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【ここが好き】髭切膝丸双騎出陣2020 1部/曽我物語

髭切膝丸双騎出陣SOGA 2020が(再配信とディレイ配信も)終わってしまいました。まあその、なんだかんだでディレイ含め20回ぐらいは観たわけなのでだいぶ脳内スクリーンでは再生可能なぐらいにはなってますが、やっぱり振りとか細かいとこは完璧な再現は難しいので映像がないのつらい。

ほんとはこういうのは途中で興味を持ってぐぐったりするひと向けに配信とかがあるうちに書くべきなんでしょうけど、配信あったうちは自分が見るのに必死だったからね。

というわけで今さらですが終わってしまった双騎2020をあらためて語りたいと思います。

とっくにもう2万か3万文字語ってますけどまだ語るよ!!

兵庫と東京の間で多少のお勉強の積み増しもしたし2019もおさらいしてるのでそのへんの話も入ってきます。

というわけで、まずは第1部。曽我物語のこと。

※双騎出陣2020および2019のネタバレをおもいっきり含みます※

※最終的に2万字余裕で越えましたというかほぼ25000字です。ご注意ください※

人形から少年になる

冒頭。瞽女の語りに合わせて人形2体が出てきます。

それぞれ、人形をくるんである布てきなものに、「膝丸」「髭切」と書かれた札が貼ってあります。かなりフチがぼろぼろになってまるまってやや剥がれかけっぽい汚しが入ってて、瞽女が

そこにおられたのですね 何年も いいえ、何百年も

と言うんで、古い人形なんだなということがわかるわけですが。
この2体の人形は果たして本当に髭切と膝丸なのか。
いや、公演そのものがいちおう源氏兄弟が曽我物語を演じるという任務についている、という設定なんで、そうなんでしょうけども。
そこについてはちょっと違和感が否めないというか。

だって髭切と膝丸が顕現したのは2205年なわけで、2020年時点ですでに作られて数百年たってる人形が髭膝の形してるのってなんかおかしいし、そもそも彼らは人間の姿で顕現してるのであって人形じゃなくね?
みたいなメタな話はちょっとおくとしても。

なんというか、あんまり髭切と膝丸感がないんですよね。

どこで言ってたんだったかな写真集のインタビューかな、三浦くんがやっぱり「髭切が十郎を演じている、ということはあまり意識しないで曽我十郎を演じた」みたいなことを言ってたんですけど、やはり自分の受けた印象もそんな感じなので、むしろこの冒頭で人形に髭切膝丸とお札が貼ってあるのがあらためて考えるとちょっとふしぎな感じがします。

だってやっぱりね、兄者はどんなにお芝居をしてたとしても十郎みたいな表情ってしないと思うし、弟も五郎みたいには振る舞わないと思うんですよね。これもややメタな言い方ですけれど、彼らはやっぱり刀剣男士であって役者ではないので、三浦宏規と高野洸なら髭切/十郎と膝丸/五郎を演じ分けることはできるけど、髭切と膝丸はそこまでは十郎と五郎にはなりきれない気がするんですよね。

それが不満だというわけじゃなく。
やっぱりあの板の上にいるのは十郎と五郎で、むしろ髭切と膝丸の人形に曽我兄弟をおろして、ガワは源氏兄弟だけどなかみは曽我兄弟だったんじゃないのかな、と、思うほうが自分的にはしっくりくる気がする、という話。

それはさておき、瞽女に一万と筥王と名前をつけられた人形が動き出して、ひと節踊ってから面をとって一万と筥王に変わるわけですが、この時点ではまだ二人とも人形で。

瞽女の

一万と筥王は、それはそれは仲のよいきょうだいでございました

で導入が終わって、一万の

ついてこい、はこおう!
(このころは兄者もまだ5さいなので言い方がたどたどしい)

で実際の芝居部分がはじまるわけですけども、

このね、無機物しかもふつうに等身大サイズというか、服は子供時代の水干だけど、それはほんとに人形がそういう衣服を着せられてるだけ、という状態からいきなり5さいになる兄者の差。表情も口調も発声も動きも、ちゃんと子供子供してる。

