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写真には写らない

あらすじ:
 十五年前の卒業式の日、どうして千冬はかたくなに集合写真に写ることを拒んだのだろう――? 同窓会でひさしぶりに会った友人たちと、つばめはその理由を想像する。






「中列のメガネの方、ちょっとだけ顎引いてくださーい。光っちゃってるんでー!」
 もうすっかり酔いが回っている同窓会の参加者たちが声を揃えて笑った。指摘を受けた子は参ったな、というように頭をかいていた。
「いいですね! みなさんその笑顔をキープで、ここからまばたき禁止でお願いします。はい、じゃあ一枚目撮りますよ……はい、チーズ!」
 ストロボが焚かれた。わたしの笑顔はちゃんと笑顔になっていただろうか?
「自己申告します! 俺いままばたきしました!」
 サッカー部のキャプテンだった長谷川くんがそう怒鳴った。またみんなが笑う。カメラマンはフィルムを巻き上げながら、わざと怒ったような表情を作る。
「まばたき禁止ですよ! じゃあもう一回チャンスをあげまーす! ぼくが『写真は?』といいますから、『もういい!』と返事してくださいね」
 たしかに、集合写真に撮られるというのはどこかばかばかしいことだ。ぎゅうぎゅうに詰めて並ばされて、カメラマンの命令に従って姿勢を変えて、まばたきを禁じられて、笑顔を作らされて。すこしだけ腹立たしいようなかんじさえする。「こんなことに同意した覚えはありませんし、強制されるいわれもありません――」という、十五年前の彼女のセリフが耳の奥底にかすかに蘇った。
 わたしも拒否してみようか。そうしたら彼女の気持ちがわかるのだろうか。手触りのないためらいを弄んでいると、カメラマンが容赦なくふたたび手を挙げた。
「はい、写真はー?」
 もういいー! の声がラウンジに響き渡る。わたしはその輪に加わり損ねる。
「はい、おしまいです! お疲れ様でしたー!」
 油断していたから――たぶん、こんどはわたしがまばたきした。
 集合写真は、とくにその場で出来上がりを確認できないフィルムカメラであれば、失敗に備えて何枚も撮っておく。そのなかから、最善の一枚を選び出す。長谷川くんが目をつぶっていた写真と、わたしが目をつぶっていた写真のどちらが採用されるのだろうか。どちらが捨てられるのだろうか。あるいは、いまどきは CG でそのくらいは修正できてしまうのだろうか。思い出は取捨選択されて、手を入れられて、唯一の公式な写真に固定されて、ようやく存在を許される。
 でも、そんなことはどうだってよかった。だって、来月あたりにポストに届くであろうこの写真を、わたしがみることはきっとない。
 千冬のいない集合写真なんて、それだけでもう失敗なのだから。

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 中学校の同窓会なんて、だれが参加したがるだろう?
 はじめて「卒業」というイベントをともにした小学生のころの同級生や、さいごの「クラスメイト」となった高校生のころの同級生に勝てるだけのインパクトが、中学校のころの同級生にあるだろうか?
 だから、案内のハガキが届いたとき、わたしもとうぜん欠席しようと思った。
 その考えを改めたのは「千冬もくるらしい」と人づてに聞いたからだった。
「みんこはそれだれからきいたの」
 みんことは涼美のことだ(すずみん、すずみんこ、みんこの順に変化した)。
『えと、のいじくんから』
「……殿井くんはだれからきいたって?」
 のいじくんとは殿井丈一郎のことだ。
『え、わかんない』
 有水うすい千冬。卒業式いらい、一度も会っていない。そもそも、わたしたちの同級生で、卒業後に千冬と顔を合わせたことがあるひとっているのだろうか?
『ね、とにかく来なよ! うちらそもそも同窓会とかはじめてじゃん』
 それは事実だった。わたしたちの中学校はふつうの公立校だったけれど、成人式のタイミングですら同窓会をやらなかった。わたしが呼ばれなかっただけだと思っていたけれど、そうではなく、ほんとうにやらなかっただけのことらしい。幹事のなり手がいなかったのだろう。それがどうして、いまさら改めて同窓会をやることになったのかはわからないが。
「……わかった、行くから。ね」
 LINE の通話を切ると、わたしは滅多に使わない電話帳のアプリを開いた。そんなにたくさんあるというわけでもないデータを上から下までぜんぶスクロールしても、千冬の電話番号はみつからなかった。千冬と電話番号を交換してから、もう何台もスマホを買い替えた。そのあいだのどこかでデータの引継ぎに失敗していたのだろう。
 歴代の端末はすべて保管してあったから(捨て方がわからなかった)、ぜんぶ調べればきっとわかったのかもしれない。でも、そこまでするほどの理由がなかった。それに、電話番号がみつかったところで、千冬に電話をかける勇気をわたしが持ち合わせていたかどうかはわからなかった。
 けっきょく、わたしはみんこを、そして殿井くんを信じたのだ。
「あ、ちょっと待って! ね、つばめ! もう帰っちゃうの?」
 集合写真の撮影が終わったあと、わたしはすぐにクロークで荷物をまとめていた。そこにみんこが駆け寄ってきた。
「……うん」
「えーっ、二次会行かないのー!?」
「まぁ、……うるさいの、疲れちゃうし」
 みんこは繰り返しえーっとかうーんとか唸って、それからわたしの肩ごしにだれかに向かって手を振る。「あ、のいじくん! ね、このあと二次会行く?」
 殿井くんが近寄ってくる。あ、鼻の下のニキビ、もうないんだ――当たり前か――とか、そんなことを思った。
「いや、行かないよ。うるさいの、疲れるし」
「つばめとおなじこといってる! あ、じゃあ、あたしとつばめとのいじくんだけでやろうよ! それならいいでしょ?」
 わたしと殿井くんは戸惑ったように目を合わせる。殿井くんと会うのも十五年ぶりだ。みんことは卒業後もときたま――その間隔は回を数えるごとに間遠になっていたとはいえ――会っていたけれど。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
 と、わたしがいうと、かれもちいさく頷いた。みんこはわーい、と子どものようにはしゃぐ。
 会場のホテルを出てすぐの通りには、ちょっと見渡しただけでもおしゃれなイタリアンバルだのチェーンの居酒屋だのが散在していて、予約なしでも飲む場所には困らなさそうだった。ただ、うるさいのは疲れるといったわたしたち二人に遠慮してか、みんこはあれこれ店内の様子を窓ガラスごしに窺っては難しい顔をしていた。「喫茶店とかでもいいんじゃない?」とわたしがつぶやくと、殿井くんが静かで、あまりひとが来なくて、すこしならアルコールを出すところを知っているというので、そこに向かうことにした。
