1928年6月、北京から奉天へ戻る途中の張作霖を乗せた列車が線路ごと爆破され、張作霖は亡くなります。鉄道が爆破されたのは中国側のしわざとされましたが、実際には関東軍が中央に諮らずに勝手にやったものでした。

田中は張作霖爆殺事件の処理に失敗

田中首相は当初、事件の真相の公表と厳重処分を決意し、そのことを天皇に報告します。しかし、閣僚や陸軍から反対され、事件をうやむやに処理してしまいました。このことにより田中は天皇の信用を失い、総辞職に追い込まれます。

北伐は中国の統一に成功

1928年、張作霖の息子、張学良は満州を国民政府の支配下の土地と認めます。このことがすぐに日本が満州を失うことにつながるわけではありませんが、中国ではナショナリズムが高まり、不平等条約の撤廃や国権回収を求める民衆運動が高まります。

このような状況が次に学ぶ満州事変へとつながっていきます。

今日はここまでとしましょう。

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