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売れるということ

ヒトリエというバンドのファンになって5年が経つ。
「ファン」と言うよりは最早「オタク」と称する方が的確かもしれない。

彼らの音楽を好きになってから、5年以上行っていなかったライブハウスに再び足を運ぶようになった。
「人間の表現活動を脅やかす不気味なもの」だと思っていたボーカロイドとその文化を好きになった。初音ミクを、可愛いと思うようになった。
Twitterでヒトリエについて呟いていたら、いつのまにかファンの人達との繋がりができた。5年の月日が流れているので中には疎遠になった人もいるが、ライブでお会いしたり、ライブ後に飲みに行くようになったり、年賀状の交換をするようになった人達がいる。
ライブ見たさに地方遠征までするようになってしまった。

「なんか面白いことないかな」

つまらなくくだらないテレビをボーッと見ながら抜け殻のように、ぼんやりそんなことを思っていた私の人生をヒトリエは変えてしまった。
複雑かつ難解でありながら、爆速でダンサブルな楽曲を聴いていると心が躍る。決して明るいことを歌っているわけじゃないのにね。
「今の時代はもう、テレビや雑誌を見ていても面白いことになど出会えないのだ」ということに気付かせてくれたのはヒトリエだった。

それもこれも始まりに居たのはwowakaさんで、2019年の3月26日にやはり「なんか面白いことないかな」と思ってradikoをザッピングしていたのが起点だった。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌。そういった古いメディアの中で今でも私がラジオだけを重用しているのはこの為である。
ラジオが、あの時ヒトリエの『SLEEPWALK』を流してくれて、ヒトリエの音楽と出会わせてくれたから。

その僅か9日後に、wowakaさんはいなくなってしまった。
あの時仙台のdate fmは「5月にツアーで仙台に来ますよー!」とお知らせしていたが、彼らが4人で仙台のライブハウスのステージに立つことは無かった。

私は、wowakaさんがいなくなった世界でアルバム『HOWLS』を聴いた。
大変だ、天才だ、と戦慄した。
同時にこの音楽が売れていないのはおかしい、世に知られていないのはおかしい、と強く思うに至った。

丁度前の年、2018年にはwowakaさんの盟友である米津玄師さんが『Lemon』の国民的大ヒットで社会現象を巻き起こしていた。
私は『アイネクライネ』を初めてYouTubeで聴いた時から「米津玄師っていう物凄い子がいる」「作詞作曲、歌、絵、MV制作、何から何まで全部自分でやってる」「曲も、声もめちゃくちゃいい」と周囲に話していたのだが、興味を示してくれる人はいなかった。みんな「ふーん」といった反応で。

それがどうだ。2018年末の紅白歌合戦に出場した途端、周囲の反応はガラリと変わった。

「米津いいよね〜!」
「素晴らしい曲を書きますよね」
「見た感じいい子そうよねぇ」

何なんだ、と思った。私、アイネクライネもLOSERもめちゃくちゃ推したけど、誰も興味のかけらも示さなかったじゃん。それが地上波テレビに出た途端、紅白に出た途端こうなるのか。
世間、というものを思い知った。テレビ、新聞、雑誌。そういった大メディアの持つ力にひれ伏すしかないのだ、と痛感させられた。

wowakaさんが亡くなった4月、まだ年末の「米津現象」の余波が続いていた。スポーツ新聞や週刊誌、ネットメディアはこぞって「米津の親友が若くして亡くなった」という見出しで下衆な、ろくでもない記事を書き立て撒き散らした。
亡くなった人を「有名人」のネタの引き立て役、付録、おまけとして書き立てること自体無礼で、失礼千万であり得ないことだ。

wowakaさんの才能の凄まじさも、音楽の素晴らしさも知らないで。

既に『HOWLS』を聴いてその巨大な才能の片鱗に触れていた私は悔しさで打ち震える思いだった。米津さんだってこんなことになるのは望んでいないだろう。
それでも大メディアが持つ圧倒的な伝播力、影響力、権力には逆らえないのだと感じた。くそ。じゃあ、一体どうすればいいのか。