 じっとりと重たいお盆の夜気がわたしたちのあいだで幅を利かせていた。まだ話したいことがあるから喫茶店に向かっているはずなのに、どんどん口数が減っていく奇妙さに耐えきれなくなったのか、みんこがついにその話題に触れる。
「……ちーちゃん、来なかったね」
 殿井くんが肩をすくめる。「忙しかったんだろ」
 みんこと殿井くんと千冬とわたしは、おなじクラスで、おなじ部活だった。わたしたちの代の吹奏楽部はなぜか突然変異的に人数が多くて(「団塊の世代」と呼ばれていた)、三年五組には四人も吹奏楽部がいた。
 わたしたちはちゃんと仲がよかったと思う。修学旅行の班もこの四人に殿井くんの〝知り合い〟(とは殿井くんの表現だ)ふたりを加えて作ったし。
 殿井くんはわたしたちのグループでひとりだけ男の子で、肩身が狭くないんだろうか、と当時から思わなくもなかったけれど、そもそも吹奏楽部という女所帯で育ってきたかれは、いわゆる「女子とつるんでるなんてダセー」文化圏とは距離があった。それに、あのころはまだアングラ感があった「オフ会」で知り合った年上の女性とお付き合いしているというまことしやかなうわさもあって、わたしたちがかれを取り扱う手つきにはそのうわさに由来する畏怖とか敬意とか安心感みたいなものがあった。それもわたしたちの関係がうまくいっていたことの一因ではあったのだろう。
 みんことわたしは親友だった――いや、いまでも親友だといっていいと思う。ふたりだけのあいだで通じることばを開発して、おなじハンドクリームを使い、おなじ Web 漫画の更新を追って、SMS を日になんどもやりとりした。うっかりどちらかに彼氏ができそうになると、ふたりで照れ隠しにクスクス笑っているうちに、なぜか相手の男の子は後景に退いていった。
 みんことわたしに比べると、たぶん千冬はわたしたちよりすこしだけさきに大人になってしまっていた。千冬はわたしたちの好きな男性アイドルグループのメンバーの名前すらいえなかったし、部活の合宿のときもお風呂はひとりで勝手に入っていた。みんこもわたしも、殿井くんと一対一で会話することはあまりなかった――するなら、三人以上だった――けれど、千冬は平然と殿井くんとふたりきりで会話していた。ぼろぼろになったアッペルモントのスコアをあいだに挟んで、アーティキュレーションひとつで何時間も意見を戦わせていた。それはほとんど口喧嘩みたいだったけれど、みんこもわたしもまだ知らない種類の親密さにみえて、すこし憧れていたのはまちがいない。
 千冬があんまりわたしたちとべたべたしなかったのは、もちろん彼女の性格もあっただろうけれど、彼女の置かれていた状況にもあったと思う。あのころから彼女は忙しかったのだ。千冬は幼いころからピアノのレッスンを続けていて、すでに学生向けの賞を何回か取っていたということだった。中学校の吹奏楽部ではそんな彼女の才能を飼いならすことができず、物事の自然な流れとして彼女は音大の附属高校への進学を希望した。三年生になってすぐ、彼女はプロの演奏家の先生についてレッスンを受けるようになった。音楽の世界で生きる大人のひとと触れたことは、きっと彼女の世界観を変えたのだろう。そして、彼女がレッスンのために遊びの約束を断ったり、部活の練習を休んだりすることが増えると、そのたびにわたしには彼女の黒い髪の艶が深くなっていくように、それに比例してどこか近寄りがたくなっているように思えたものだった。
 それでもやっぱり千冬はちゃんとわたしの友だちだった。わたしたちは友だちだった。マフラーの巻き方は何種類もある、と千冬に教えてあげたのはわたしなのだ。
「忙しい……うん、そうかもね。ちーちゃん、またアルバム録るんでしょ? こんどはなんだっけ」
「セヴラックじゃなかったか?」
 歩いているうちにいつのまにか喫茶店にたどり着いていた。「うわー、知らねー作曲家ー」みんこはけらけらと笑いながら店の扉を引く。錆びた鈴がちりん、と弱々しく鳴って、すぐに出迎えた店員に三人でーす、と指を立ててみせる。
 落ち着いた雰囲気の、いいカフェだった。革張りのソファ、ステンドグラスのような間仕切り、ミヨーの木管五重奏。たぶん昭和のころから使っている食品模型のナポリタンは、透明人間がフォークに巻き付けて口に入れる寸前のまま時を止めていた。中学生のころのわたしたちは、マックかミスド以外で集まったりしなかった。
 けっきょく呑む気にはならなかったから、みんこはカフェオレを、殿井くんとわたしはアイスコーヒーを頼んだ。ここ、水セルフなんだ、といって取りに行った殿井くんが帰ってくると、わたしはいった。
「ていうかさ、千冬が来るってみんこが殿井くんから聞いたって聞いてたんだけれど」
 必要以上にきつい口調だったかもしれない、というか、日本語もちょっとおかしかったかも。
「うわ、つばめ。まずはのいじくんに久しぶりじゃないの?」
「あ……ごめん。その、久しぶり」
 殿井くんはまるで天声人語でも読むときみたいな目つきでじぶんの爪を無感動に眺めていて、それから思い出したように返事をした。昔のままの仕草だった。「うん、久しぶり」
 みんことわたしはおなじ高校に行ったけれど、殿井くんは受験してどこか頭のいい学校に行った。千冬は音大付属高校に。気軽には会えなくなるな、とは思っていたけれど、まったく会わなくなるなんて思ってもいなかった。
 中学校のときの友だちなんてそんなものかもしれない。でも、わたしたちが疎遠になったのは、なんというか――たぶん、ある気まずさが、ちいさな、しかし確実な原因となっている。
「てかさー、同窓会のあいだのいじくんずっとほかの子としゃべっててさ、なにー? うちらのこと避けてた?」
「いや、違うって。橋場たちと話すのは、有水も来てからでいいかな、と思ってたらタイミング逃して」
「あ、あたしもう橋場じゃないよ」
 みんこが気軽にそういい放って、やっと殿井くんが彼女の左手に目を向ける。
「え、……あ、ご結婚……なさったん、ですか」
「なんで敬語だし。二年前にね~。やっぱり気づいてなかったか」
「殿井くんがそういうの気づいたら逆に怖いでしょ」
「まちがいない。なんでこんなのが中学のころから彼女持ちだったんだろうね?」
「ひどいいわれようだな」
「ね、のいじくん、けっきょくあのとき付き合ってたネットの女とはどうなったの?」
「そのネットの女っていい方やめろよ。……途中で向こうに旦那がいるのがわかって、終わった」
 みんこが飲んでいた水を噴き出した。
「げほっ……えと、ご愁傷様」
「やめろよ、もうそれだって十何年前の話だ」
 殿井くんがお前はどうなんだ、というような目線をわたしに向けてくる。わたしはなにも着けていない左手をくるりとかれの目の前で回してみせた。わたしの爪には天声人語が書いていないらしくて、かれはすぐに目を逸らした。
「……それで、有水が来るってのは巌窟王から聞いたんだけど」
