小説『雨下の向日葵』親愛なるニキビたち―②
読んでいただいてありがとうございます。この記事は続けて投稿している小説の第十二回となります。
前回からかなり遅れた上に最早投稿の曜日も滅茶苦茶になっております。
万が一、楽しみにしていただいている方がおられたら、すいませんでした。
反省してます。
前回→小説『雨下の向日葵』親愛なるニキビたち―①|明日美言 (note.com)
始めから→小説『雨下の向日葵』 2018年春―①|明日美言 (note.com)
昼休み、教室で弁当を開こうとして、ニキビのことを思い出し、席を立った。向かったのはいつものあの場所だ。少し期待したけれど、先輩はいなかった。そういえば今日は何か予定があるから、放課後の練習もできないって言ってたっけ、と先週の先輩の言葉を思い出しつつ、階段に座って弁当箱を開く。腐らないようにと、包みの中に保冷剤が入っていたから、弁当の中身はひんやりしていた。味も何も気にせず、一人で黙々と食べるものだから、昼食はすぐに終わってしまう。弁当が無くなるとやることがなくなる。読書をしたいところだけれど、今読んでいる本は、昨日の夜に読んだっきり、枕元に寝転んだままだ。朝食を食べる前までは、鞄に入れないと、と思っていたのに、トイレに行った時にすっかり、うんちと一緒にトイレに考えを流してしまった。時間を持て余しながらじっとしていると、行く当てのない意識が肌の感覚に向き始め、冷房の効いていない西校舎の廊下に滞留している熱気が気になってきた。けれど教室に戻ったところで、机で突っ伏して寝ているふりをするような貧相な真似しかすることがない。
とりあえず、この暑さから気を紛らそうと、弁当箱を片手にその場を後にして、適当に校内を歩き回ることにした。西校舎を出、渡り廊下を歩く。直接日が差すここは、他の場所を圧倒する異常な暑さだ。日陰に慣れてしまったせいか、頭がくらくらする。ふと、朝夕はけたたましく響く蝉の声がこの時間は聞こえないことに気付いて、なんだか物足りないような気がした。おかしな話だ。朝はあんなに鬱陶しかったのに、なくなってしまうと、こんな風に、頼りない感じがするとは。
そういえば、蝉が鳴くのは求愛のためなんだっけ、と小学生の頃に得た知識を思い出す。それなら朝の、あの種類の分からないやつらの鳴き声はロック、夕方のヒグラシはバラードと言ったところか。よくもまあ毎日飽きずに同じ歌を歌えるものだと思う。毎日毎日、羽を擦って鳴いて、一体何匹が運命の相手を見つけることができるのだろう。実るかどうかも分からない恋のために、たった数日しかない自由時間を費やす彼らの積極性には恐れ入る。二、三匹捕まえて、煎じて出汁を取って両親に飲ませたら、いくらか二人の関係も良くなるんじゃなかろうか。
正面、東校舎の方から出て来た男子生徒の視線で、自分が渡り廊下の真ん中で立ち尽くしていることに気が付いた。額に浮き始めた汗を手の甲で拭いながら急いで歩き出し、建物に入る。
東校舎の中は、西校舎に比べると、断然過ごしやすい。服の胸元を掴んで、パタパタ動かし、中の空気を入れ替える。生地の下で風が揺れる感覚が心地いい。顔に滲む汗が集まって、雫になってこめかみを垂れ、マスクに沁み込む。呼気と汗でやや湿ったマスクが気持ち悪い。一度心配になってトイレに入り、鏡で顔を見てみたけれど、幸い、前から見ると湿りは見えないようだった。
トイレを出たところで、ふと、階段を降りていく数人の女子生徒の姿が見えた。教科書を持っているから、多分五限が西校舎での授業なのだろう。彼女たちの胸元のリボンは黄色。三年生だ。
ハンカチで手を拭きながら、もしかして、とちょっと期待してみていると、案の定、見覚えのある顔が階段を降りて来た。なんだかんだで、今まで正課の時間に会ったことはほとんどなかったから、軽く会釈くらいはしようと彼女の方へ視線を送って、けれどすぐに、何か、違和感のようなものを感じた。
先輩は、三人の同級生と談笑しながら歩いていた。けれどその笑いは、零れるような上品な笑い声とか、どことなく憂いを含んだような複雑な表情になって表れているのではなくて、下品で、快活というほかない、単純な色彩を纏っていた。他の生徒と声を揃えて大きく笑うその姿は、いつも放課後に見る彼女と同じ人物だとは思えなかった。