ここは2019より兄も弟も、ものすごい進境だと思う。

弟の幼児っぷりもすごいんですけども、口火を切るのは兄のほうなので、やっぱりここでまず兄がちゃんと5さいになれてないとここでは曽我兄弟は幼児である、という場がうまく形成されないと思うんですよね。

そして兄が無邪気で幸せで弟をからかういたずらっ子な面さえ見せるのは、全編を通してここから雁が音Ⅰまでの数分間だけなんですよね。

それを思うとほんとに「ははうえのところまできょうそうだー!」とかが貴重というかこのあと奪われるためにこの笑顔と幸せがあるのかという気分になるというか(つД`)

前半のころはそこまではやってなかったような気がするんですが(カメラが抜いてなかっただけかもしれないけど)筥王がははうえに花を渡してははうえに「ありがとう一万、ありがとう筥王」って言われた時に一万がこっくん、って満面の笑みで大きく頷くのがまたかわいいんだ(>ω<)

あと、最初の雁が音で「ならばあれはおまえだ」って歌う時に、雁の群れの中で筥王っぽいのを探してから指さすのがすごくお兄ちゃんっぽくてすき。

幼児お膝

そして一方の弟ですが。

2019って冒頭の「いちまんとはこおう」の歌詞からもう「手をとり二人で 手つなぎ二人」だったくらいで(2020は「朝から二人 夕まで二人」)、兄弟の仲のよさを見せるのに手をつないでくるくる弟を回したり(難しかったらしいw)抱き合ったりするシーンがすごく多いんですが。
2020は(おそらく)ソーシャルディスタンシングの関係もあって、二人が触れ合うシーンはほぼなし。

そのぶん、前を走っていく兄を、弟が無心に慕って追いかける構図が多くてですね。

弟の幼児っぷりの進化がすごい。

じっさいは高野くんのほうが体格いいし、たしか背もちょっと高いはずなんですけど、圧倒的に筥王のほうが幼く小さく見えるんですよね。

まず、幼児なので立つのもまだじょうずじゃない。類人猿が人間になるまでの進化の図じゃないですけど、しっかり立てないんですよね。
なので、背を丸めて膝も曲げて、前かがみに、しかもかなり歩幅を狭くして、よちよちとてとて移動する。兄が5歩でいくところを弟は8歩ぐらいで移動するような感じ。

逆に兄のほうはしっかり背を伸ばして頭を上げてるので、そこでもう大きいと小さいの差が出るんですが。

座る時がまたワザが入ってて。

兄のほうは基本的にやや跪坐ぎみ。最低でも正座。
背をのばして、膝に手を置いて、きちんと座ってる。

対して弟はいわゆる女の子座り(あれは男子は骨盤の形の関係でできないって聞いたと思うんだけどなんでできるんだ高野洸)で、お尻を足の間に落として床にぺたんとつけて座るんですね。
そのほうが子供っぽいことも確かなんだけど、相変わらず背中はまるまってるので、兄との頭の高さがものすごく違って、体も実際よりかなり小さく見えるんですよね。
対して兄のほうはそういうわけで体格も背も弟より年上に見える上にしゅっとして凛としてるから大きく見える。

あと、雁が音Ⅱのあたりになると兄は立ってて弟はへたりこんでる(しかもお尻落としてる)のでなおさら体格差がかなりあるように見える。
うまく見え方を計算してるのがとてもよい(>ω<)

バレエでも女性ダンサーがぺたっとかかとをつけてやや前かがみというか上体を前へ出して頭の位置を下げることで実際は大柄な女性であっても小柄で可憐な少女に見せるテクニックがありますが、まさにそれです。

「ちちうえはどこじゃ?!」

幼年期筥王の最大の見せ場。

ここのお膝の幼児っぷりがほんとにすごい。

いつも「ちちうえはどこじゃ?」がはじまるのがちょっと早いよなあ、と思わないでもないんですが(笑)。手さえちゃんと合わせる前にもう動きはじめちゃうからね。
でも、それも手を合わせる意味はもちろんわかってないし座っておとなしくお祈りしてろっていわれたって幼児ができるわけはないという意味で落ち着く以前にもうよそに気が移って動き出しちゃうという表現なんだろうなとも思うのでそれはいいとして。

ちちうえはどこじゃ? はこおうもおともするのじゃ!
ちちうえー! ちちうえーー!