 巌窟王というのはわたしたちの吹奏楽部の顧問だった。わたしたちはだれもモンテ・クリスト伯なんて読んでいなかったけれど、ただことばの響きだけから吉本先生にそのあだ名を与えたのだ。
 巌窟王は音楽教師なんてやっているけれど、奥さんは声楽家だというから、きっと業界の風聞が入ってくるのだろう。
「すくなくとも、帰国はしてるはずなんだけどな」
「もしかして、帰国してるけど……来たくなかったのかな」
 みんこがぼそっとつぶやいた。千冬が同窓会に来たくないというのであれば。その理由としてもっともありそうな可能性にはだれもがとっくにたどり着いていて――。
「……有水千冬卒業アルバム撮影拒否事件、か……」

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 殿井くんがさもみなさんご存知、みたいにいうので、みんこもわたしもちょっと面食らってしまう。店内のエアコンの稼働する音が奇妙に大きく聞こえた。しばらくしてみんこが口を開いた。
「え、なに、あれってそんな名前付いてんの?」
「いや、知らん。そもそも俺は卒業してからあの事件についてひとと話す機会なんてなかったし」
 なんなんだよ、もう、といいながら、みんこが左手で殿井くんの肩をひっぱたいた。「でもさ、あれって……なんだったんだろうね?」
「……だれだって、あんなふうになるときはあるだろ」
「いや、でもさー。あのときってもうちーちゃん音高の合格わかってたんでしょ?」
「受験のストレスだけがストレスじゃないだろう……」
 あの日のことをわたしは思い出す――十五年前の三月十二日。
 わたしたちの卒業式はなにごともなく進行していた。後輩の吹奏楽部員たちが演奏する校歌を歌い、蛍の光で退場する。いったん教室に戻って、集合写真の撮影の順番待ちをする。とはいっても、撮影順はわたしたち五組が最後だったから、あんまり待たされるのをいやがって、ほとんどの生徒たちは校庭に出て行った。さきに撮影しているほかのクラスの子たちは撮影が終わったら帰ってしまうので、かれらと最後の会話をしたかったら校庭に出ているしかなかったのだ。教室に残っている子たちがわたしの苦手な子たちだったというのもあって、わたしもみんこといっしょに校庭に出ることにした。
「千冬ー……? わたしたち、もう外出ちゃうけれど……」
「んー……」
 わたしが声をかけても、千冬はなにかの楽譜に集中したままだった。「あとで行く、から」
「ねーつばめ、一組の撮影終わっちゃうよ!」
 まさか卒業式の日まで譜読みをしているとは思わなかったけれど、千冬のこんな態度はいつものことだったので、みんことわたしは彼女を置いて行くことにした。
「あ、そうだ!」
 教室から体を半分出したみんこが、なにかを思い出して慌てて身を翻すと、千冬のもとに駆け寄った。
「写真撮るとき、これ付けといてね」
 みんこが渡したのは銀色のブローチで、楽器――オーボエを象っていた。吹奏楽部員はみんなじぶんの担当楽器のブローチを付けて卒業写真に写ろうね、とみんなで決めていたのだ。わたしはクラリネット。みんこはトランペット。こんなちいさなものがはっきりと写真に写るとは思えなかったけれど。
 はいはい、わかったから、と、またも気のない返事をしながら、千冬はそれを受け取ると、ほとんど無意識の仕草で襟元にそれを止めていた。
 千冬はそのころにはもう立派なピアニスト志望で、中学校の三年間だけ部活で吹いていたオーボエなんて、もう彼女にはあまり縁のない楽器になってしまうはずだった。彼女の線の細い顎の下で鈍く光るそのブローチをみると、わたしはなぜか無性に切なくなった。
 校庭でほかのクラスの子たちと話しているうちに、撮影は順調に進んで、わたしたちのクラスの番になった。カメラマンが手際よくアルミのひな壇に生徒たちを並べていく。
「あれ? ちーちゃんがいない」
 わたしのうしろでみんこがそんなことをいう。わたしも振り向いて――千冬は背が高かったから、どんな集団のなかでもすぐにみつけられるはずだった。
 いなかった。
 生徒たちがすこしざわつき始めたところで、千冬はやっと昇降口から姿を現した。担任の先生が早くしろー、と声をかけるが、彼女は急ぐようなそぶりすらみせなかった。
 千冬は、いつもなにかに怒っているような、ちょっとそんな印象を与える子だった。もちろんそんなわけはないというのを、わたしは知っていたけれど、その日の千冬は、ほんとうになにかに怒っているようにみえた。
 カメラマンが千冬の背丈をみて、いちばんうしろに並べようとする。ひな壇に並ぶ生徒たちからも、カメラマンからもやや距離を置いた千冬は、声をかけられてもその場にじっと立ち尽くしたままだった。
 千冬? わたしはなにか嫌な予感がして、その場を離れて彼女のもとへ向かおうとした。ほとんど足を踏み出そうとしたそのとき、千冬が口を開いた。
「私、写りません」
「……えっと?」
 さっきまで生徒たちという羊の群れを手際よくさばいていたカメラマンが間の抜けた声を出した。まるで、動物がとつぜん人間の言葉をしゃべりだしたみたいな反応だった。
「写りたくないんです。みんなだけで撮ってください」
 彼女の口ぶりは平静なものだったが、Sostenuto tranquillo, 有無をいわせない激情ma agitato.を伴っていた。
「バカなこといってないで、早く――」
 先生はあくまでも千冬のその態度を冗談だと思ったのか、いや、まさかほんとうに冗談だと思うはずはないから、冗談として扱うほかになかったのか、へら、と笑って手招きをした。
 千冬は一歩も動かなかった。
「……撮らないとみんな帰れないからさ、頼むよ」
「だから、私抜きで撮ってください」
 わたしは隣に立っていた先生の顔を横目で盗みみた。目元は困惑したように歪み、口元はいらだったように引き結ばれていた。厳密にはまだ千冬はかれの生徒だったのだから、もっと厳しく命令したってよかったのだ。でも、卒業式という時間の境界性が、かれにいまさら立場を振りかざすことを控えさせた。
「写真が苦手なんです。学校に入ったことで、勉強したり運動したりさせられるのはかまいません。でも、こんなことに同意した覚えはありませんし、強制されるいわれもありません」
 先生は見送りのために保護者たちが待機している場所へ、助けを求めるような視線を送った。あいにく千冬の両親はそこにはいなかったみたいだった。
 なかなかはじまらない撮影に、生徒たちからも不満の声が上がる。晴れの日の記念撮影に水を差すような真似をされて、不愉快にならないことは難しかっただろう。
 どうして千冬はこんなことをするのだろう? わたしの頭のなかはそれだけだった。どうして? 千冬、わたしと一緒の写真には写りたくなかった? こんなクラスにいたことなんて、思い出にするのもいやだった?
