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hello world* 世界と戯れる

私たちが生きている世界は、想像力でできたなにかでしかない。そこには人とか、動物とか、自然とか、テクノロジーとか、様々なものの相互作用が複雑に埋め込まれていて、私たちもその中のいち要素なのだと思います。

先日、水戸芸術館で開催されていた「ハロー・ワールド/ポスト・ヒューマン時代に向けて」に行ってきました。

今回の展示では、海外のアーティストと日本人アーティストの作品間で国民的な違いがありました。エキソニモのお二人と水野勝仁さんのトークイベントで交わされていたのは、ハイコンテクストで理性に投げかける日本のアートに対し、アメリカをはじめとした海外では本能に訴える直接的な表現が多いという話。お三方がインターフェースという共通したキーワードで話が展開していく中で、日本人はメディアと戯れるように共存しているというエピソードが印象に残りました。

社会学者のゲオルク・ジンメルは、コミュニケーションを「遊戯」として語っています。あらゆるものは、あらゆるものとの絶え間ない相互作用の状態にあって、そこには分離と結合の二つの側面を持つ「境界」が存在している。相互作用の交点である個人(人間)は、自然界に存在するものを「結んだり、ほどいたり」することができるのだといいます。ジンメルの言う「境界」の性質は、水野さんが語った情報の媒体としてのインターフェースに似ているように思います。

例えば「橋と扉」というエッセイの中で、二つの隔てられた岸辺を繋ぐ橋は、結合することでそこに存在していた隔たりを思い知らせるものだけれど、扉は空間を二つに分割することによってそれぞれの空間を結合させるものだと語られます。

扉は「語る」ものでもあります。開け放たれているときはその向こう側へ人を誘うものだし、あるいは少しだけ開かれていたら、中を覗き込みたくなる欲望を引き出す。そして、もしも閉ざされていたら、本来は開くことができるはずなのにそうではないという事実によって、外界への積極的な拒絶という意思表示にもなる。空間に対する人間の意味づけや態度を物語るのが「境界」の側面でもあって、人間の描いた理想や欲求が、さらなる理想を喚起する。それは境界そのものを生み出した人間らしさの反映であるとも言えるでしょう。

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遊戯は大都市的であり、それは理性から生み出されるのだともいいます。小都市を流れる親近感や緩やかなリズムに対して、大都市では刺激的な出会いと同時に印象の迅速な交換や、他人への無関心や疎遠、反発がある。そんな大都市で、人は心のデリケートな部分への介入を避けて、感受性の乏しい理性で反応し作用するようになります。つまり理性は形式的な社交を生み出し、コミュニケーションすることそのものがコミュニケーションの目的になる。

「結んだり、ほどいたり」を通じた相互作用の終わらなさ。それは届きそうで届かない、掻き立てられる欲求と魅惑を感じてしまうからこそ、継続するのだと思います。それは目的から解放された子供の遊びのようで、想像力によって切り取られ、同時に想像力で満たされた世界の中の出来事のようでもあります。

エキソニモの「kiss, or dual monitors」は、人間の顔が映し出されたモニターが向かい合わせに重ねられていて、それは同時に誰かがキスをしているようにも見えます。キスをしているように見えるといっても、そのように「見ている」のは他ならない私たちです。

パソコンに繋がれたマウスを入力機器だと言うとき、テクノロジーから見れば、人間の手はただの出力機器に過ぎないかもしれません。手と連動して画面上を動くカーソルは、画面の向こう側の世界を動き回る自分自身のようにも思えます。私たちが見ている画面の向こう側の世界に、私たちの代わりにカーソルがあるということは、どういうことなのでしょうか。

インターネットや社会自らが作り出した技術に反応して身体は翻弄され、そこから生み出された新たな現実が循環していきます。私たちは、私たちの想像力の中でただ遊んでいるに過ぎないのかもしれません。けれど忘れたくないのは、対峙する世界への違和感を持ち、ものや存在が語る意味に耳を傾けること。そのような「早期危機発見装置」としてのアートやインターフェースを介した世界との関係性を考えていきたい。そのためにも「一体私たちは何を見ているのか?」という問いから始めたいと思います。

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