あまりの違いに、何か不気味なものを感じて、一歩後ずさった私の方を、その別人の目が一瞬捉えた。けれど、重なった視線はすぐに解けて離れ、以降彼女は二度とこちらを見ずに、そのまま階段を降りて姿を消した。
三年生が居なくなると、廊下は急に静かになった。もうすぐ休み時間が終わるころだから、他の生徒たちも教室に帰っているのかもしれない。
マスクをしているといっても、この背丈の私と目が合って、見間違えられるはずがない。それならこちらの見間違い、或いは私が知らないだけで、先輩には双子がいるのかもしれない。などと、さっき見た光景になんとか納得できる説明をつけようとしたけれど、上手くいかない。そうこうしているうちに、けたたましくチャイムの音が廊下に響いたので、私は慌てて教室へ走った。
放課後、練習が休みとはいえ、そのまますぐに家に帰るのもつまらなかったので、またいつかのように校内をうろうろしてみたけれど、前と違って、楽しみが見つかることはなかった。結局、私はものの三十分ほどで戦意を喪失し、近くの喫茶店にでも行って時間を潰そうと考え、生徒用の玄関を出た。
まだうす青い空の下では、気の早い数匹のひぐらしが歌を唄い始めている。始めは早く、後には失速して、段々と消えていくその声を一人で聞いていると、不思議な、心地いい寂しさを感じる。
大きく深呼吸をし、夏の空気で肺をいっぱいに満たしてから、校門の方へ歩き出す。少し進んだところで、校門から続く塀にそって並ぶ、鉢植えの植物たちが見えた。確か、園芸部が育てているのだったか。知っているもの、見たことのあるもの、全く知らないものなどなど、色々と種類はあったけれど、中でも一番目を引くのは、右端に置かれた鉢から空に向かって真っすぐに背を伸ばし、その花をばっと大きく広げている向日葵だ。日が校舎に隠れて、校門の辺りがまとめて日陰になっているせいか、向日葵はどこかくたびれたように俯いている。そして、下向いたその顔を、すぐそばに立って一人の小柄な女子生徒が見上げている。丁度、生徒と向日葵の花が見つめ合っているような恰好だ。
登坂さんだ、と思った。横を通り過ぎる時にちら、と顔を覗いてみると、やっぱりそうだった。彼女もこちらに気付いたようだったけれど、慌てたように会釈をして、そのまま逃げるような足取りで校舎の方へ戻って行ってしまった。
不意に辺りが暗くなったので振り返ると、校舎の向こうの夕日が大きな雲に覆い隠されていた。いつの間にか流れて来ていた雲は、楓の葉のような形だった。いや、どちらかと言えば、手のひらにも似ていたか。
急に青味がかった景色の中を歩き出す。
いつものように坂道を下りながら、私はぼんやりと、さっきの登坂さんの姿を思い浮かべていた。
俯いた向日葵をじっと見上げる登坂さんは微笑していた。自分が育てた花が大きく咲いたことが嬉しかったのだろうか。けれどそれにしてはどこか、あの笑顔は寂しげだった。それに、折角成長を喜ぶなら、元気に太陽を追って、空を見上げている向日葵の姿にこそ、笑顔を零してしまうものではないのだろうか。
ふとそこで、私は歩調を遅くした。何か重要なことに気付きそうな気がした。
けれど、その「重要なこと」が重ね着した謎を脱ぎ捨て、私に正体を見せてくれることはなかった。
ただ一点、向日葵が俯いている、ということが問題なのだということだけは分かっていた。
つまり夕方、校舎の陰に太陽が隠れた後、下校時刻が訪れるまでのほんの短い時間だけが、登坂さんと向日葵がその顔を向き合わせることのできる時間なのだ。なんだか、限られた時間で密かに恋人同士が逢瀬をするようだ、というのは、我ながらロマンチックでいい喩えだと思った。
緩めていた歩調を再び早めた。いつの間にか夕日は雲の分厚い手の中から抜け出して、一日の終わりを告げる光を町に投げかけていた。
今度、先輩にさっきの喩えを話してみよう、と考えながら、私は家路を急いだ。
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