ってちちうえを呼びながら舞台じゅうを走り回るわけですけども。

叫んで走って叫び疲れて走り疲れて、もう何がなんだかわかんなくなって泣いちゃう、っていう感じで泣き出してへたりこんで号泣しちゃう流れがほんとに熱演。日によってはマジで神がかってた。
なんたってこの、子供とくに幼児小児が泣き喚いてるのが大嫌いな私にさえ哀れを催させるんですよこの高野洸。すごいです。

2019ではとめようとする一万を振り切るというか突き飛ばして転ばせて走っていってしまう演出だったけど今回はソーシャルディryで一万はなだめようと声をかけるだけで、近づけない。まあ、ソーシャryなんだけど、このおかげで「筥王には兄を突き飛ばせる体格と力がある」というエビデンスもなくなる上に、ここで筥王の肩をつかんで言い聞かせないことを一万のためらいと見ることもできるわけで。

自分だって父上はもうおらぬと言い切りたくないから、父を探して走り回る弟をつかまえて言い聞かせる思い切りがつかなくて、でもそれが事実だし母上も困るだろうと思うと言わないわけにもいかないと解釈してみるとせつない(つД`)

遠き雁が音Ⅱ

母上が再嫁して、曽我家に入ることを告げられたあとの、兄弟二人きりでの遠き雁が音。

父がいなくなった上に母にまで捨てられて(たぶん兄だってそう思ったと思う。「何をおっしゃるのですか母上」の、意味わからないですっていう唖然とした顔がすごくかわいそう)、また泣く筥王を「父上が悲しむぞ」と諭して泣き止ませる一万(ここはさすがに離れたところから言うんじゃなくて2019の演出でしっかり肩をつかんで、うん、って頷いてがんばって泣き止む弟のほっぺから涙を手で拭ってあげてほしかった。ソーシャルry許すまじ)に、頷いて涙を押し戻して、雁に気がついた弟の「あ! とり!」のにぱっという笑顔の幼児みよ。
今泣いたカラスがというやつですが、つまりここまでの筥王の泣き方というのはちちうえがいないという、悲しみというよりむしろ物事が自分の思い通りにいかないといういやいやで泣いてるんですよね。
もちろん幼児なのでそういうものなんでしょうけれど、鳥に意識がいった途端に笑顔になって雁の家族を数え始める弟に、逆にもう泣くなと言った兄が雁の姿にあらためて父を思い出して涙ぐんでしまう。

「あの雁たちには父がおるというのに、我らにはもう・・・」と言葉を詰まらせた兄の言葉で、ここで筥王は父が失われてしまったことを本当に理解して、あらためて泣き出すわけで、兄弟で泣きながら歌う「響くは」「があがあ」「歌声」「があがあ」の切なさよ。

「父と 母と ともに ともに」のところで、兄弟が心理的には父ばかりか母も失ってしまったことが描かれるわけですが。

さらにこじつけると、ここで、一万にとっては母は母親から女性になったのかもしれないな、と思います。
別のエントリにも書いたことですが、十郎の母への態度というのは、「お母さん」への愛情というよりは、自分が護り支えなくてはならない女性への礼儀正しい敬慕に近いと思うんですよね。
それは、母に自分たちのために再婚をさせてしまった、というショックからはじまってるんじゃないのかな、と。
母が再嫁したことが自分たちのためであるということは、おそらく一万は聡いので理解したと思うし(当時としては夫を亡くした女性は後を追って死ぬか出家するのが普通だったらしく、別の男と再婚するのはかなり非常識なことだったらしい)、だからこそなおさら、これ以上母上に不本意な人生を送らせないように自分が守らなければ、みたいな思いが生まれた、と考えることもできるなー、と。
あくまで解釈としてこれもありだな、という程度ですが。

ひたむきな花

五郎が仇討ちを発願するシーン。

正直、ここは私はSOGAで唯一ちょっと納得しきれない部分の残るシーンです。

というのも、歌詞にもある通り、五郎って父の仇を討ちたかったわけじゃなく、敵討ちのために独り修行を積む兄上に寄り添いたいがために、涙を捨てて敵討ちに向かう決意をするわけです。