 これ以上問答を続けて場の雰囲気を盛り下げるのもふさわしくないと判断したのか、先生はやがて諦めたように首を振り、カメラマンに向かってうなずいてみせた。カメラマンはほんとうにいいんですか? というように眉をひそめたが、さすがに職業人で、次の瞬間にはまた声を一オクターブ上げていた。
「……はい、じゃあ一枚目行きますよー! 中段端の……うん、そう、あなた、もうちょっとだけ内側……カメラのほうに体向けて……そう、いいかんじ」
 カメラマンが被写体に指示を出すたびに、氷にひびが入るような錯覚を覚えた。どうしてわたしたちは命令に従っているんだろう? 千冬が敢然と拒否した強制に、どうしてわたしたちは唯々諾々と服しているのだろう? 生徒たちのふるまいには、そんなためらいが付きまとうようになっていた。
 千冬は、そんなわたしたちをカメラマンの横数メートルのところから睨みつけるようにして立っていた。
 シャッター音が鳴るたびに、千冬のからだが、写真を撮られているわたしたちよりも硬くこわばるようにみえた。斬首刑を待つ罪人が、かすかな物音にもおびえるように。
 はい、チーズの掛け声に応えた生徒は、たぶん三分の一もいなかった。
 ――そして撮影が終わったあと、千冬はだれとも会話せず、静かに学校を去った。
 卒業後、また四人で集まりたいな、とか、そんなことを考えるたびに、瞼に焼き付いたあのときの千冬の後ろ姿がその考えを萎えさせなかったといえば嘘になる。
 とくに親しかったわたしたちでさえそうだったのだ。クラスメイトは、卒業式を最後の最後に台無しにした千冬のことをどう思っているだろうか。だから、千冬は同窓会に顔を出しづらかったのではないか。わたしたちが考えているのは、そういうストーリーだった。
「……俺はけっこうわかる気がするけどな。集合写真なんてさ、なんでかわからないけど撮らなきゃいけないことになってるから撮ってるだけで、撮られたくて撮られてるやつばっかじゃなかっただろう」
「でもでもー、ちーちゃんってそんなに写真嫌いだったっけ? まーたしかに、プリとか撮りに行ったことはなかったかもだけど」
「嫌いってことはなかったんじゃないか。だって、修学旅行のときは写真撮っただろ?」
「そうだったかも。姫路城で撮ったよね」
「大学生っぽい観光客に撮ってもらおうとして橋場のデジカメ渡したら砂利のうえに思い切り落とされて画面ヒビだらけになってな」
「あー! やなこと思い出した! こっちからお願いした手前怒れなかったしなー、あれ」
 ていうか、もう橋場じゃないんですけどー。みんこがいたずらっぽくそういうと、殿井くんがう、とことばを詰まらせる。じゃあなんて呼べばいいんだよ? えー? みんこでいいんじゃなーい?
「……うーん、でも、あれはけっきょく班の数人で撮っただけだしね。ちーちゃん、集合写真がとくに苦手だったのかも」
「いや……定期演奏会のときはふつうに集合写真写ってた」
 わたしたちの吹奏楽部の定期演奏会は十二月で、そこまで三年生が引退しないから、受験への影響を気にする保護者たちからはちょっと鬱陶しがられていた。
 たしかに定期演奏会のあとの記念撮影で、千冬は平然と写真に写っていた。まわりの女の子たちが(そしてわたしも)ちょっと涙ぐんだり、あるいは号泣したりしていたなか、千冬はちょっと平然としすぎていたけれど。彼女はオーボエで、わたしはファーストのクラリネットだったから――千冬がとなりにいたことは確実で、まちがいなく覚えている。
 三か月で集合写真に対する考え方がすっかり変わってしまったのか? どうもそれは現実的ではない。
「でも、そしたらどうして千冬はあんなに写真を嫌がったのかな」
「ビジュが悪かったとか」
 みんこが冗談めかしていった。
「ううん、あの日も千冬は完璧にきれいだった」
 わたしが真顔で反論すると、ふたりはぎょっとしたような顔つきになる。
「わ……つばめってさ……あのころからだけど、ちょっとちーちゃんのこと……なんていうの? スーハイ、してるよね」
 べつに悪いことじゃないと思う。尊敬に足る人物が身近にいたことは幸運なことだ。
 それに、音大附属校の面接に備えて覚えたというメイクは、彼女を(ふさわしい比喩かわからないけれど、)血統書付きの犬みたいにみせていた。
「千冬がわたしたちのクラスでいちばんきれいだったのは――事実、、でしょ。むしろ、周りの子たちのほうが、千冬が写らなくて助かったと思ったんじゃない?」
「あは……中学生って必死だったよね。あたしもとなりの子より目おっきくみせようとして目ガン開きしてたわ」
「うぇ、お前ら……そんなことしてたの?」
「したした。てかいまでもする。知ってる? カメラのレンズの形の問題? で、フレームの端にいくほどものって歪んで大きくみえるんだって。だから、小顔狙うなら真ん中で写るべし」
「いや、狙わないが……」
 殿井くんは呆れと軽蔑の混ざったような顔をしているけれど、さっきの記念撮影の前も、女子トイレの鏡の前には顔面の最終チェックをしにきた女の群れが押し寄せていた。
「でもさ――べつに写真撮影が苦手なわけでもなくて、顔面にも問題がなかったなら、ほかの理由、ってさ」
 みんこが早くも飲み干したグラスのなかでストローを弄って、氷がからん、と気の抜けた音を立てた。
 納得できるような理由なんて、かならずしもあるとは限らない。ほんとに集合写真の撮影を強制させられるのが嫌だっただけかもしれないし、わたしたちのクラスといっしょに写真に写るのが嫌だっただけかもしれない。でも、わたしたちは、十五年越しにそんな結論を望んでいるわけでもない。
「たとえば……アリバイ工作、とかはどうだ?」
「……へ? アリバイ?」
 みんこが素っ頓狂な声を上げる。
「有水はあの時間、あの場所に存在しちゃいけない理由があったんだ。集合写真には校舎の時計も写りこむし、どうしても証拠を残すわけにはいかなかった」
「いや、あの時間あの場所に存在しちゃいけない理由ってなに?」
「……人を殺したとか」
「いや、死体出てきてないし。ていうか、卒業生が卒業式の日に学校にいるのなんてべつにアリバイ作ってまでごまかさなくてもいいじゃん」
「じゃあ、逆だ。あの時間にはほかの場所に存在していなきゃいけなかったんだ」
「ふーん?」
「……体調不良と偽ってデートをさぼったとか、そういう……」
