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阿仁のくまさん

 私の母の出身地は秋田県内陸の阿仁地域だ。
 かわいいローカル線・秋田内陸縦貫鉄道が南北に走り、「花の百名山」と呼ばれる森吉山が聳えている。鉄道ファンの方や、登山をする方はご存知の方も多いかと思う。内陸線に乗っていると清流・阿仁川でアユ釣りをしている人を車窓からよく見かける。電車の窓から手を振ると、多くの住民の方は手を振り返してくれる。
 バター餅が人気を博して久しいが、あれはこの地域発祥のおやつだ。
 旧阿仁町・森吉町・合川町・鷹巣町が平成の大合併で一緒になり、今は「北秋田市」となっている。
 本当に長閑なところだ。春は桜や梅や桃が一斉に咲き、山菜天国。夏はまるでアニメみたいな広い空に入道雲、緑の山々と田んぼ。夜は満点の星空で、流れ星も見つけ放題。秋はきのこに栗に新米に。冬は一面の銀世界。

 子供の頃は夏休みによく訪ねた。祖父母はニワトリを飼っていたので、朝ごはんは産みたてのまだ温かい卵を祖父母が田んぼで作った白飯の上にかけて食べる。超絶豪華なTKGだ。
 朝ドラが始まる頃になると近所の人達が続々訪ねてきて、朝ドラを見ながらお茶を飲み、おしゃべりが始まる。インターホンなど鳴らさない。鍵をかける習慣などなかったので、勝手に玄関の引き戸を開け、勝手に上がってくる。それが普通だった。
 裏にはさらさらと小川が流れていて、よく妹と『となりのトトロ』の真似をして遊んだ。
 たまに赤とクリーム色の秋北バスに乗り、祖母に連れられて阿仁川の川原で開かれている「市日」に行った。大型トラックが沢山川原に乗りつけ、筋子やスルメなどをはじめとする海産物を中心とした品物を売っている。要するにマーケットだ。「ゆみそ」と呼ばれる餅のようなカラフルなお菓子や、スーパーボールとかビー玉のような子ども向けのおもちゃも売られていた記憶がある。宝の山感が凄かった。
 夜になると外に人の気配はない。洗面所で歯磨きをしていると、窓からポツリと寂しい街灯の灯りがひとつだけ見える。時々車が走ってきて、ヘッドライトが暗闇を切り裂いてはすぐに走り去ってまた闇に戻る。とにかく静かだ。あの夜が好きだったな、と今でも思う。
 祖母が亡くなってから訪ねることは減ってしまったが、今でも大好きな土地だ。

 夜眠る前に、よく祖父母の家を思い出す。今流行りの「古民家」というやつだろう。大きな家。青いトタンの屋根。木枠の引き戸。つやつや光る板張りの床。広い座敷と、それを周回する長い廊下。子供の頃はマラソン大会みたいに走って遊んだ。手すりなんかない、床板だけのちょっと怖い階段。足を踏み入れたことのない二階の謎の部屋。土間に作業小屋、ニワトリ小屋。トイレは水洗ではなく、「便所」と言う方がしっくり来る。平成の中頃まで、冬の暖房は薪ストーブだった。今ホームセンターで売られているような立派でお洒落なものではなく、もっと簡素な。
 サツキとメイの家に少し似ている。
 懐かしいな、あの家で過ごした夏休みはもう戻ってこないんだな。あんな家で暮らせたらなあ。そんなことを思ったりする。

 その長閑で平和な北秋田市で先日、大事件が起こった。市の中心街である鷹巣にクマが出没し、何人もの人を襲ったのだ。全国ニュースでも衝撃をもって大きく取り上げられたので、ご存知の方も多いかと思う。
 中心街とは言っても、盛岡や仙台のような街ではない。小さな、言ってみれば田舎町。だが、山や森ではない。人が暮らす人の街だ。
 クマは、山の中にいるものだった。商店街や住宅地や学校、駅、バス停がある場所にのこのこ出てくる生き物ではない。私も衝撃を受けた。

 祖父母の家の裏の山は祖父の持ち物だった。祖父母がまだ比較的若く、元気だった頃は祖父母に連れられて夏の山に入った。
 立派な杉の木がびっしり植わった山の中。年輪がびっしり刻まれた切り株があり、母は「この木はおじいちゃんが切ったんだよ」と言った。湧き水を蕗の葉っぱで作ったひしゃくで飲んだ。冷たくておいしい水。今にして思うと、貴重な体験だった。
 その山で、祖父はクマに出くわしたことがあったという。詳しい話は覚えていないのだが、確か姿を見かけ黙って対峙していたら、クマは去って行ったという話だった気がする。
 クマは本来、そういう生き物だったのだ。山の中で出くわすことは、ある。山はクマの棲家で、人間がそこへ入って行って木を切ったり、山菜やきのこを採ったりしているわけだから。だから無闇に近づいてはいけない。出くわしたら騒がず黙って、そっと後退しろというのはそういうことなのだと思う。
 それが最近はどうやらクマの方が躊躇いもなく人間の暮らす里や街に出てきて、人間が育てた作物だったり家畜の餌だったり何だりをムシャムシャ食べ、ひどいと何をした訳でもない無抵抗の人に襲いかかるらしい。
 クマと人間の立場が逆転している。