それってどうなの(・x・)ってね、ちょっと思うわけです。

もちろん、兄弟愛美しい、あにうえを支えたいはこおうちゃんけなげ、みたいな視点で見るぶんにはとてもいいシーンなのはわかりますけれど。
兄がそうしたがってるから。自分も敵討ちやる。
それだけで本当にいいのか、とちょっと思うんですよね。

まあその、自分にとって最も大事な人の宿願を叶える手伝いをしたい、というのは立派な動機ではあるし、嘘もつきとおせば真実、繰り返すうちに本気になるとか、そういうのもあるとは思うんですが。

まあ、当時まだ筥王もせいぜい5さいとかそのくらいなんでしょうし(箱根へ入れられて十数年というせりふがあって、十郎が享年21なので五郎は享年19。つまり7つ以前ぐらいに山に入れられた計算)、兄の姿を見るうちに自分も敵討ちをしよう!と思った、ということでいいのかもしれませんが。

というかこのシーンは「兄上はきっと知らないでしょう」「おまえはきっと知らないだろう」ってお互い相手には告げないけど相手のことを想うことで自分も生きる力や未来への希望を得てるんだ、ということを示すシーンなのでそこはつつくポイントじゃないですね。はい。

それはそれとして、ここの筥王のへたくその演技がめちゃくちゃうまい。

そもそも木刀の握り方がわからないっていうのは2019のバクステを見ると途中でいっそそこまでやっちゃえよ、って話になって取り入れられた演出だったようですが(そしてそれもわからないくらい筥王がまだ幼いという表現でもある)、握るのへたくそなのも兄上にぺしって叩かれるへっぴり腰も兄上のまねしてるのにぜんぜん似てない素振りも、上手なひとがへたなまねをするの難しいと言いますがほんとにちゃんとへたくそが上手くて素晴らしい。

そしてさらに、何がすごいってこの1曲の間に筥王がめきめき腕をあげて成長していくのが高野くんの動きを見てるとちゃんとわかるところです。
最後の一万との打ち合いではもうすっかり追いつきかけてますよね。

ここで、筥王のせりふも「わしもちちうえのかたきをうちたいのじゃ!」から「必ず、父上の仇を討ちましょう!」とかなり主体的になってる。
兄上との修行の日々の中で、これがやはり正しいことなんだ、という自覚なりが芽生えたということなのかなあ。

兄としては、これは、でもすごく嬉しいよね。
母上にもすでに「亡き父の仇討ちなど考えてはなりませぬぞ」って釘をさされてて、でもやっぱり自分は祐経が許せなくて独りでも敵討ちをすると決めて稽古に励んでたら、泣いてばかりいた弟が自分も敵討ちがしたい!って言ってきてくれたわけだから。
稽古をつけてて筥王が強くなってきたのが嬉しくて思い切り打ち込んじゃって筥王を泣かせちゃった時、筥王が「痛くない痛くない痛くない!」ってべそかきながら、でもやせ我慢して立ち上がって稽古に戻ったあとでやっぱり自分も稽古を再開する一万がすっごい嬉しそうでかわいいんだよ(>ω<)
2020ではここでも離れたところから「痛むか、筥王」っていうのがちょっと手をのばしたくても伸ばせないもどかしさがありますが。おのれソーシャルディ(ry

一万、筥王、これへ

剣術の稽古の直後、筥王が出家するために家から連れ去られるシーン。

ここの、母上に呼ばれて傍らへ控えた一万の「いかがなされました、母上」がですね!
ほんっっっっっっっっっっとにめっっっっっっっっっっっちゃ母上を気遣ってて、やさしくて、一万の母上への愛情がだばだばこぼれてる。すごい好きなせりふ。

でもここで兄弟は引き離されてしまうわけで。

じつは一万が一人称を使うの、ここの「ならばわたしがかわりに」の1か所だけなんですよね。歌の歌詞としてはあるんだけど、あれは歌だからね。一人称わしの五郎も歌だと私だし、そこは様式美として「私」なんだろうということで別として、せりふとして一万あるいは十郎が一人称を使うのって、ここの「わたし」だけなんです。

それ以外は、「我ら」。

「我ら」なんですよ(>ω<)

