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「自意識過剰だから」

フィクションの表現にいちいち楯突くのは
野暮なフェミニストだと太古の昔から言われている。

「これをセクハラと考えるアナタたち、そんなの自意識過剰よ! 
だれがそんなコドモの身体に興奮するの?」

とあるAVで看護師役の女性が発する言葉だった。
それによって女生徒(最近のAVではJKや女子高生というのは規制的にマズい)は屈辱的で羞恥的な身体検査を男子生徒の罵声を浴びながら応じる、
というフィクションだった。

明らかにこれは今のご時世、公に言ったら問題になることだからこそ、
この作品を手がけた監督は、確信犯的に登場人物に言わせたのかもしれない。

そしてそこで喚起された、わたしの中に残るザラリとした感触は
社会の構造によって思わされているのか、
それとも純粋に沸き起こってきたものなのか、出どころはわからない。
記憶があるかないかに関わらず
知らず知らず日々の堆積のなかで
社会によって刷り込まれてきたことかもしれない。
ただその心に残った感触は確かに、ある。
そんな議論も自分の中で、もはや手慣れた儀式のように済ませておく。

あらためてAVで展開される男の支配欲を
見せつけられるのが少し苦手なのだと気付いた。
自分より腕力を持っているものから投げつけられる悪意への恐怖、と大きめの言葉で言い換える。

セックスには支配欲、承認欲求、独占欲がベタりとひっつきまわってくる。
だからかえって純粋な性欲だけに端を発する大人同士が
カラダを使って気持ちいい遊びをしているようなセックスは潔いし、
爽快だしフェアな手ざわりがある。
健全な「エロ」はスポーツみたいなもので、
それを行なっているアスリート兼パフォーマーはメディアに出て、
<性の大切さ>みたいなことを迷いなく訴えられるのだと思う。

ただ一方で、そのイヤな感情、自分でも直視したくない感情こそ、
うしろめたさを伴って激しい興奮に結びつくことも知っている。
それは教えられたのか、見聞きしたのか、
はたまたDNAレベルでインストールされていたのか、わからないけれど。

人間だれしも職場でも家庭でもあぶれ出してしまうモヤモヤ、ドロドロとしたものがある。ただそれらすべてを直視するのはキツいな、と軽く引き裂かれた個人的なおハナシ。

「ここをこうしてほしい」「気持ちいいからもう少しこのままでいて」
そうはっきり相手に告げる海外仕込みのポールダンサーの女優さんが超かっこよかった。ただセールス的には微妙だろう。

狭い村の細かな作業の中で、
たまにこんなことを考えながら、レビューをしていますよというハナシ。

人は皆、着たいものを着ればいいし、
脱ぎたければ脱げばいい。
そこで自分がなにが似合うのか、
脱いだら真っ先にどこを見せるのか、
そこも考える美的客観性みたいなものは持ちたいな、と思うのです。

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