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小説『雨下の向日葵』 2018年春―①

 カレンダーをめくるのを忘れていた。気付いたと同時に自分のだらしなさに嫌気がさした。今朝方から続く憂鬱な気分もそれを手伝って、私の気分は一層深く沈んだ。丁度夕食を終えたタイミングだったので、面倒臭さを感じつつも立ち上がり、隣の部屋に移動して、壁にかけたカレンダーの一ページ目をつまんだ。四月のページの上半分には、澄み切った青空と、その下で桃色の袖に包まれた手を広げる満開の桜の写真が載っている。どこで撮られた写真かは知らないけれど、写真の桜も、今頃はこの近所の公園のそれと同じように、初夏らしく緑に着替えているだろう。いや、現実的な話をすれば、カレンダーを作る都合上、写真は少なくとも去年の年末には用意されていなければならないのだから、この桜の花は今年の春に咲いたものでさえない。いわばこの写真は、春らしさを演出するための偽物の桜だ。そもそも写真に収めたものなんて、全部偽物みたいなものだけれど。
 その桜のページを引っ張ると、パリパリと音を立てながら、頭の方のミシン目が切れて、青葉の写真に飾られた五月のページが顔を出した。とはいえ、それはあくまでカレンダーの上での話で、本物の五月はもう残り一週間を切っている。どうせまた、もう数日後にページをめくらなければならなくなるのなら、今覚えているうちに、さっさとこの五月も剥がして捨ててしまおうか、と考えたけれど、やめた。そうしてしまうと、本当に時間が過ぎるのが早くなってしまうような気がした。みずみずしい青葉の写真を少しの間見つめてから、手に持った四月の、厚みのある、少し硬いページを無理やりに丸めて、リビングのごみ箱にねじ込んだ。部屋の中は、先ほど食べ終えたレトルトカレーの匂いで満たされている。堆積したその空気の入れ替えも兼ねて、掃き出し窓を開けた。網戸の向こうから、それまでガラスに遮られていた雨音が、スイッチを切り替えたように、湿った涼風と共に部屋の中へ流れ込む。その風の温度に、部屋の空気が浄化されていくのを感じて、私はその場を離れ、中身の残っている缶ビールを残して、汚れのついた皿をキッチンへ運び、洗って乾燥台に置いた。調理に使ったのは、炊飯器の釜と湯煎用の鍋だけだったので、洗い物を始めてからタオルで手を拭いて二階に上がるまでは短かった。
 階段を上がった先には、短く細い廊下が続いている。その正面奥、右手、左手にそれぞれ引き戸があって、正面のそれだけが洋室、残りは和室の入り口になっている。左手の和室には、一階の屋根の上に少しだけ張り出した小さなベランダがあって、夜にそこでタバコを吸うのが、最近の私の日課だった。
 仕事帰りに放りだしたままだった鞄からタバコの箱とライターを取り出し、ベランダへ。他の部分の瓦屋根と違って、粗末なこのベランダの屋根はトタンで作られているので、雨音が響く。トントン、タンタン。固くて軽い、不規則なリズムの下に立つと、木製のささくれた欄干の向こうには、その屋根のトタンの溝に沿って溜まった雨水が何本かの束になって流れ落ちて、一階の瓦の上で弾けている。瓦の表面は水に濡れて、部屋から漏れた白色の電球の光を鋭く弾いた。
 欄干にはいくつかタオルをかけてある。これはこのタオルを干すためではなく、以前この欄干を触った時に、木がほぐれて出て来た棘が手に刺さったことがあるので、その対策のためだ。ここだけでなく、昭和の時代から変化する街並みを眺め続けてきたこの家の中では、あちこちにその月日の痕が、傷や老朽化として表れている。生活をする上で不便なところもあるけれど、私はどことなく、この家のそういう古さが好きだった。完璧ではない傷物だからこそ、安心して使える気がしていた。もちろん、家賃が安い、というのも大事なポイントだけれど。
 くわえたタバコの先にライターの火を当てる。少しして、その火がタバコに移ったことを、吸い込んだ息の味で確認して、私は大きく、淀んだ雨空に向かって煙を吐いた。口をすぼめて、ふう、と糸のように伸ばした煙は、揺らめきながら空へ向かって伸びて、広がって、すぐに風に煽られて消えた。儚く消えるその灰色を見つめながら、私は、さっきめくったカレンダーの、六月の写真を想像していた。六月になれば、梅雨が始まる。今日のような空の気まぐれは減って、天気はしばらく雨一色になるだろう。カレンダーを彩る写真は、梅雨の雫を顔に受ける紫陽花に違いない。ありきたりなテンプレート。変化はないけれど、安定している。昔はそういう逃げは嫌いだったけれど、今はそうでもなくなっている。若さが徐々に体の中から消え去っていくのを感じている大人の私には、もう失敗を恐れない世間知らずな勇気は残されていない。そういう強さというか、危うさは、もうとっくに、タバコの煙と一緒に吐いてどこかに飛ばしてしまった。私が捨てた若さの残滓は、雨雲の中に溶け込んで、どこかで誰か、青春の真っただ中にいる人の肩を濡らすのだろう。
