夏至の余白に

今日は夏至ですね。一年でもっとも昼が長く、夜が短い日。(部分日食に新月に父の日と、にぎやかな日曜日でもあります)

でも、冬至の柚子湯や、春分秋分のぼたもち・おはぎのような、全国的にポピュラーなならわしが、大きな節目であるはずの夏至には見当たりません(粽を夏至にいただく風習が荊楚歳時記に見られます)。

田植えや麦の刈入れなど、農事の繁忙期にあたるのが、ハレの日的な慣習の見当たらない理由にも思われます。

7月に入ると、七十二候で夏至末候「半夏生ず(はんげしょうず)」の季節となり、この半夏生(はんげしょう)が田植え終わりの目安とされてきました。半夏半作といって、半夏生までに田植えが終わらないと秋の収穫が半分になるとか、半夏雨といって、半夏生に雨が降ると豊作の吉兆とか、言いならわしも色々です。

この半夏生に、田植えが終わってご苦労さまと、とれたての旬の麦でうどんを打ってふるまったり、タコを食べたりする慣習が各地で見られます。タコは、田に植えた苗がタコの足のように地にしっかり根づきますように、と縁起を担いだともいいます。

ひょっとして、夏至のならわしはこの半夏生なのかな、とも思いつつ、あらためて今日のことを思ってみると…。

夏至とは、冬至と対をなす一年の節目です。この日に定まった慣習がいまは見られないとすると、これは年中行事としては珍しい、何もないハレの日と言えるのではないでしょうか。いわば、行事的な余白の日です。

思えば、日常はなすべきことに満ちあふれています。そんな中で、太陽と地球の関わりが一年のピークに達する夏至に、ぽっかりと余白がある、というのもよくよく考えてみると不思議なことです。

心は、余白を求めているように思われます。

もしいまの時代、夏至に決まったならわしがないのなら、この余白をあなたの心のためのもの、と考えてみてはどうでしょうか。好きなことを自由にすることが、夏至の時間の過ごし方と思ってみては。

音楽や読書をゆっくり楽しむのもいいでしょうし、おいしいものを食べたり、のんびり散歩したり、それこそ、とりたてて何もしないで過ごしたり、心がたっぷり余白を味わう日と考えてもいいような気がします。

長い昼の時間のあとに訪れる、夏の時期の短くなった夜を、短夜(みじかよ)といいます。今夜などは、その短夜の最たるものでしょう。

どうぞ心の向くままに夏至の余白をお過ごしください。


(付記)

夏至は余白、と言いましたが、からっぽの心というものは、からっぽのままでいられるひとときを必要としますし、しばしの間であれ、そうあってほしいと願いつつ

「いのりのように」
詩/白井明大 写真/當麻妙


(天然生活web・二十四節気ことのはノート「夏至」より)

https://tennenseikatsu.jp/_ct/17370415?ct=id&fr=cl

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