 殿井くんもめちゃくちゃなことをいってる自覚があるのか、みんこに攻められるたびにどんどん口調が投げやりになっていく。
「どっちの場合でもアリバイ作りって理由はおかしいよ。だって、アリバイを作りたいのにあんなふうにみんなの前で大見得を切ったら、写真に残らなくても記憶に残っちゃう」
 現にわたしたちはこうして十五年経っても覚えているわけだし。わたしがとどめにそういうと、殿井くんは降参、というように両手を肩の高さまで上げた。
「わかった。この推理は放棄するよ」
「推理って。いつからミステリになったんだ~?」
「うーわ、ウザってー……橋場、ぜんぜん性格変わってないのな」
 だから、橋場じゃないんですけど、とこんどはムスッとした表情でみんこがいう。
「……そのみんこさんにはなんか推理ないのかよ」
 なんでさん付けだし、とみんこが苦笑する。みんこはどこか遠いところをみるような目つきをして、それから重力に負けるように彼女の視線は落ちて、やがて溶けはじめた氷にピントが合わさった。
「たぶん、そんなに難しい話じゃないんだよ。推理するとか、そんなんじゃ」
 みんこは息苦しそうに、早口にことばを継いだ。
「写真そのものがいやなわけじゃなかったとしたらさ、可能性なんてひとつじゃん。いっしょに写りたくないひとがいたんでしょ」
「それをいったら、むしろ」
 しくじった、というようにそこで殿井くんがことばを切った。みんこが鋭い目つきでかれを睨みつけた。
「えーっと、まぁ、そうだよね。……それはどっちかっていうと、わたし、だよね」
「つばめ」
 みんこがとなりのわたしのほうにすこしだけ顔を向けて、たぶん無意識のうちにわたしの膝に手を置く。ドレスなんていまだに着慣れないわたしは、不意打ちに腿を掠る生地の感触に戸惑ってしまう。
「いいの、みんこ。もう十何年もまえの話だし」
 殿井くんが仄めかしてしまったのは、当時わたしが置かれていた状況のことで、ようするにわたしは――そう、いまでもこうはっきり述べるのには抵抗があるけれど――いじめられていた。
 きっかけはもう記憶の彼方に霞んでいてはっきりとは思い出せない。でも、たぶん三年生になってすぐくらいの現国の授業がそうだったんじゃないだろうか。
 俳句を作りましょう、という課題が出て、わたしは、よせばいいのに自殺というモチーフを暗示するような、しかもそれを美化するような句を詠んだ。希死念慮があったわけじゃない。すくなくとも、中学生が平均的に持っているようなそれに比べて強いものはなかった。でも、当時のわたしはそういうものを――あまりにも浅はかなことに――ある種のあこがれの目線で眺めていた。
 なにを思ったのか、現国の教師はそれに感銘を受けてしまい、授業のなかでその句をわたしの名前入りで公表した。その次の日、クラスのある女子グループと駅で出くわしたわたしは、「つばめセンセー、自殺のお手本みせてよ」といわれて、ホームの端ぎりぎりのところまで行かされて、駅員がくるまでやめさせてもらえなかった。
 とはいっても、このエピソードがさいしょにしていちばんひどいものであって、それからはたいしたことのないからかいが続いただけだった。わたしは彼女たちに「芭蕉」と呼ばれるようになり(彼女たちはたぶん芭蕉くらいしか俳人を知らなかった)、メールアドレスをレズビアンのコミュニティの掲示板に貼られ、廊下ですれ違いざまに胸を揉まれ、体操着を隠され、架空のテレビ番組の感想を訊かれて、答えられないと笑われたりした。
 中学三年生ともなるとやり方も巧妙なもので、彼女たちは授業中や、わたしが友だちといるときは手出しをしてこなかった。わたしが孤立しているときを狙って、じつに手際よく嫌がらせを遂行した。じっさい彼女たちが楽しんでいたのは、つぎはわたしにどんなちょっかいをかけるかアイディアを出し合ったり、それをだれが実行するか仲間内で押し付け合ったりする時間だったのだろう。
 みんこも殿井くんも、わたしがいじめられていたことは知っていただろうけれど、どんなことをされていたのかはよく知らなかったのではないだろうか。いじめる側もいじめられる側も協力して事実を隠そうとしていたのだから無理はない。だから、みんこたちがその話題に触れたことは一度もなかった。べつにわたしはそれを冷たいと思ったことはない。
 だから、殿井くんがいまさらそれに触れたことは軽い驚きだった。十五年間かけてわたしのなかであの経験が風化したように、かれのなかでもあの教室の印象が変化していったのかもしれない。
 そして、殿井くんの指摘はもっともだった。十五年前、クラスでいちばんあの集合写真に写ることに気乗りしていなかったのは、たぶんわたしだ。
「うん、わたしは……殿井くんのいうとおり、いっしょに写りたくない子、何人かいたよ。ていうか、あの子たち、きょうの同窓会も来てたね」
 きょうはみんこがずっといっしょにいてくれたから、あまり意識することはなかったけれど。もしわたしがひとりでいたら、彼女たちはどうしたのだろう。もうなにも覚えていないのだろうか。それとも、わたしのことを芭蕉と呼ぶくらいのことはしたのだろうか。念入りに植え付けられた怯え――ひとの振る舞いを憶測しようとする習性――が甦ってきて、わたしは場違いにもそれをちょっと可笑しく思ってしまう。
「でも、千冬がわたしみたいに苦手なひとがいたとか、嫌ってるひとがいたとか、そういうのは……想像つかないな」
 みんこは神経質な笑い声を口のなかだけで響かせた。
「わかんないよ、そんなの。あたしたちはちーちゃんじゃないんだし」
「じゃあさ、直接本人に確認してみようぜ」
 そういって殿井くんがスラックスからスマホを取り出す。「同窓会は来たくなかったかもしれないけど、呼び出したらここには来てくれるかも」
「やめなよ、そんなの。いまさら訊いてもどうにも――」
 みんこが手をテーブルの向こう側に伸ばして殿井くんを止めようとする。かれは身を躱して画面を操作する。
 千冬が写真に写ることを拒んだ理由。それがもし、みんこの主張するように、いっしょに写りたくない人がいたからというものだったとしたら。そして、そのいっしょには写りたくないひとたちというのが、万が一わたしたちだったら? わたしたちは、それを知りたいのだろうか? 知ってどうするのだろうか?
