[雑記]生成AIとアートの経済圏について思うこと

 とある生成AIアートを展示したギャラリーのレセプションパーティに呼ばれてきたのだけれど、モヤッたので雑記に留めておく。

1つ目のモヤりポイント

 自社の作品のみを学習データとして使ってピュアなモデルを作って、アート作品を作るというコンセプト。この行程自体は、レフィーク・アナドールとMoMAの《Unsupervised》(2022)の手法に酷似する。MoMAが学習用の作品をデータ提供し、レフィーク・アナドールが作品として仕上げた。自社の作品を使っているのであれば違うものではあろうけれども、作品に対する文脈の読み解き方もなく、学習を回してモデルを生成したのではないのだろうか。なるほど生成AIというツールでは、ギャラリースペースと作家が協業しやすく、かつ文脈を作りやすく、財界の人間を巻き込みやすいのだろう。生成AIの経済圏というのは手放しには称賛されるべきものではなく、注意深く見なければならないとある先生が指摘していたがその通りである。しかし手法がまるで同じことに自分は驚いた。誰も指摘せんのか。そして工夫せずとも飛ぶように売れてしまうのか。しかしそれもアートである。売りたいかつ売れる相手を見つけて売るということは正しいことである。

2つ目のモヤりポイント

 自分は「生成AIは道具である」というスタンスである。そして生成AIは技術として途上状態である。例えばIllustratorが開発途中でうまく描けないソフトだったとしよう。うまく描けないから工夫してブラシだけを用いてこんな絵を描いてみました。というところが、自分の訓練データを絞ったモデルでの生成アートの感覚なのである。別に技術として枯れていたとしても、それはアートになりうるだろう。だけど途上だからこそ、分からない状態だからこそ、アートとしてより祭り上げられていないだろうかと思う。他の例を出してみると、自分の感覚としては、髪の毛で習字をするようなパフォーマンスに近い。自分のプリミティブな部分を出して、それを使って不自由に成果物を出力しているイメージ。これはアートであるのは間違いのだけど、なぜか生成AIを使っているとおしゃれに見えるようにプロモーションされる。

という二点でモヤるーーー、これはこれをやられて悔しいってだけじゃないと思ってる。


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