見出し画像

豊饒なる無味乾燥 キューンのレーヴェ研究を読む

 カール・レーヴェの音楽を日本に広めようと努めてこられたある声楽家の方から、ヘンリー・ヨアヒム・キューンが書いたレーヴェ研究書を贈られた。あれからいったいどれほどの歳月が流れたことだろう。察するにその声楽家の方は、この本の日本語訳を作りたい様子であった。下訳だけでも引き受けてくれる人を探していたようなのである。残念ながら、私は期待に沿うことができなかった。何ページか見てみるだけで、この本のドイツ語の異様な難解さがわかる。そのうえ内容があまりに無味乾燥でつまらなく思われた。レーヴェといえば、魔王の娘がオールフ殿を誘惑し、皇帝の死に際して鐘がひとりでに鳴り出し、吟遊詩人が妖精の女王と恋に落ちるような、幻想の百花繚乱たるバラードの作曲家のはずである。しかるにそうした彩り豊かな作品論は、この本のどこを探してもなさそうであった。その代わりに書いてあることといえば、レーヴェが育った家庭はどれほど貧しかったかとか、レーヴェの学生時代には奨学金をどうしていたのかとか、そんな話ばかりなのである。嫌気が差した私は序文だけ訳してお茶を濁し、お役目を辞した。

 とはいえ序文だけでも読めば本論も気になる。いいさ、今にきっと誰かが日本語訳を作ってくれる。それが出版されたら読めばいいや――。そう考えて待っていたが、待てど暮らせど日本語版は出ない。こんなことではいけない。私は何のためにドイツ語を学んだのだ。もとはといえば、レーヴェについて知りたかったからではないか。本当に読みたい本ならば、のたうち回って辞書を引きながらでも読めばいいではないか。そう思い立って、昨年(2023年)の盆休み明けから読み始めた。難解さのあまり脳神経が焼き切れる。平易な文章はひとつもなく、一文のなかで2語も3語も辞書を引いていると、最初に調べた語の意味が脳内で溶ける。見慣れたはずの基本的な単語さえ、複雑な文章のなかでゲシュタルト崩壊を起こす。さらに厄介なのが、古くは18世紀に由来する古文書の引用である。現代の正書法から見れば誤りであるような綴りもそのまま写されている。レーヴェの故郷レーベユーンで大工の親方が書いていたという年代記には、1800年の新年を祝って学校児童たちのためにBaalが催されたとある。辞書を引けばBaalは、旧約聖書に出てくるフェニキアの農耕神バールを意味するというが、どう考えても文脈にそぐわない。これがBallすなわち舞踏会を意味することに思い至るまで、まるまる一昼夜を要した。ことほどさように、この本は難しいのである。

 ところが不思議なもので、それほど難解な文章と夜毎格闘しているうちに、1800年前後のレーベユーンに生きていた人間たちを、突然ありありと身近に感じるようになった。そのきっかけとなったのは、レーベユーンの男子学校の校長が学校監督宛てに書いた、1750年の手紙の引用であった。その手紙は訴えていた。当地の学校教師ローゼンクランツは女子学校の教師であるにもかかわらず、男子に対しても授業を行なっている。これでは私の男子学校がもらえる授業料が減り、ただでさえ少ない私の給料も減ってしまう。ついては監督殿、かかる越権行為をどうかやめさせていただきたい――。レーベユーンは田舎町で秩序に厳しく、職掌の分権にうるさいという文脈で引用されたこの手紙は、私に生々しい人間の営みを感じさせた。深夜に及んだ読解に疲れ、部屋を暗くして眠ろうとしたが、意識は冴えていた。そのとき私は闇のなかに、1750年の校長がいるのを感じた。

 このように書いてきただけでも、この本がどういう性質のものか、ある程度は推測できるのではなかろうか。あるとき私はふと考えた。この本は唯物史観に立脚しているのではないか――。著者略歴によれば、キューンは1930年、現ザクセン=アンハルト州ツァイツ近郊の生まれであるという。限られた情報から主義主張を推し量ることは控えたいが、この本の序文には、

なぜなら様々な物質的制約のある日常生活こそが、ひとりの人物の知的かつミューズ的で情緒的な生活の根が張られる基盤だからである。

Kühn[1996: 11 拙訳]

という一文があり、著者の研究姿勢を明確に打ち出している。ある町の人口がどうであり産業がどうであり、人々は何を食べ何を飲んでいたか、ある家庭の収入はいくらであり、それは町の富豪と比べてどの程度なのか。そうしたことを抜きにして芸術は語れないという態度なのであろう。華やかな芸術作品を好む者にとってはまったく無味乾燥なそれらの情報が、大工の親方の年代記や教師の手紙や奨学金関係書類といった古文書によって、徹底的に掘り起こされる。無味乾燥はその極みにおいて、過去の人間の生活をありありと現前させる豊饒さへと転化する。究極のつまらなさが究極の面白さに変わるのである。苦労しながらでも読み進めるのが楽しみな本である。

参考文献
Henry Joachim Kühn: Johann Gottfried Carl Loewe. Ein Lesebuch und eine Materialsammlung zu seiner Biographie. Händel-Haus Halle, Halle an der Saale, 1996.