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「存在のない子どもたち」

中東のスラム街の絶対的貧困を生きる子どもたちの話だ


あの「目」、見たことがあると思った。
メキシコシティの路上にいたストリートチルドレン、
リオのファベイラからやってくる子どもたち。
彼らと同じ目だと思った。
この映画の主人公のように乳児を背負っている子どもの姿も珍しくなかった。

そんな姿にショックを受けていた
当時12歳くらいの私のかたわらで
「あの乳児は物乞いをするために、どこかから借りてくる仕込みなんだよ」
「だから安易に近づくな、痛い目見るよ」
父の会社で働いているメキシコ人が言っていた。

また家族で車に乗って出かけた際、
大通りで信号待ちをしていると、
いきなり、フロントガラスに汚い水がぶちまけられることがよくあった。
そして頼んでもいないのに、
またたく間に、なにか洗剤のような泡をかけられて、
手荒く「洗車」される。
そして信号が青になる寸前には
「車洗ったから●ペソね」と小銭を要求されるのだ。
父も私の前、ということもあったのだろう、
毅然とした態度を見せるべく、要求に拒むと
子どもたちは「コリア!」と両目を釣り上げたジェスチャーをして、
私たち家族を罵倒していく。

絶対的貧困を目の前にしたショック以上に、
ストリートチルドレン、物乞いは
ただ「弱く、憐れむべき者」だけではなくて、
ときに騙し、こちらに危害を加える警戒すべき存在ということを肌で感じた。
ガールスカウトで
「恵まれない人々に募金をしましょう」という文脈で語られていた「美しい弱者」はいないことがショックだった。
手を伸ばしたらその手を食いちぎられる。
現実はもっと残酷で、汚いことを知った。

同じ年なのに私は防弾ガラスで囲まれたジャガーの後部座席に乗って、
彼らは裸足のまま、ヨレヨレのTシャツをまとい街をさすらう。
それは「衣装」か、リアルか、乳飲み子は借り物なのか、
本当のところはわからない。
でもそれはどちらでもいい話。
同い年の子どもがそうせざるを得ない現実に対しての
申し訳なさと後味の悪さ、胸糞の悪さに圧倒され、傷ついたのだ。

この映画は、そんな私の遠い日の記憶が
いわゆる「ROMA」的文脈で語られる「ありし日の思い出」ではなく
いまだ続いていることを改めて気付かせてくれたと思った。

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