そうか、wowakaさんも米津さんと同じくらい有名になればいいんだ。
そうすれば正当な評価はついてくる。米津さんが紅白に出た途端、私の身の回りの人達が手のひらを返したみたいに。売れて有名になればwowakaさんも、ヒトリエのメンバーも報われる。
国民的ヒット曲を出して、MVやストリーミングは億再生を稼いで。武道館やアリーナやドームでライブをやって、紅白に出て。誰もがその名前と曲を知っているバンドになればいいんだ。
売れればいいんだよ、ヒトリエが!

今では何て浅はかで、愚かで、馬鹿げたことを考えていたんだととても恥ずかしく思っている。反省している。
wowakaさんや、ヒトリエの音楽とその作品の世界をきちんと聴いて、見て、受け止めていなかったからそんな考えになったんじゃないか、と言われても仕方がない。

同時に、自分の中に子供の頃見聞きしたものの鮮烈な残像がいまだ焼き付いているんだということを自覚した。
以下、多少長い昔話になると思うが申し訳ない。その先に本題があるのでヌルッと斜め読みにでもしてほしい。

私が自発的に音楽を聴くようになった1993年頃というのは、1枚1000円ほどの8cmCDが100万枚とか、200万枚とかいう驚異的な売り上げを記録していた時代だった。
別に渋谷のタワーレコードなんかに行かなくても千葉の片田舎のイトーヨーカドーにCD屋やCD売り場があり、オリコンチャートトップ10に入るようなCDはそこで買うことができた。
流石に懐かしい。内房線五井駅の程近くにあったイトーヨーカドーには大きな新星堂が入っていた。ずらりと並べられた、8cmシングルの縦に長いジャケット。ドリカム、B'z、ZARD、WANDS。向かいには大きな本屋。東京みたいに賑わっていたんだよ、なんて言っても今でもあの土地に暮らしている友達の子ども達は信じないだろう。

「日本ゴールドディスク大賞」という音楽賞が当時新設され、好きだったWANDSが大賞を受賞したというのでVHSビデオに録画することにした。WANDSは今にして思えば事務所のメディア戦略で、テレビなどのメディアに出演しないという売り出し方をしていたのでブラウン管に姿が映ること自体貴重だったのだ。
意気揚々と録画ボタンを押したものの、録ったものを再生してみたら映っていたのは白馬に跨り海岸を颯爽と駆ける「上様」、松平健の姿だった。そう、あのマツケンサンバの。
小学生の私はチャンネル設定を間違い、裏番組の『暴れん坊将軍』を録画してしまったのだった。今思い出しても笑える。

(念の為説明しておくと当時のビデオデッキというのは今のHDD/BRレコーダーなんかと違って番組表から選べばあとは間違ったりせず自動的に録画してくれる、なんて代物ではなかった。全部自力、全部自己責任。)

それから数年が経つとヒット曲のCD売り上げは200万枚、300万枚が当たり前の時代となる。小室哲哉がプロデュースを手がけた楽曲は、次から次へと飛ぶように売れた。
今でこそ『Get Wild』、『恋しさと せつなさと 心強さと』、華原朋美のデビュー曲、安室奈美恵さんの楽曲群などを改めて聴いてみて「小室哲哉天才なんだな」「あの頃ピークだったんだな」と理解するのだが、当時私は小室哲哉の音楽が大嫌いだった。
ある時学校で、クラスの大して仲良くもない子に話しかけられた。すると、その子はこう言ったのだ。

「鴎さん、すごいね…。自分の好きなもの、ちゃんと好きって言えて。私、本当はtrfとか、全然好きじゃないんだ。でもみんな好きだし、カラオケで歌えないとついて行けないし…だから、好きじゃないけどCD買って…」