 その想定はたしかになんの根拠もなかった。でも、根拠がないだけにかんぜんに否定することもできなかった。みんこはきっと、十五年間この想定にすこしづつ傷つけられてきたのだろう。千冬はそんな人間じゃない。でもそれ以外に理由も思いつかない。同窓会に来てくれなかったのだって、それを裏付けてるみたいで。みんこの葛藤は手に取るようにわかる。
 みんことわたしの視線を集めて、殿井くんはスマホを耳に当てた。
 呼出音は鳴らなかった。
「……この番号は、現在使われておりません。だそうだ」

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「電話番号変えたなら連絡くらいしろよなー」
「いや、いまどきケータイの電話とか使わないし。そもそもちーちゃん海外にいる時間のほうが長いからなおさらでしょ」
 電話がつながらなかったことで、わたしたちのあいだに漂っていた緊張感はあっけなく雲散霧消した。それでも、まだなにか別の会話を続けようという気にはならなくて、しぜんと解散の流れになった。
 中学生のころ使っていた駅は改装を繰り返して、あのときより改札口は二個増えてひとつ廃止されたし、ホームドアが設置されたのでもうかんたんに自殺することもできない。わたしたちはそのホームで電車を待っていた。
「もうこうなったら事務所に連絡先訊くしかないか? っていうかピアニストって事務所に所属するものなんかな」
「いや、所属してたとしても教えてくれないんじゃね?」
 真相が宙吊りになったことで、みんこも殿井くんも肩の力が抜けたみたいだった。でも、実現しなさそうな軽口は、千冬を遠ざけることで残ったわたしたちの親しさを取り戻すように思えて、わたしはすこし居心地が悪かった。
 ホームに電車が滑り込んでくる。
「あれ、つばめっていまどこ住んでるんだっけ?」
「わたし? 明大前」
「じゃあ俺たちとは逆方向か」
 また集まろーね、と手を振りながら、みんこと殿井くんが電車に乗り込む。わたしも手を振り返す。鞄のなかでわたしのスマホが震えて、電話がかかってきていることが画面に表示されている。いまどきケータイの電話なんて使わない、みたいな話をさっきしていたばっかりなのに。苦笑しながらわたしはその着信に応じる。知らない番号からだった。
『――もしもし?』
 わたしはいま耳にした声の主がだれなのか、とっさには信じられなくて、しばらく絶句する。
『もしもし? 聴こえてますか? 有水です。有水千冬』
 みんこと殿井くんが乗った電車のドアが閉まった。驚きに凍り付いたわたしの表情を、ふたりは車窓越しに不思議そうにみつめていた。
「ち、千冬?」
 ああ、と回線の向こう側で千冬が安堵のため息を漏らす。
『よかった。つばめね?』
「うん、そうだけれど……」
 いろいろといいたいことがあったはずなのに、ことば未満の泡が胸のあたりでつかえてただ息苦しくなるだけだった。電車が走り出して、みんこと殿井くんを遠くまで連れ去っていく。
『もう同窓会って終わっちゃったかしら?』
「……とっくに」
 それはそうよね、と千冬が小声でいった。
「みんこと殿井くんと二次会してたけれど、それも終わっちゃった」
『あら……そうなの』
「うん。ちょうどいまふたりが乗った電車み送ったところ」
 もうほとんど終電の時間で、いまからかれらを呼び戻すのは難しいだろう。
『ふたりにも電話したのだけれど、涼美も丈一郎くんも電話番号変えてたみたいだったから。もう、電話番号変えたなら連絡くらいしてほしいわ』
「ふふ、それ、殿井くんもいってた」
『……お互い様ね』
「それで、どうしたの? いま日本にいるの?」
『ええ。同窓会、参加するつもりで帰ってきたのだけれど、国内の雑誌のインタビューがどうしても、って。断れなかったのよ』
「そうなんだ」
『それで、その……』
 千冬が珍しく口ごもる。わたしがその先を引き継いであげる。「ね、千冬。いまどこにいるの?」
 切られちゃったかな、と錯覚するくらいのあいだ、スピーカーは沈黙していた。
『……学校よ』
「え? 学校って、二中、ってこと?」
『そう。……なに? 悪い?』
「ううん、わかった。いますぐ行くね」
 そうしてほしかったのはまちがいないのに、千冬は声を潜めて訊き返す。『大丈夫? もう夜遅いし、無理しなくても』
「いいよ。駅から歩いて十分もかからないでしょ?」
 わたしは身を翻して駅ホームの階段を上り、駅員さんにお願いして改札の出場処理をしてもらう。そのあいだも、電話はつなぎっぱなしにしておいた。切ったら、ふたたびはつながらないような気がしたから。
 さすがにもう人気もまばらな駅前を学校に向かって歩き出す。
「千冬、さっきまでわたしたちがなに話してたかわかる?」
『さあ。さっぱりわからないけれど、わざわざそう訊くってことはわたしの話でしょう』
「正解。卒業式の日、千冬、集合写真にどうしても写ろうとしなかったでしょ?」
『そんなこともあったかもしれないわね』
「あれがなんでだったのか、みんなで考えてたの」
『あなたたち、久しぶりに会ってそんなこと話してたの? もうちょっと思い出話とかしたらよかったんじゃない』
「なんでよ、これも思い出話じゃない」
 わたしはあの場で出たみんこと殿井くんの思い付きの数々を再現する。千冬はしばらくそれを笑いながら聞いていたが、みんこが最後にいった――いっしょに写りたくないひとがいたから、という説にたどり着くと、さすがにうめき声みたいなものを上げた。
『そう思われても……仕方ないわよね』
「ってことは、やっぱり、、、、違うんだ?」
『やっぱり?』
「うん、だって千冬はあのとき、みんこからブローチを、、、、、、受け取った、、、、、
『――よく覚えてたわね、そんなこと』
「いっしょに写りたくないくらい嫌いなひとがいるんだったら、そもそも写真を撮ることを前提にしてブローチを受け取ったりしないよね。それに、あんな風にみんなの前で騒ぐ必要もなかった。体調が悪くなったふりして、保健室に行くとか早く帰るとかしちゃえばいいだけなんだから」
 学校が近づいてきた。あのころ、わたしたち吹奏楽部は朝練があったから、いつも正門ではなくて音楽室に近いほうの通用門を使っていた。べつにだれが使ったっていい門だったけれど、なんとなくこの門は吹奏楽部専用、みたいな縄張り意識があって、ほかの部の子たちは(たとえ近道になろうとも)通用門を使わなかった。わたしはその通用門に回り込んだ。
 学校の裏手にずらっと続く植え込みの切れ目に、傍目には目立たないようなくぼみがあって、その奥に通用門はあった。狭い門だ。定期演奏会のときここからチューブラーベルを搬出しようとしてぶつけた打楽器の子が先輩に泣くほど怒られていたのを思い出す。
 その門に人影がもたれかかっていた。わたしは通話を切った。
「千冬」
「――つばめ」