十郎の基本はもう完全に自分と五郎二人でセット(>ω<) しかも自分が兄だから何かにつけて自分がまとめて前に出る必要があると決めてる。
だから、五郎は「わし」で十郎は「我ら」なんだなあと思うと(>ω<)

ここで母上の無体によって筥王を連れ去られてしまったあとの一万がね、まためちゃくちゃかわいそうでね(つД`)
母上を涙いっぱいにためた目で見つめて、母は後ろめたいから目をそらして、でも一万も今の自分では筥王が箱根に入るのをやめさせることはできないのがわかってるわけで。

繰り返しますが一万は長男ゆえか兄ゆえかあるいは生まれ持った優しい気質のゆえか、ほんとに徹底して母を愛して立てて支える立場をとる息子で、だからここでも母の気持ちがわかっちゃうんですよねたぶんね。
どうして、と母上を見つめて、でもそこで「くっ……!」って泣くのをこらえて奥へ駆け込んでいくのは、たぶん母への抗議じゃなく、弟をその運命から救い出してやれない自分への絶望のような気がします。

ちなここの「くっ……!」の涙こらえてはけていく時の声の演技って、公演前半、兵庫はたぶんなかったと思う(・x・)舞浜も最初はどうだったかなあ。ちょっとおぼえてないんですけど、最後のほうは毎回だったので、やっぱりこれも、途中で演技が大きく変わったあたりに入った演技かも。

2020のほうが、二人が距離をあけてるのでこういう時は隔てられちゃった感が強く出ますね。ここはソーシャルディスタンスぐっじょぶ。

何かと制約を加えてくるソーシャルディスタンシング。
ちょっとでもなにかあると中止になっちゃったり本当は不必要なフェイスシールドの装着を余儀なくされたりボディタッチが減るというかほとんどなくなるとか、デメリットばかりが目につきますけれども、たとえばここの引き離されるシーンの演出とか、ラストシーンの手と手の距離なんかは、今回の災害あってこそ生まれた演出なので、功罪相半ば、いやまあ、罪のほうに圧倒的に天秤は傾いてはいるけれど、制約のある中でベストの道をさぐることで新たな可能性や表現が出てくることもこうやってあるわけなので、一概に何もかもが悪とも言い切れないなあ、と(もちろんコロナ滅べとは思ってますけれど)思う面も多少あったりします。

あやなす音

箱根権現の日替わりは、毎度楽しくてかわいいですが、言ってみればかわいいだけなので(まだキモのところにたどりついてないのにもう8000字近いし)ちょっと割愛して、

あやなす音。

幼年~少年期のクライマックス。名曲名演出です。

とにかく歌がうまい。

二人ともめちゃくちゃ歌がうまい。

2019では傘の影でやってた早替えは、今回ソー(ryでいっぺんはけるようになりましたね。

SOGAは随所に歌舞伎をもとにした演出を入れてて、ここの、2019での舞台上での早替えもたぶんそうなんだろうと思いますが(歌舞伎は未見)、まあ、ぶっちゃけ見る側としては傘の向こうでもはけててもそんなに変わらない(・x・)むしろ裏でしっかりやってきてくれるほうが安心感はあるのかなあ。それこそ本物の歌舞伎じゃないんだから、そういうとこはこだわらなくていいような気がします。

ここ、たぶん、なんだけど兄者前髪つけて袴のたくしあげほどいたついでに刀もとりかえてきてるよね?
イントロのところで振ってる刀は父上が殺された時からずっと差してる子ども用の短い刀(抜いて素振りしてるところでわかる)で、青年期にモードチェンジしたあとは長い、というかふつうの太刀。だと思う。十郎はわりと右脇を客席に向けてることが多くてちゃんと鞘が見えないんだけど長くなってる・・・と思うんだよね(・x・)
まあ、2019のコメンタリーを聞くとさしてた本人でさえ「あれっどうだったかなでもここで長いのになってるはず!見てもわからないね!」みたいに言ってたけどw(2019のときは舞台上での早替えだったので最初から長い太刀だったもよう)

この曲、弟も兄も「兄を呼ぶのは弟」って共通認識持ってるのがエモいよね。
そんなにいつもいつも、筥王は一万を呼んで一万について歩いてたんだなあって(つД`)

そして五郎も前髪を増やして(って前髪に関しては五郎はほとんど差がわからないんだけど)戻ってきてから、二人で簪を抜いてポニテに成長するところ!!!!