 クマと人間との間には昔、境界線があった。その境界線がどうやらなくなってしまったようだ。

 阿仁地域というのは昔からクマと共存してきた地域だ。「マタギ」という、山に入り狩猟を生業とする人達がいた。
 今ではマタギを専業としている人はいないとか、数える程しかいないと聞く。兼業だったり、観光産業としてやっていたり。だが、秋田内陸縦貫鉄道の駅に「阿仁マタギ」という駅があるくらいなので、この土地の文化であることは確かだ。
 昔遊びに行くと、店では「熊ジャーキー」なるものが売られていた。ビーフジャーキーのクマ肉版みたいなもので、酒のつまみ的なものだったと記憶している。
 私の妹はこれが大好きだった。小学生なのに、行けば何だかいつもムシャムシャ食べていた記憶がある。私も食べたことがあるが、すごく硬い。そして、ビーフジャーキーよりも生臭い感じがする。だが、味わいは濃厚かつまろやかだったような覚えがある。

 マタギは仕留めたクマを無駄にしない。肉を食べるのは勿論のこと、毛皮や骨まで余すところなく使う。クマは神様が授けてくれた贈り物だから、無駄にせず全て使い切ることが供養になるのだという。
 「阿仁」「比立内」「笑内(おかしない)」「米内沢(よないざわ)」などという地名はアイヌ語に由来するものだという。マタギの考え方は、アイヌの考え方と似ている。

 「クマを殺すなんてかわいそう」という抗議の電話が秋田県内の役所に殺到しているという。
 じゃあ牛は、豚は、鶏は、魚は可哀想じゃないんですか?という話になってしまう。
 「ジビエ」なんて言って一時期持て囃してましたよね?あれ、クマとかシカとかイノシシなんですよ。

 秋田の人達は昔から山に入り、クマやシカ、イノシシ、ウサギなどを鉄砲で撃って仕留め、無駄にすることなく有難く戴いてきた。だが、マタギがいなくなった。私の祖父の山も今では山に入り、手入れをする人がいなくなった。
 秋田は人が減っている県だ。人口減少が止まらない。高齢化による自然減もあるが、高校を卒業した私のいとこ達の子ども達はみんな仙台や東京に出て行ってしまった。そして帰ってこない。
 山に入って山の手入れをする若い人がいなくなっているのだ。
 人が入らなくなった山の中は野生動物で大渋滞。人間が捕らないから増える。山の中では食べて行けなくなったクマが、里に下りてくる。田畑を荒らす。街の中にまで出てきて、人を襲う。

 感情的に「クマがかわいそう」という電話をかける人は、実体のクマをプーさんやリラックマみたいな生き物だと勘違いしているのかもしれない。ペットの犬や猫みたいな感じだと思っているのかもしれない。
 一度阿仁にある「くまくま園」を訪れてみてほしい。ここはクマに特化した動物園だ。私が中学生くらいの時に行った際は「阿仁クマ牧場」という名称だった。

 観覧コースよりも何メートルも下の飼育スペースで暮らしているツキノワグマに投げる形で餌を与える体験が出来たのだが、驚いたことを今もはっきり覚えている。クマ達はまるで『笑うせぇるすまん』の如く両手をモミモミしてこちらを見上げ、餌をねだっているのだ。
 うわあ〜なんかあざといって言うか、悪どいって言うか、セコいって言うかそんな感じだなあ!そう思ったこともよく覚えている。
 クマは頭がいいのだ。手をモミモミすれば人間が「キャーかわいい〜!ごはんあげる〜!」という反応を示すことをよくわかっているのだ。

 そうこうしていると生まれて間もない子グマが首輪とリードをつけられ、飼育員さんに連れられてよちよち歩いてきた。これはもう「ギャーかわいい!!」というキュン死案件だったのだが、そっと触ってみた感想はこうだった。
 「うわあ…ゴワッとしてるう…」
 ゴワゴワというか、バリバリというか…。くまさんはフワフワしていないのである。
 ショックだった。子グマのイメージが手触りによって瓦解した。強烈な記憶だ。
 飼育されている個体達とは言え、あれに出会ったことがあれば「実際のクマはプーさんやリラックマではない」ということがよくわかる。
 あのバリバリゴワゴワした毛を持つ子グマが体長1メートル以上の大きさになった時、どうなるかはなんとなく想像できる。そんなのと出くわしてしまったらもう、殺るか、殺られるかだ。

