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里の民の楽園

 どうやら、僕の住むこの街には“里の民”しかいないらしい。
 已む無くこの地に越してきて、凡そ2年が経過するが、その感想は日に日に強くなるばかりだ。
 “里の民”しかいないからと言って、何か障りがあるというわけでは無い。
 だが、他の土地を知る者としてはやはり、この地の在り方というものは異様に映るのだ。

 僕がこの土地の異常性に気がついたのは、越して暫くしてのことだった。初めはスーパーに行った時、次にコンビニ、ドン・キホーテ。何処に行っても、本来あるべきはずのモノが無いのだ。
 何が無いのか。
 “里の民”などと言う表現から薄々勘付いている人もいるだろうが、敢えて明言するのであれば、この土地には「きのこの山」が無いのだ。
 無論、「たけのこの里」は存在する。だが、「きのこの山」だけは何処に行っても無いのだ。「たけのこの里」と「きのこの山」とが詰め込まれたバリューパックなるものすら存在しない。何処に行っても、仕入れ棚には「たけのこの里」のみが陳列されているのだ。
 一軒のみであれば、「仕入れを牛耳る者が“里の民”なのだ」と納得することができたのだが、この土地にある、凡そ菓子の手に入る場所全てにおいて、「きのこの山」は存在しない。
 「お客様ファースト」を謳う食料品店も、頑なに「きのこの山」だけは入荷しない。『お客様のご要望に応じて入荷しました!』というPOPが、様々な商品の側に立てられる中、やはり「きのこの山」だけは存在しない。
 そもそも、「お客様の要望」にすら「きのこの山」は存在していないのだろう。
 日本人を二分する「たけのこの里派か、きのこの山派か」、という質問も、この地では何の意味も持たない。
 そもそも世界に「きのこの山」なんてものは存在していないかの如く、この地は振る舞っている。

 もしやこの土地は、“山の民”に迫害された“里の民”が身を寄せ形成された場所なのでは無いか。
 
 いや、それは無いだろう。
 頭を振って、その思考を追い出す。
 仮にも、我ら“里の民”には、霊長類最強とされる吉田沙保里氏をも味方につけたという歴史があるのだ。“里の民”が迫害されるなど、ましてや追放されるなんてことは、万に一つとしてあり得ない。
 となれば、この地は「“里の民”による、“里の民”のための、“里の民”のための土地」なのだろう。
 言わば楽園だ。
 そんなたわいも無いことを考え、僕は今日もたけのこを喰む。

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