なんでこの音楽がこんなに売れているのか。そんなにいいか?子供心に疑問に思っていた、その疑問がパッと解けた気がした。そうか、好きでもない人が周りの人と話を合わせるためにCDを買っているんだ!
今で言う「同調圧力」のもっと凄まじいやつが私の中学時代の女子の人間関係の中には存在していた。
「そんなにいいか?」が「嫌い」に変化して行くきっかけだった。

私はスピッツやMY LITTLE LOVER、SPIRAL LIFEなどを好んで聴いているクソ生意気な中学1年生だったので、小室ファミリーで小躍りしているクラスメイトからは変人扱いされていた。その後LUNA SEAにドハマりしてSLAVE(←LUNA SEAの熱狂的ファン、今で言うオタク)になったので、尚更に変人扱いされることとなる。
当時で言う「協調性」とは「周囲の風潮に嫌でも足並みを揃えること」という意味だったので、日頃から自分の「好き」を主張し意見を忌憚なく発する私の「協調性」の無さを母も先生も問題視していた。
「自分らしさ」「ありのまま」なんて概念は存在しなかった。今やっている朝ドラ『虎に翼』の主人公・寅子みたいな子がもし居たら大問題である。

当時のLUNA SEAについては御託を並べて説明するよりもこれを見て頂いた方が一目瞭然だと思うので貼っとく。
「なんかやべえやつだったんだろうな」という空気感は伝わると思う。
中学生だった私は今から30年前、地上波テレビでこれを食らわされたのだ。

ミュージックステーションに出ればこのような出で立ちで楽器を振り回し、仕舞いには投げつけ破壊する。客席ではメンバーのコスプレをしたファンが狂ったように頭をブンブン振り乱してメンバーの名を絶叫し、泣き叫んでいる。タモさん「すごいねえ」なんて言いながら苦笑い。
まあ、どっからどう見てもやべえ界隈だ。だが私達は当時「これで世界を変えられる」と良く言えば純粋に、悪く言えば盲信的に信じていた。
商業主義の小室ファミリーを打倒出来る音楽でありカルチャーだと、信じて疑わなかったのだ。

その後LUNA SEAは'97年に一年間の活動休止・ソロ活動期間を設け、'98年に活動を再開する。
折しも活動を休止していた一年間の間にGLAY、L'Arc〜en〜Cielといった所謂「ヴィジュアル系」と呼ばれたバンドが立て続けにヒットを飛ばしており、LUNA SEAのヴォーカルであるRYUICHIも本名の「河村隆一」名義でヒットを飛ばしたり、テレビドラマやバラエティに出まくったりして知名度を上げていたので「ヴィジュアル系最後の大物が活動再開するぞ」といった盛り上がりがあったと記憶している。

だが「オタク」であった私や周囲のSLAVE友達は河村隆一の成功や、世間の盛り上がりを良く思っていなかった。
『ROSIER』『TRUE BLUE』の頃の方向性や音楽性で世間や流行を動かすならそれは凄いことだが、河村みたいに世間に媚び、テレビや雑誌にヘコヘコした方向性や音楽性で売れても意味がない。
それでも私達はLUNA SEAが大好きだったし、5人を信じていた。きっとまた凄い曲を生み出してくれるし、大きなことをやってのけてくれる。そう、純粋に盲信的に信じていた。

活動再開後のアルバム『SHINE』は確か100万枚近く売れたが、休止前の作品を知る私の周囲の友達は誰もが「イマイチだ」と言った。私自身も同じ感触を持っていた。腕組みをして首を捻るような、傾げるような感覚。
どう考えても、今で言う世間や流行に「寄せてる」。
それでも今のこの時流を掴む為には、世界を変える為には仕方ないことなのだと納得しようとした。テレビに出まくることも、CMに起用されることも、全然わかってない連中のインタビューを受けることも、週刊誌に撮られることも全部全部。LUNA SEAの音楽が世界を変える為に、やらなければならないことなのだと信じようとした。

