多様性のジレンマ

一般論、他者、私自身、立場や観点で、多様性という言葉の意義が変化することに気がついた。

Will Smithさんがビンタした。海外では非難の嵐。アカデミーの追放。しかし、日本では擁護の声も多い。なにか違和感。
暴力は良くない。万国共通の認識。
だから、彼を批判し、同じ過ちをしない様に追放する。
追放する?それは多様性に反するのではないかと思った。同時に、数年後にセカンドチャンスを与えれば、良いかとも考えた。

多様性とは、
如何なることも受け入れることを多様性と呼ばないのか。どうやら、違うらしい。
法律や倫理観が混ざり合って、今日の多様性が成立されている。

浮気、暴力、殺しは、何かに反すること。
略奪愛がダメなのか。正当防衛の暴力は。小さな生物を潰してもいいのか。動物を食することは?植物を食することは?
人によってのボーダーが違う気がする。

私が思ったこと。よく聞く多様性とは、
1. 人間目線で考えられていることが多い
2. 当時のマジョリティが賛成している考え
3. 当事者によっても、ボーダーが変化する

私が多様性に対して思うことは、
社会は多様性を求める方向はいいと思う。
しかし、個人単位で考えるとなんでもいい気がする。
これが、この記事を書いている現在の私が考える多様性。