 一歩、二歩と千冬のほうに近づいて、それから我慢できなくなって小走りになって、その勢いのまま千冬の胸のなかに飛び込んだ。わたしがそんなことをするとは思ってなくて、だから受け止める気なんてさらさらなかった千冬は、情けない声を出してバランスを崩して、門扉のフェンスにわりと大げさな音を立ててぶつかった。がしゃっ。「つばめっ……ちょっと、酔ってるの?」
 わたしは千冬のいっていることを無視する。彼女の顔に手を伸ばして、メガネを外した。
「目悪くなったの? こんなのしてなかったじゃん」
「伊達よ、伊達。変装しないとマネージャーに怒られるから」
「うーわ、マネージャーいるんだ」
「なに、いちゃ悪い?」
「ね、千冬、こんなとこでなにしてたの?」
 そう聞くと千冬は決まりの悪そうな顔になった。「音楽室……ひさしぶりに行ってみようかなって」それから、通用門のフェンスを手で揺する。南京錠と掛け金がぶつかる音が闇夜に響いた。「前から施錠してたかしら。開けっ放しだと思っていたわ」
「してたよ。すくなくとも夜は」
 わたしたちが中学生のころだって、もう世の中はそんなに牧歌的な時代じゃなかった。千冬にはこういう世間知らずなところがある。
「でもね、このへんのツツジに穴が開いてて」わたしは記憶にある抜け道のあたりを手探る。「……開いてないね」
 千冬は肩をすくめた。「直したんでしょ」
「そうかも」
 わたしは諦めて、植込みを囲っているレンガに腰を下ろした。汚れるからやめなさいよ、といいながら、千冬もそのとなりに座ってきた。
「懐かしいね。なんの用事もないのにさ、ここで下校時間過ぎても喋ってたこと、あったよね。お喋りしたいだけなら、音楽室でも、ベローチェでも、どこでもよかったのに」
「つばめ……なんでも覚えてるのね」
「千冬は? 忘れちゃった?」
 覚えてるわ。と、千冬ははにかんでみせた。
「定演の曲が決まったときだったかな。八木澤とか樽屋みたいなのの曲をみんなが好きなのは信じられない、って。ここでずっと怒ってた」
「評論家気取りのガキの若気の至りね。恥ずかしい」
「じゃあ、いまは好きなの? マチュピチュとか、民衆を導く自由の女神とか」
「は? いまでも大っ嫌いよ、あんな子どもだましの曲」
 千冬は即答した。子どもだましでなにが悪いのだ。わたしたちは子どもだった。千冬にはいつも確固とした意見があって、それは容易なことで翻らなかった。
「来ればよかったのに。同窓会。みんなともこうやって思い出話できたんじゃない? ……だって、雑誌のインタビューって、嘘でしょ? こんな夜遅くまでやってるはずない」
「……夕方まで受けてたのは本当よ」
「遅刻してでも来たらよかったじゃん」
「無理よ。だって――私は。みんなの卒業式の思い出を台無しにした張本人なんだから」
「ほんとにそうなのかな」
 千冬が息を飲む音が真横で聞こえた。
「さっきの話の続き。千冬は自然にみんこからブローチを受け取った。ということは、その時点までは写真に写ることをいやがっていなかったということ」
 暑いね、とわたしはそこでことばを切って、近くの自販機まで走って行った。千冬のぶんと合わせて、缶ジュースを買った。中学生のお小遣いではあまり頻繁にできる無駄遣いではなかった。それに、砂糖の入った飲み物を飲むとリードがすぐダメになる、みたいな迷信がわれわれの吹奏楽部の木管パートにはあったし。それでもわたしたちはたまに練習終わりにここでジュースを買ったのだった。
 プルタブを引く音が重なった。
「……そして、千冬が写真に写らないことを決めたのは、ブローチを受け取ったあとだった、ということ」
「ちょっと無理があるんじゃない? あなたたちが教室を出て行ってから私たちのクラスの撮影までせいぜい二、三十分だったでしょう。それくらいでひとの考え方が変わるかしら」
「千冬がどうして写真に写りたくなかったのか、そればっかり考えてたからわたしたちはなにがあったのかわからなかったんだ。千冬は写真に写りたくなかったんじゃない。いっしょに写りたくないひとがいたわけでもない」
 わたしは千冬の顔を覗き込む。
「写真が撮られるところをみてなきゃいけなかったんだ」
 わたしは効果を確かめるように千冬の目をみつめ続けた。黒目が揺らいで、ああ、そうなんだ、ほんとに――そうだったんだ、と思った。
「それで? 私はなにを監視してなきゃいけなかったのかしら?」
「想像だけれど――きっと、あのとき教室に残っていたほかの子たち。彼女たちが、写真撮影のときに、なにかひどいいたずらをしようって相談してるのを、千冬は聞いちゃったんじゃないかな」
 千冬が肩を落とした。
「ひどいいたずらなんてものじゃないわ。あの子たち、撮影のタイミングで、スカート捲りをしよう、って、そんなこと企んでたのよ」
 なるほど、と思ってしまった。まさか現像されることはないだろうけれど、下着をフィルムに撮られるという恥辱。在学中にやったら大騒ぎになるだろうが、卒業式でやればギリギリ笑い話、、、として見逃してもらえそうないたずら。よく考えたものだ。独創的な発想だ、とすら思った。
「譜読みしてたらそんな会話が聞こえてきたものだから、耳を疑ったわ。そんな馬鹿なことやめなさい、って、よっぽど注意しようかと思った」
 深夜零時を過ぎても、夜風は生ぬるいままだった。肌寒いはずはなかったのに、千冬はじぶんの肩を抱いた。
「できなかった。怖くて。『冗談に決まってるじゃん』って流されたら? 私がいったところで、ああいうひとたちが行いを改めるかしら? 彼女たちがなにを話しているのか、一言一句を耳にしながら、私はそれを聞こえないふりをしていた……」
 そんなの、ふつうのことなんだよ、そんなことで千冬を恨んだり、卑怯者だと思ったりするひとなんていないよ。
「楽譜で顔を隠して、時が過ぎるのを待っていたら、彼女たちは校庭に出て行ったわ。でも、私の目の前でそんなことをさせるなんて、絶対に許せなかった。だから――まぁ、私も頭おかしかったのかもね、あんなふうに一芝居打って、撮影中の彼女たちの挙動を監視することにしたの。すこしでもおかしな動きをしたら、大声を出すつもりだった」
 それでも、千冬はじぶんでじぶんのことを卑怯者だと思った。そんなじぶんを許せなかった。
 千冬の振る舞いをみて、彼女たちは震えあがったことだろう。あのときの千冬の射貫くような目線を、真正面から受け止めていた彼女たちは、まさにひとにみられながら悪事をするのがどれだけ難しいことなのか、実感したことだろう。
 かくして千冬の目論見は功を奏した。悪質ないたずらが行われることはなかったし、そのいたずらのせいで卒業写真が台無しになることはなかった。
 千冬の奇行がすこしは影響していたけれど、みんなそこそこの笑顔で写っていた。すくなくとも、泣いている女の子はいなかった。写真撮影は成功した。ただ、千冬が写っていないという点を除いて。
「だからって――千冬が犠牲になることなんてなかったのに」
