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由緒正しき、喫茶店に寄せて

その喫茶店は、たしか神保町の商店街を一本入ったところにあった。
たしか、というのは、通っていたのがもう何年も前のことで、店名はおろか、店の位置が合っているかどうかさえ疑わしいからだ。

急な階段を下って地下へ。重い扉をひらくと、何年も染みついた古い煙草の臭いが飛び込んでくる。
なんとなく、いつも麻雀ゲーム機のテーブルに座る。
ゲームとして稼働していたことがあったのだろうか、なんてぼんやり考えながら手書きのメニューを眺める。
「スパゲティ」でも「パスタ」でもなく「スパ」と書かれた食べ物に、思わず顔がほころぶ。
スパは何を頼んでも、アルマイト皿に載せられてやってくる。由緒正しき、喫茶店の「スパ」である。
それから、食後にきまってアイスコーヒーを頼む。
ポットごと冷蔵庫で冷やされたアイスコーヒーが注がれていくのを眺めつつ、急かされるように煙草に火をつける。
こういう場では、マッチを使って火をつけるのが格別であると思う。こすったときに一瞬香るリンの匂いは、由緒正しきって感じがする。

アイス珈琲は、妙に分厚いグラスになみなみと注がれてやってくる。そして、驚くほどに甘い。
ここでいう「甘い」は比喩ではなくて、もう最初っから恐ろしい量のガムシロップが突っ込まれているような甘さなのだ。
甘ったるい液体が喉をすべる。追って、コーヒーの香りが鼻に抜ける。
メンソールで冷えた喉がつめたいコーヒーでひんやりとするのを感じながら、煙草を三本、吸い終わるまで本をめくる。

そうして週に二度ほど訪れていたはずの喫茶店から、足が遠のいてしまったきっかけはいったいなんだったのだろう。
近くにいい店を見つけた、とか。はたまた、いい人ができた、とか。
そういった色っぽいことはちっとも思い出せないのだから、きっとどうでもいいことなのだろう。

聞いたところによると、あの由緒正しき喫茶店はもうとっくに閉店しまったのだという。
けれど、すっかり麺の伸びきった「スパ」と、あの甘ったるいアイスコーヒーの味だけは、いまもわたしのなかに残っている。

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