風向きが、潮目が変わったのはあまりに突然のことだった。

'98年の終わり頃か'99年の年明け頃、ラジオから明けても暮れてもとにかくいつでも宇多田ヒカルの『Automatic』が流れてくるようになったのだ。
衝撃的だった。は?洋楽?えっ?日本人?しかも、私と同じ15才の女の子…?驚きを隠せなかった。
彼女はシングルCDをあの縦長の8cm以外に、16cmでリリースした。現代の若い人も知っている、今のサイズで。これも「オシャレで耳がいい」と言われたリスナーの支持を爆発的に集めた。
今にして思えば彼女はまさに「自動的に」流行を塗り替えてしまったのだ。

その後椎名林檎、Dragon Ashらも瞬く間にヒットチャートを席巻し、ヴィジュアル系ブームはあっけなく終わりを迎えた。あれだけ爆発的に売れた小室哲哉の手がける音楽も、売れなくなっていった。
LUNA SEAは世界進出を目論んだもののバンドが空中分解状態に陥り、'00年の暮れに「終幕」した。事実上の解散である。
一緒にライブに行ったり、つるんで遊んだ友達は誰も終幕ライブが行われた東京ドームに来なかった。古参のコアなファンにも、最後は見放されたのである。

長い昔話はこれで終わり。本当に長くなって申し訳なかったが、勘のいい人はここまで読んで何となく察してくれている…かも知れない。
そう、私は'98年のLUNA SEAと同じことを、ヒトリエに強いようとしていたのだ。
売れる為には、もっと売り出し方の上手い大手の事務所に移った方がいいんじゃないかとか。wowakaさんの業績を知ってもらう為に、地上波テレビに取り上げてもらった方がいいんじゃないかとか。
そんなことを考えていたほんの少し前までの自分を「バカじゃないのか」と怒鳴りつけてやりたい。

私は常々、13才の自分をがっかりさせない生き方をしたいと思って生きてきた。LUNA SEAに心を奪われたあの頃の自分を、がっかりさせないようにと。
13才の自分をがっかりさせてしまうところだった。
「沢山の人に音楽を聴いてもらう為には本意じゃないことも我慢してやって、まず有名にならないとね」なんて、13才の自分が大嫌いだった大人みたいなことを言い出すところだった。

もっと多くの人に聴いてもらう為に世間に媚び、大メディアにヘコヘコと頭を下げてしまったLUNA SEAがその後どうなったかを、リアルタイムで知っていたのに。
東京ドームでの「終幕」公演を見届け、年末の後楽園ゆうえんちの灯りを一人眺めてトボトボと水道橋の駅に向かったあの時の気持ちを鮮明に憶えていたのに。

私は間違っていた。

ロックの世界もLUNA SEAの終幕後、程なくして変わる。BUMP OF CHICKENが『天体観測』でスマッシュヒットを飛ばし、その後ASIAN KUNG-FU GENERATIONが現れて「下北系ギターロック」がシーンを席巻した。

'04年のことだったと思う。今から20年前。まだ隣がコマ劇場だった頃の新宿LOFTに、椿屋四重奏やフジファブリックが出演する対バンを観に行った。椿屋はまだインディーズ、フジファブリックはデビュー間もなく。
終演後の物販にフジファブリックのボーカルギター・志村正彦さんが立っていた。私はデビューシングル『桜の季節』のCDを買い、そのCDにサインをしてもらった。

「あの…新曲すごく良かったです」

その日のライブで初披露された『陽炎』についてそう伝えたのを今でも憶えている。
志村さんは「あ、はい、ありがとうございます、ありがとうございます」などと応じてくれたものの斜め左上、明後日の方向を見ていて一度も目を合わせてくれなかった。志村さんらしくて、今でもクスッとしてしまう。
握手をしてもらった。あたたかくて、やわらかい手だった。