「犠牲だなんて、大げさなものでもないでしょう。集合写真なんてバカバカしいと思っていたのは事実」
「でっ、でも……! そのせいで、千冬は同窓会にも参加できなかった……!」
 どうやらわたしの声は涙声になっていたらしい。なんでつばめが泣くのよ――と、千冬の狼狽した声が頭上から聞こえる。千冬は不器用な手つきでわたしをあやすように抱き留めていた。わたしの知っている千冬の体臭と、わたしの知らないブランドの香水が混ざった匂いが鼻をくすぐった。
「私が同窓会に顔を出したら、いじめをやっていたあの子たちも気まずいでしょう。それに、あの日のことが話題になりでもしたら、その標的だった子にもいまさら迷惑をかけるかもしれないし。でも、同窓会が終わったころにせめてあなたたちとは久しぶりに会いたいと思ってたのよ。それもなかなか勇気が出なくて、あなたに電話したのも真夜中になっちゃったけれど」
 彼女の胸のなかで思う存分鼻をぐずらせていたわたしは、彼女の発言のおかしいことに気づくのにしばらくかかる。
「え……千冬?」
「なに?」
その標的だった子、、、、、、、、、って。だれだか知らないの?」
 千冬がまばたきする。ぱち、という音が聞こえるようだった。
「知らないわよ。知ってたらあんなややこしいことしないで、撮影中はずっとその子のうしろに立ってたわ」
 たしかに――日本語は便利なことばだから、目的語をほとんど使わないで会話することもできる。だれかをいじめる相談をしているときに、その標的の名前を連呼したりしないだろう。それに、わたしは彼女たちに「芭蕉」と呼ばれていたのではなかったか? もし彼女たちがその名でわたしを呼んだとしても、千冬がその意味を理解できるほどクラスのなかで起こっていることに通じていたとは思えなかった。
 だれが標的になっているかわからないから、彼女は見張りに立たなくてはならなかったのだ。
 だとしたら――わたしのなかで、ひとつの前提、、が崩れていった。
 彼女はわたしを、、、、かばったのではない。十五年目のその真実は、たしかに一種の打撃をわたしに与えた。彼女はわたしがいじめられていることを、知ってさえいなかった。
 哀しいのだろうか? 千冬がわたしの状況を知らなかったのは、冷たい無関心の表れだったのだろうか。そうだとしたら、わたしはそれを口惜しく思うべきなのだろうか。
 わたしにはそうは思えなかった。彼女はあのころ、すでに教室という水槽のなかに住んでいなかった。小天地でなにが起こってるのかに傲慢なまでに無頓着だった、そんな彼女にわたしは憧れていたのだ。
 それに。わたしがあの子たちにいじめられていたというのを、標的がわたしだというのを彼女が知らなかったというのなら。彼女が守ろうとしたのは、もっと一般的で、抽象的で、崇高なものだった。千冬は、だれがいじめられているのか知らなくても、全力でそれを阻止したのだ。どれだけみんなの前で恥をかくことになろうとも、風評が傷つくであろうことがわかっていても。わたしにはそれがなによりも嬉しかった。千冬はこういう人間なのだ。わたしの友だちは、こんなにうつくしい魂を持っているのだ。わたしは全世界に向けてそれを教えてあげたかった。それと同時に、全世界でわたしだけがこの秘密を共有する人間でありたかった。
「なに、あなたは知ってるの?」
「ううん、知らない」
 ふうん、と千冬は興味なさそうに相槌を打った。
「でも、たぶん感謝してると思うよ、その子」
「だといいけれど」
 そう、千冬は知らなかった! 無性にそれが有難かった。汚点を知られたくないというようなプライドの問題ではなく、千冬とわたしのあいだに余計な夾雑物を持ち込まずに済んだ、千冬を汚さないで済んだ――という有難さだった。千冬にとってわたしは、いじめられていたあの子でもなく、守ってあげたあの子でもなく、単なる中学生のころ仲がよかった女の子なのだ。その立場を、わたしはどれほど希ったことだろう! わたしは神だか、運命だか、そういったものの采配に感謝した。
 わたしはおずおずと千冬の腕のなかから出て行った。
「ごめんね、十五年も連絡しないで」
「なにいってるの。――私のほうこそ、ずっとあなたたちを……避けてたのに」
「ね、こんどまた四人で集まろうよ。みんこも殿井くんもさ、べつにほんとのことなんていわなくても、千冬がわたしたちといっしょの写真に写るのが嫌だったわけじゃないって、説明したらわかってくれるよ」
「……そうよね。集まることがあったら、私も呼んで――」
「なにいってるの、千冬がいちばん忙しいんだから、みんな千冬の都合に合わせるって」
 ほら、ケータイ出して、と千冬を促す。「みんなの連絡先も送るから。つぎに帰国したらぜったいわたしたちに連絡すること」
「わかった。約束する」
 データの転送は一秒もかからずに終わった。あまりにかんたんで、十五年分の距離がこんなことで埋まるとは思えなくて、千冬はあっけにとられたようにスマホを構えたまま硬直していた。
「えい」
 わたしはその首に腕をかけた。千冬のほうが十五センチ以上身長が高いので、ほとんどぶら下がるような格好になる。
「わっ、つばめ、なに? 急に。キャラ違くない?」
 手に持ったままのスマホを操作してカメラを起動する。
「千冬、写真撮ろう、写真」
「ええ? いいわよ、写真なんて」
「わたしが撮りたいの。ね、卒業式でも同窓会でも集合写真に写ってないなんて、悲しすぎる」
 あたりは真っ暗で、街灯は頼りなかったし、背景はただのフェンスと、手入れもろくにされていないツツジの植込みだった。深夜の通用門はまるで自撮りには向いていなかった。
 しかも、わたしも千冬もふだんから自撮りなんかしなくて、闇夜での撮影は至難を極めた。手始めに撮った一枚で、妖怪みたいに赤い目の写真が出来上がって、ふたりでひとしきり笑う。
「つばめ、センスなさすぎ! ちょっと、貸しなさい」
「うそだ、わたしでダメなら千冬なんかもっとダメだね」
 近所迷惑なくらい大騒ぎしながらなんども試すうちに、やっと最適な設定がわかってきた。
「じゃあ千冬、これで最後にするよ。写真は? って訊くから、『もういい!』って返事してね」
「なにそれ、聞いたことない掛け声」
「いいから! 写真は?」
「「もういい!」」
 イ段音なんて必要ないくらいわたしたちは笑っていた。三十歳になった千冬はきょうも完璧にきれいで、わたしたちの笑顔はあのころみたいだった。やっと卒業できるような気がした。いったいなにから卒業するのかは、わからなかったけれど。
 さいごに撮った写真も、けっきょくそんなに上手く撮れていなかった。だって、わたしたちはプロの写真家じゃない。
 大量の失敗作がカメラロールに溜まっていた。わたしたちは一枚もそれを削除しなかった。
 最善じゃない写真たち。ふたりしか写っていない、世界最小の集合写真。
 あなたたちにはみせてあげない。
 それはわたしの卒業写真で、わたしたちの卒業写真だった。