ショートショート 『天井』


「ちょっと待ってや、今どんくらい」
「たぶん踊り場んとこ着いたで」

 僕は後ろから来る斎藤くんを待った。
 僕たちは図工の授業で自画像を描くために配られた置き鏡を使って遊ぶことに没頭していた。鏡面を天井に向け、それを自身の鼻に当て、真下の床を見るように鏡を覗き込みながら歩くと、まるで天井の上を歩いているような感覚になる遊びである。
 下校時に決まって、帰り道が同じ方向の斎藤くんと手に鏡を持ち、毎度出来るだけ場所を変えながら、校舎内を徘徊し、遠回りしながら帰っていた。
 そういった日が何日か続き、校舎内でも特に、平坦な天井を見ながら、足元が上下に高低する階段を好んで歩いていた際の出来事であった。

「なにしてんねん、はよ」

 僕たちはほとんど密着するようにして四階の階段から下り始めたものの、僕はおそらく二階の踊り場の辺りにいて、まだ三階の階段を下りているであろう斎藤くんに向かって、急かすように後ろへと声をかけた。この探検に慣れてきた僕はいつもより早足になっていた。
 無機質な天井を鏡越しにぼんやり見ながら、一向に来る気配のない彼を待つ時間はとても心細く、その気持ちの隙間に入り込むようにして、どこからか家庭科の授業で調理実習を行っていたであろう味噌汁の匂いが優しく、母親を装うように、僕を包んだ。

「パパと暮らす」

 十歳の小学生としては、はっきりとした物言いで、リビングに集まった母、父、妹の前でいかにも長男らしく言い切った。頭では両親が離婚するという事実を全くもって理解できなかったが、テレビドラマの上でしか感覚的に知り得なかった母子家庭という現実がすぐそこにあるのならば、それはとても辛そうであったし、何よりも母親を守るためには母親と別れなければならないと幼いながら頑なに気持ちを押し通した。
 それから一カ月経ち、父、僕、妹の生活に慣れてきたものの、ふとした瞬間に母親を彷彿とさせる物が家の中はもちろん、外の世界にもありふれていて、この味噌汁の匂いのように、それはほとんどが襲ってくるのではなく、語りかけるように寄り添ってくるので、余計に対処しにくいこともわかった。
 そんな現実を少しでも見ないようにしてくれていた鏡も、今日は意地悪をし、執拗に母親との思い出をその四角い狭い枠に映し出すので、僕は涙を滲ませることによって、画面をぼんやりとさせるしか方法はなかった。
 斎藤くんが来る、こんな所は見られたくない、と僕は鏡に映る所々ぼやけた天井を服の袖で拭い、全てを斎藤くんのせいにしようと鏡を取り、階段の上段を見ながら、わざと気怠そうに声をかけた。

「もう腹減ったし、遅なるから帰ろや」

 わかったー、と階段の上段から駆け下りてくる斎藤くんの姿を期待していた僕は、見上げた先に小魚の群れが優雅に泳いでいる光景に驚いた。
それは見ようによっては、学校の天井の彫刻刀で彫られた柄のようなものに見えないこともなかったが、足元の砂、ふんわりと身体を包み込む海水、小魚越しに見える海面を照らす太陽の光をもって、僕は今、海底にいることがわかった。
 僕は天井と階段の隙間から沈み込むようにして辿り着いた海底に戸惑いつつも、先ほどまでの不安と悲しみで覆い尽くされていた頭と身体は重力もろともこの海水の中に溶けて消えゆくような心地良さに酔い、丁寧に鱗を剥がしていくかの如く、身をよじった。

「こんにちは」

 僕は声をかけられるまで、自身の身体全体に広がる多幸感に溺れており、隣に人がいるなんてことは全く気付かずにいた。

「初めまして、お邪魔してます」

 と僕はこの声をかけてきた初老の男性の住処に来たのだ、と勝手な解釈をして返事をした。

「久しぶりだね、こんなに顔が丸かったんだね」

 と初老の男性は自分が僕の五十年後の姿だとゆっくりと丁寧に話をしてくれるのに対して、僕はそれを全く疑うことなく、彼の周りに漂っている数人の男性もそれぞれ二十、三十、四十、五十歳の僕であるらしい事実もまたすんなりと受け入れることができた。
 彼らの顔に僕らしいところがあると言われるとそのような気もするが、何よりも大人である彼らが子供のような無邪気な顔をして気持ち良さそうに漂っている姿を見て、僕の物わかりが良いと大人に評判だった偽りの仮面は波でめくれ、丸裸の心と身体で彼らの輪に加わることができた。
 何分、何時間と時間の感覚はどのくらいであっただろうか、気が付くと僕だけが徐々に海水を上昇していき、真下で手を振っている彼らが僕を、たかいたかい、してくれているようにも見えた。

「また会えるのを楽しみにしてるぞ」

 と初老の男性は僕の方を見上げながら言った。
そのまま僕の身体は海水から引き上げられるように上昇していき、遠く下の方にいる彼らの姿は見えなくなり、目の前には先ほど見た小魚の群れが僕の周囲を取り囲むようにして、最後の仕上げと言わんばかりに、僕の憂鬱を掻い摘んで食べてくれた。
 ほとんど自分の身体を認識できないくらいの状態で僕は海水から抜け出し、当たり前かのように、太陽の光の元へぐんぐんと伸びるようにして向かい、そのまま身体が引き延ばされるような形で雲の一員として加わった。
 そこで僕は背中一面に太陽の光を浴びながら、今度は身体の先端からぐるぐると丸めこまれ、最後には果実を搾るように、僕は一滴の雨水となり、前後左右に鮨詰め状態の同志と一丸となって、陸地を目指し、降下していった。

「うわ、冷たっ」

 いつの間にか手すりとは反対側の壁を伝って階段を下りてきていた斎藤くんが踊り場にできた水溜りに真っ白の上履きを踏み入れてしまい、天井からポタポタと垂れている雨水を睨む姿を見て、僕はセーフやったで、と鏡に残る細かい水滴を彼に笑いながら見せた。

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