それから5年後に志村さんは亡くなった。29歳だった。
生前、爆発的なヒットを飛ばすことはなかった。Mステに出たこともなければ、確か武道館でワンマンをやったこともなく。
なぜなら当時のフジファブリックは流行の「ギターロック」とはちょっと毛色の違う、何だか捻くれたクセのある音楽をやっているバンドだったから。鍵盤をフィーチャーしているというところからして「ギターロック」とは明らかに何かが違い、異彩を放っていた。アジカンのような、ひとつの現象を巻き起こしたわけではなかった。

残された山内さん、金澤さん、加藤さんはフジファブリックとしての活動を続ける決断をした。

志村さんの没後10年と少しが経つ頃、『若者のすべて』が高校の音楽の教科書に載った。
3人が続けているフジファブリックは次々大きなステージに立ち、ミュージックステーションにも出た。「志村くんが出たいと言っていたんですよ」と、山内さんがタモさんに話していたのを覚えている。
夏の終わりになると私の周りでも「あれだねぇ〜、「♪最後の〜花火に〜」って感じだねぇ〜」なんて世間話をする人がいたりする。
ヒトリエを通じて繋がった20代の若い子達が、フジファブリックの音楽を好きだという。『若者のすべて』を知っているという。志村さんを、すごい人だという。

ヒットって何だろう。「売れる」って、何だろう。
あの頃のLUNA SEAの栄華と凋落、そして志村さんの人生とフジファブリックの、志村さんの作品のその後を思う時、考えずにはいられないのだ。

国民的な熱狂とか、社会現象とか。そんなものに何の意味があるんだろう。人の心に、記憶に残らなければ、それは本当にただ単にその一時の「現象」に過ぎないのに。

数年前、LUNA SEAのSUGIZOのインタビューを読んだ。「東京ドームのステージにも立ったけど、あんなことには何の意味もなかった」と断じていた。
びっくりした。正にその頃の華やかで、キラキラしていて、どこからどう見ても「スター」だった頃のLUNA SEAやSUGIZOを知っているから。
LUNA SEAの終幕後、信頼していた人に騙され財産を失い、キャベツだけで生活していた頃があったそうだ。そこから這い出して、LUNA SEAも「REBOOT」し。今、シリアの難民キャンプに出向いて音を鳴らしていることに充実感を感じていると。そう話していた。

wowakaさんがいなくなってしまってから、5年の歳月が過ぎた。
彼が生前残した作品をまとめた「歌詞集」が刊行された。

リーダー、あなたの歌詞が本になったよ。
じんさん、ユニゾンの田淵さん、ピノキオピーさん、kemuさん、それから米津さんもね、寄稿文を書いてくれたんだよ。
米津さんが帯を書いてくれる人なんてそうそういないよ。

テレビからは毎日、米津さんの曲が流れてきます。
インターネットの世界を覗くと、そこにはヒトリエの音楽があります。
立場や規模は違えど、それぞれに役目があるんだと今は思えます。
人間一人一人に、みんな異なる役割がある。

シノダさんも、イガラシさんも、ゆーまおさんも、スタッフさん達も、あなたが強烈に信じ続けていた「理想」を大切に守ってくれてるよ。
だからだと思うけど、瞬間的に沸騰する「国民的」とか「社会現象」とかいったものにはならない。あなたの信念や理想は、怒りは、世間の流行や移ろいと相容れないものだったから。

ページをめくりながら、あなたが全力で、渾身の力で、100%の本気で一つ一つ残した言葉を噛み締めています。
この言葉達に金銭的な利益や、損得や、脆い名誉や見せかけの栄光は似合わない。

コーチェラでミクちゃんが『アンノウン・マザーグース』を歌ってくれたんだよ。
ヒトリエが中国にツアーで行ったら、とんでもない熱気と熱量で現地のオタク達が3人を迎えてくれたんだよ。

そういう、目に見えなくて形にならないものの方があなたには似合うよね。
そんな気がします。

きっとあなたが残してくれた音楽は、言葉達は、この先何十年も、もしかしたら100年先も何処かの誰かに語りかけ、何処かの誰かを救い続けるのかもしれない。
そんな気がしています。

photography,illustration,text,etc. Autism Spectrum Disorder(ASD)