 そういえば、近所の家に毎年紫陽花を咲かせて家の前に飾っている家があったはずだ。通るのは車で出勤する時だけだけれど、今年は暇を見て、歩いて行って、ゆっくり見せてもらうのもいいかもしれない。そんな考えに釣られて、紫陽花の家の方へ目をやってみたけれど、大雨がいつも以上に深い闇を町にたたきつけているこの夜の中で、離れた建物を判別できるわけもない。家の前の通りを見下ろすと、青白い街灯の光が、路面で踊る雨水に乱反射しているのが見えた。数えきれない大粒の雫が周囲の屋根を打つ足音だけが辺りの空気を震わせている。通りを往く車も人影もない。住宅街に平時から満ちている静けさは、雨音によってその存在感を一層強めていた。
 またタバコを口に咥え、息を吸って、吐く。美典の前で吸ったら、怒られるだろうな、と思う。私は一人、同い年の彼女が、肺がんになるよ、なんて言葉を、心配そうな顔で私にかける様子を想像した。
 先輩なら、怒るだろうか。
 途端、雨の足音が一層強まったように感じて、私はまた、タバコを強く吸って、肺を満たした。今しがた思い出した顔を忘れようとするように、乱暴に息を吐いて、またタバコをくわえてを繰り返す。床に落ちた灰を踏みつぶして、つぶれた粉を少しの間じっと見つめて、けれどそうしているうちに、そんなものを見つめている自分の姿を想像して、白々しくなって、部屋に戻った。
 一階のリビングに戻り、灰皿の底にタバコの頭を押し付ける。いつの間にか随分短くなっていたそれは、先に灰皿に入れられた兄弟たち同様、私の指の先で息絶えた。無感動にその死を見つめた後で、床に落ちていたリモコンを拾ってテレビをつけてみた。どうでもいいニュースに、くだらないバラエティ、知らない歌手の音楽番組。気の向くままにチャンネルを切り替えてみたけれど、めぼしい番組も見つからず、結局テレビはすぐに消してしまった。そのまま空いた手でテーブルから持ち上げた缶に少しだけ残っていたビールをすする。炭酸はとうに抜けている上、冷蔵庫から出して随分経ってしまっていたものだから、温くてちっとも美味しくない。まあ、私にとってお酒はそもそもおいしいものではないのだから、あまり文句を言うものでもないか。
 タバコとおんなじ。気分を無理やり変えるためのドーピング剤のようなものだ。違法でないだけの薬物。慣れないうちは、一本吸ったり、飲んだりすること自体が目新しく、気分が高揚して、嫌なことを忘れていられたけれど、慣れてしまえば何ということもない。私は生まれつき肝臓が強くて、どんなに酒を飲んでも意識は飛ばない。吐き気がしたとしても、それは酔いのせいではなく、胃袋のキャパオーバーのせいだった。タバコの方は、吸うことで気分を落ち着けていたはずが、いつの間にかそれがあべこべになって、吸わないと気分が悪くなるようになっていた。前に一度、本当にイライラした日に、その日の朝買ったばかりの煙草をひと箱、午前中に空にしてしまったことがあってからはさすがに自分の行いに恐怖を感じて、何度か禁煙を試みてはきたけれど、今のところ成果は出ていない。
 もういいや、私はお婆ちゃんになってから肺がんで惨めに死ぬんだ。そのころにはきっと安楽死も法律で認められてらあ。私は麻酔を打たれて、一人寂しく、医者と看護師だけに看取られながら死ぬんだ・・・。
 心の中で一人、そんなやけくそな言葉を吐いてみる。吐いたところで何にもならない。意味はない。自分で笑うことすらできない。
 テレビの向かいに置いたソファに座って、足を組んだり、伸ばしたり、曲げて腕で抱えてみたり。色々と足を動かしても、どの姿勢にもなんだか違和感があって落ち着かない。一度落ち着く姿勢を見つけても、少し経つとどこかがかゆくなってきたり、居心地が悪くなったりして結局また姿勢を変えての繰り返し。三度目に姿勢を変えるころにはもうそれも億劫になってきて、結局立ち上がってソファを離れた。リビングの中の空気は、いつの間にか外気と馴染んでひんやりと冷たくなっていたけれど、最初風が吹き込んだ時のような心地よさは感じなかった。