 バブルの頃、東京の企業がやって来て「森吉山の方を開発しスキーリゾートにする」という計画をぶち上げたそうだ。
 私の祖父は大賛成していたらしい。山を切り崩し、リゾートを作れば東京からガンガン人が来る。金を落とす。雇用も生まれる。
 祖父は田中角栄を信奉していたらしい。日本列島を大改造してどんどん(金銭的に)豊かになろう、という考えの人だったのだろう。
 ある日、スキーリゾート開発に反対する市民団体の人達が署名活動にやって来たのだそうだ。あの山にはクマゲラが生息しているから森を守らなければならない、と。すると気の短い祖父は烈火の如く怒り狂い、その人達を追い返したらしい。これは語り草らしく、今だに両親が祖父を語る時このエピソードを持ち出す。
 私自身は幼かったので詳しいことは憶えていないのだが、まあ、とにかく強烈な爺さんだった。そして大きな矛盾を感じる。自分で山を持っているのに、自分のではない山を切り崩すことには大賛成だったんだなあ、と。
 森吉山にはスキー場が二つ出来た。そのうちの一つはバブルが弾け、スキーブームが去って潰れた。
 まあ、ゲレンデを作る為に森をなくしたらクマゲラだけじゃなく、クマの棲む場所もなくなるわな。それが回り回って今、人間が町なかでクマに襲われるという事態に繋がっているのかもな…などとも想像する。

 田舎の暮らしを破壊しようとするのは都会の人なのである。スキーリゾートを作ろうとしたのは東京の会社。クマを殺すなと半狂乱の電話をかけてくるのも多分、都会で生活している人だろうなと私は見ている。
 私と同世代によくいる「田舎や離島に移住して洒落たカフェや本屋をやりたい」という人達、あれにも私は「なぜカフェや本屋」と疑問を抱いている。山奥で吉祥寺や中目黒にありそうなカフェや本屋をやりたいという発想がよくわからない。
 東京にありそうなお洒落なお店が出来たら田舎の人達が喜ぶとか思っているのだろうか。カフェや本屋を作って文化の程度を高めてあげる、とかだろうか。どっちにしても東京目線だし、上から目線だ。
 山間部の過疎地域の人達が本当に必要としているのはスーパーやコンビニなどの小売店であり、壊れた家電や配線などを直してくれる電器屋さんであり、交通手段であり、ガソリンスタンドであり、病院や診療所であるはずだ。お洒落なカフェや本屋はその次だ。
 こういう「移住系」の人達がよく並べ立てる「新しい生き方」「自然に帰る」「ゆとりのある暮らし」「地域を再生する」とかいう美辞麗句。そこに「元々その土地に暮らしている人達」の存在や気持ちはない。「自分がどうしたいか」そればかりなので、余計に違和感や疑問を抱いてしまう。
 マツコ・デラックスが数ヶ月前にテレビで「田舎に移住して上手く行かなかった奴がさ、「なんか違った」とかよく言うじゃない。違ったのは田舎じゃなくてお前の方なんだよ」と言い放っていたのだが、真髄過ぎて爆笑してしまった。痛快だった。

 なんか違うのはお前の方。そうなのだ。スキーリゾートとか、カフェとか本屋とか。
 クマを殺さないでというのも、そうだ。
 秋田の人達は昔からクマと相対峙してきた。山はお前達のいるところ。だが、里は私達のいるところ。こっちへは来るな。そういう緊張関係を前提に暮らしを営んできたし、強い力を持つクマに対し畏敬の念を持ってもいた。
 捕らないと増え過ぎて大変なことになってしまう、というのを昔の人は知っていたんじゃないかと思う。だからマタギという生業があったのではないかと。

 クマを可哀想だと思うのなら、いつも通り町を散歩していたりバスを待ったりしていただけなのにクマに襲われて怪我を負った人達は可哀想ではないのか、という話にもなってくる。あんな爪で引っかかれたら傷が塞がっても跡が残ってしまうだろうし、心の傷が深いと心の治療が必要になるかもしれない。
 病院だって、遠い秋田市内の病院に通わなければならないかも知れないのだ。私の母の実家の辺りはそうだから。大病や大怪我をしてしまうと、ドクターヘリで秋田市内の大きい病院へ運ばれる。
 田舎は甘くない。スローなライフを送れない。病院は遠いしガソリンも高い。電車もバスも滅多に来ない。そしてクマが出る。

 雪が降ったらクマは冬眠する(はず)。一度秋田を、阿仁を訪れてみてほしい。内陸線に乗って。くまくま園は冬季閉園だと思うが、再開したら行ってみてほしい。出来れば、地元の人と話す機会も持ってみてほしい。
 「クマが怖いから行きたくない…」という印象を持ってしまった人もいるかもしれない。だが、行ってみればわかるはずだ。「クマ怖い」を遥かに上回る美しい日本の原風景や自然に触れられる。人はシャイだがあたたかい。きりたんぽや山菜、きのこをはじめとする食べ物も本当においしい。
 クマもまた自然の一部で、阿仁の文化の一部だ。人間とクマが緊張関係と均衡のもと、同じ地域に暮らさなければならないのだろう。その為には狩猟の規制や制度、システムを見直したり、緩衝地帯を設けたりしてクマとの間に新しく境界線を引き直す必要があるのだろうと思う。

photography,illustration,text,etc. Autism Spectrum Disorder(ASD)