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食べてみないとわからない

 1.夢ばかりなる

    こんな夢を見た。
 
 三人で、パウンドケーキを食べている。

 一人は、私。
  一人は、夫。
 そしてもう一人は、ネット上の彼だ。

 私は時々、ケーキを焼く。
    手作りするが、レシピは簡単な方がいい。
  そういうわけで、混ぜて型に流し込んで焼くだけのパウンドケーキが定番になった。
 今日のケーキは、チョコ味の生地の中に、オレンジピールと胡桃が入っている。
 オレンジピールは、柑橘類の皮を砂糖煮して、乾燥させたものだ。
  近所から無農薬のオレンジをいただいたので、手作りしてみようと思った。
 作り方がうろ覚えだったので、ネットの質問箱で教えてくださいと掲示した。
  そして教えてくれたのが、彼だった。
 それから、メールのやりとりを重ねている。

「何と言っても、今日のケーキのポイントは、中のオレンジの皮だなあ。後に残る苦味がいい」
 夫が目を細めて、感想を述べている。

「皮って言わないで。ピールだから」
 彼のために訂正する。

「どちらでもいいですよ。気に入ってもらえたなら。それより、このチョコの生地は濃厚ですね」
  チョコの生地は、夫の好みだ。
 
 その生地に、このオレンジピールを合わせてみたかった。
   個性の強い二つはお互いを引き立てて、素晴らしい味になると確信していた。
  予想通り、いや、それ以上の出来栄えだ。
 
 私は二人の間で、二人の男を交互に見ながら、にっこり笑う。
   そして、三口目《みくちめ》をぱくりと口にした。

2.うつしおみ

「……くるみ、くるみ」
   私はハッと目を覚ます。 目の前に夫がいる。
   どうやら、うとうとと眠っていたらしい。
 オーブンを見ると、もうライトが消えている。
   チョコレートの甘い匂いの中に、柑橘類の爽やかな香りがする。

「いい匂いがしてきたから見に来たら、寝てるし。焼いてる間に、使った道具を洗ってしまえば、億劫にならないんだろ」
 はいはい。ごもっとも。
    夫からは、いつも一言指導が入る。
    私はオーブンの扉を開けて、焼け具合を確かめる。
    竹ぐしを刺してみたが、生地は付いてこない。中まで焼けたようだ。

「もう、食べられるか?」
「食べられるけど、焼いてすぐは、生地がまとまってないわよ」
   せめて、粗熱が取れてから食べたい。
   できるなら、1日2日置いた方が生地が落ち着くし、しっとりする。

「匂いで誘っておいて、おあずけか」
 まあ、気持ちがわからなくもない。
  ふわふわの熱々パウンドケーキは、手作りならではだ。
  大振りに切り分けて、皿に盛り差し出す。
 夫は一口食べて、目を輝かせる。
「うまいぞ。生地はチョコで……何入れた? 甘いけど、後に少し残る苦味がいい」
 どきりとする。
  既視感を覚えた。 夫は、夢と同じことを言う。
 「ああ、オレンジピール。この間、作っておいたの」
「へえ。そういうとこだけ、まめだな。もうちょっと、掃除とかをまめにしてくれたらいいのに。だいたい、ケーキって砂糖がけっこう入ってるんだろ。太るし」
 美味しいって、食べてたくせに。

 夫に背を向けて、シンクの中のボウルや泡立て器を洗い始める。
 私は後で、ゆっくり食べよう。

 夫の関心は、すでにテレビの画面に吸い寄せられている。
 お気に入りの女優のCMを見て、鼻の下を伸ばす。
「美咲ちゃんみたいな、愛人がいたらなあ」
「じゃあ、私も優しい彼と付き合おうかな」
「どうぞどうぞ。相手にしてもらえればな」

 そんなこと、有り得ないと思ってるのね。

3.恋しかるべき

 夫がテレビを見ている間に、二階へ上がる。
 スマホを取り出し、素早く指先を滑らせる。

『こんにちは。 この間のオレンジピール、パウンドケーキに入れてみたの。生地は、チョコ生地。胡桃も刻んで入れた』
私が入力すると、すぐに返信がきた。
『美味しかった? 食べたんでしょ?』
『ちょっと食べた。美味しかったよ。ピールの苦味が効いてて、大人の味』  
『ふうん。大人の味ね』
『ねえ、何だかすねてるみたいだけど?』
『いいえ、別に。僕もそのケーキが食べたいなんてことは、言いませんよ』
『ふふ、言ってる。でも、できるなら、あなたと食べたい』

 夢の中に出てきたけれど、実は顔も知らない。
 本当の名前も住所も知らない。
 でも、甘い言葉をくれる。

『可愛い。素直に言われると、嫉妬してたのが、バカらしくなる』
『嫉妬?』
『そうだよ。僕はいつだって、あなたといたい』
『それは、私だって。いつもあなたのことを考えてる』
『それじゃあ、心は僕のものに。心がつながってるならいい』

 始めは、話していて好みの合う人だなと思った。
  言葉の調子だけで、細かな感情の揺れまで読み取ってくれる人だと思った。
  そして今は、私の欲しい言葉をくれる。
 今のような会話をするようになったのは、何がきっかけだったのか、もうわからない。
  冗談に見せかけて、かけ引きのように本音をにじませて、気付いた時には、恋に落ちていた。

 まさか、自分がこんなことをするなんて、思いもしなかった。
  ネット上とは言え、相手のあることだ。 十分、道を外れている。
  それはわかっている。

   これは、浮気なの?
    浮気って、遊び?
   遊びではないわ。気持ち的には、本気なの。

4.心のまにまに

  夫を裏切っている後ろめたさと、彼を傷つけている心苦しさ。
心の中には、その感情が常にある。
それでも、素直にピュアにしてくれる彼の言葉の魔法から、もう逃れられない。

たっぷり、たっぷり欲しいの。
ゆっくりケーキをいただく。
私は、甘ーいのが好きなの。
ほら、足りなければ、トッピングだって、シロップだって、好みでかけるでしょ。
だから、私には彼の甘い甘い言葉が必要なの。
たっぷり、たっぷりかけたいの。

 食べてみるまで、わからなかった。 こんな味だったなんて。
 甘くて、苦くて……。

一口毎に、彼の言葉がよみがえる。
私を認めてくれる言葉。
何を言ってもいいよ、受け止めてあげると言ってくれた言葉。
自分を卑下しないでと言ってくれた言葉。
そして、誰のための人生ではない、私の人生を生きてと言ってくれた言葉。
そんな言葉が、うずくまる私の手を引っ張って立ち上がらせてくれた。

日々のことに、傷ついていることさえわからなくなるぐらい麻痺していた。

私のまま、私でいていいのね。

彼の言葉に涙した。
涙はカラカラに乾いた心を潤した。

足りない分をよそからいただく。
一見、理にかなっていそうだけど、結婚だけはそうはいかない。

でも、私は手放したくない。今はまだ。
どちらを手放したくないの?

最後の一口を食べる。
奥歯で胡桃を噛みしめる。 香ばしさが広がる。
胡桃もちゃんと主張していた。

こんなケーキ、許されない?
食べてみた人にしかわからない、極上のスイーツ。
想像ではわからないと思うわ。

私は、今夜も夢を見る……。

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