 再び二階へ上がり、一瞬悩んでから、今度は右手の和室に入った。天井の中心にぶら下がっている照明の紐を引っ張って灯りを付け、壁際に畳んで置いていた布団を広げた後で、もう一度、今度は二度紐を引っ張った。一度引っ張るだけでは、照明は豆電球モードになるだけで消えない。私は灯りのついている部屋では寝られない性質なのだ。眼鏡を外し、枕元に置いてから、布団の上で大の字に転がった。掛布団ごと畳んでいるせいで、シーツがしわくちゃになっている。冷感効果のあるそのシーツに手を這わせ、心地よい肌触りを感じつつ、さっき二階へ上がって来た時に、正面奥の作業部屋に入らなかったことを後悔した。ここしばらく、あの部屋には足を踏み入れることすらできていない。仕事で疲れているからと言い訳ばかりしているけれど、本当のところは、続きが思いつかないだけだ。いや、それすらも言い訳だ。いい加減、私は自分の文学への感情が片想いでしかなかったことに気付き始めているのだ。それを認めてしまえば、今まで積み上げて来たものとか、費やした時間とか、小説家になると誓った思い出とか、そういうもの全てが意味を失って、自分という存在が足元から崩れてしまう。何より、今更夢を諦めて、それで何を支えに生きていけばいいのか分からない。私は空っぽになるのが怖い。そして、空っぽなまま、それでも機械のように決まった日課を繰り返し続ける自分の姿を容易に想像できてしまうことが、何よりも恐い。
 寝室の窓には、隣の家の壁が見える。白い断熱素材で出来た壁は、その家の窓から漏れているらしい暖色の光にうっすらと濡れている。隣に住んでいるのは、結婚したての夫婦だったはずだ。引っ越してきたのは数か月前のことで、その時に挨拶に来た二人と、少しだけ会話をしたことを覚えている。あの時もらったお菓子は、後で食べようと思っているうちに腐らせてしまった。二人の地元らしい、北陸のお菓子だったはずだけれど、もう名前も覚えてはいない。そのうち子供が生まれたら夜泣きがうるさいだろうな、と思う。
 嫌だな。昔はこんなこと、思わなかったのに。年々、自分がしなびて、醜くなっていく気がする。
 声とも吐息ともつかない呻きを漏らしながら、寝返りを打った。シーツが私の肌の熱を吸ってしまったので、まだ冷たいところを探そうと体を動かしたのだ。
 意味もなく、視線の先の方へ手を伸ばして、握ったり、広げたりしてみる。手を動かしている感覚はあるけれど、暗いせいでほとんど何も見えない。変な感じだ。ずっとそうしていると、段々と頭が混乱してきて、本当は腕を伸ばしてなんかいないような気がしてくる。今腕が伸びているはずだと思っ見ている先には、本当は何もない虚空があるだけなんじゃないだろうか。考え始めると、それが正しいような気がしてきて、気持ちの悪さに耐えきれなくなって、私は体を起こした。手探りで頭上にあるはずの紐を探す。勢いよく触って揺らしてしまうと掴めないので、ゆっくりと両手で空を触っていると、右手の指先にそれらしい感触があった。逃さないよう、しっかりつかんで一度引っ張ると、途端、部屋の中が照らし出された。眼鏡をかけていないせいで視界はぼやけていたけれど、確かにそこに腕はあった。
 掠れた吐息が滲む部屋の中で、照明の紐の影が揺れていた。
 今日は木曜日。つまり、明日も出勤しなければならないということだ。こんなことをしている場合ではない、と私は今しがた引いたばかりの紐をまた掴んで部屋を暗くした。出勤という言葉の通り、私は今一般の企業で会社員をしている。なんということもない。ただ単純に、私の半端な才能では、作家として生計を立てることができないというだけ。それでも私に小説を書かせているものは、夢に対する情熱なんて大したものではない。そんなものは当の昔に燃え尽きている。執筆はもはや、ただの習慣と化している。泥沼のような習慣を維持し続け、事務の仕事でパソコンを使い、夜に家で小説を書く時にパソコンを使い、と液晶漬けの日々を送ったせいで、大学時代まではちょっとした自慢だった視力が、ここ数年で大きく低下してしまった。今では眼鏡のレンズ越しでないと、かつて自分が見ていたような鮮明な景色に触れられなくなってしまっている。
 不意に、高校生の頃に見た景色の記憶が頭を過ぎった。いつかの放課後、もうずっと前に取り壊されてしまったあの校舎の、三階の廊下と屋上を繋ぐ階段の踊り場。当時見た光景は隅々までクリアだったはずなのに、今こうして思い出すその瞬間はひどくおぼろげで、無意識に多くの部分を想像で補ってできたものだった。カレンダーの桜と同じ、偽物の景色だ。
 もう存在しないあの場所に、たとえもう一度立つことができても、今の私の目ではあの時見たのと同じ景色を見ることができないのだと思うと、急に胸が詰まった。大学卒業後、両親から逃げるようにして始めた一人暮らしの中、これまでも何度も私を襲ってきた空疎な孤独感が、今また、数年振りに私の中に芽生え、ふくらみ、他の感情を押しつぶそうとしていた。寂しさに支配されることを恐れて、私はぐっと小さくなって、窓の向こうで町を洗う水の音に耳を澄ました。

続き 小説『雨下の向日葵』2018年春―②|明日美言 (note.com)

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