ここが双騎屈指の名シーンの1つであることは論を俟たないと思います。

簪抜いて髪をおろした直後に十郎が上手、五郎が下手を向いて横顔見せるのもね!(>ω<) 配信では最初の数回を除いてここは常に2分割でしたが、これはもうどうやっても正しいでしょう(・x・)だって絶対両方みたいよね!

最後のサビのところの、二人でそれぞれ違う歌詞歌うやつ、そもそもそういうふうに作ってある曲が私はすごい好きで、しかもこの情緒たっぷりな曲でそれをやってくれるのでめっちゃすき。

でも、最後の「声」の手前で「おまえの」と「わたしの」が完全にかぶっちゃうので、そこはなにかアレンジがあってもよかったんじゃないのかな、と思ったりもしないでもない(・x・)

ちなみにこの曲の間だけ、五郎は薄緑じゃない刀をさしてます。鞘は黒で拵えが銀。
兄者は白い鞘に金の拵えなんだよね。
これもコメンタリーにもあったけど、このあと出てくるときは刀じゃなくて錫杖っていうか坊主姿だから刀はさしてなくて、さらにそのあと薄緑もらっちゃうから、五郎が兄者と対の刀をさしてるのって、兄者に見てもらえないこの曲の間だけなんですよね。
もちろん、薄緑をもらって行くのが、「膝丸が演じる」曽我五郎としては正しいっちゃ正しいんですけども。当然ながら兄は獅子ノ子や鬼切丸を帯びてるわけではないので、対比の美しさとしてはやっぱり兄の白い太刀弟の黒い太刀であってもよかったかなあ。でもまあ、そうなると兄のあのシーンでの微笑が見られなくなるのでそれはそれでうーん(>ω<)

あ、ちなみに、最初っからずっと二人ともつけてますが、ここで二人がそれぞれつけてるのがはじめて同時にはっきり見える、十郎が千鳥五郎は蝶というシンボルは歌舞伎ではお約束ごとのひとつで、もう千鳥といえば十郎、蝶といえば五郎で必ず二人の使う紋なのだそうです。

再会

瞽女の状況説明をはさんで、ここからSOGAは後半に入る、と私は考えてます。
成長した十郎と五郎が再会して敵討ちをなしとげるまでの、おそらくはとても短い、数日間ぐらいの話。

まず最初にどうしても言いたいんですけども!!!

五郎の般若心経が!!!!(>ω<)

めっっっっっっっっっちゃ声がいい!!!!!!(>ω<)

舞台上だと行深般若波羅蜜多までいったあたりで十郎に声をかけられちゃうんだけど。
あの、これ最後まで高野くんにとなえてもらってCDにしてくれませんか。
そしたら毎日聞くし唱えるし写経もする私(>ω<)
絶対めっちゃ功徳上がるわ。

じつはけっこう毎度、お兄ちゃんがいじわるしてその先へいくまで声かけないで待ったりしないかな、って思ってましたw だってほんと、その先ききたいんだ!!(>ω<)

しきふーいーくうくーふくいーしきしきそくぜーくうくうーそくぜーしき

って、

弟の!!!!! 声で!!!!!!!!!(>ω<)

いやほんと、めっちゃ読経に向いてる声だと思うんだ高野洸。

2019のコメンタリーによると、最初の数回はちゃんと覚えてなかったらしいけどw
でも基本的には経典見ながら唱えていいわけだし、300字弱ぐらいのものだし、大丈夫きっと彼ならできる(>ω<) ラップができるなら般若心経ごとき朝飯前だろう!(>ω<)

さて、話を戻して。

2019ではがっつりハグのあった再会シーン。
おのれソーシャル(ry
もちろんこのご時世だからソーシャルディスタンシングは大事なことだとは思うけど、ここはやっぱりがっつり抱き合ってほしかった(>ω<) BL的な意味を抜いたとしても、ここは抱き合うシーンだと思うんですよ。

2019は何かとあちこちで二人の仲良さを強調するためか手をつないだり抱き合ったりしててそれが違和感があるという意見も見かけたけども、でもやっぱりここだけは、抱き合ってほしいと思うんだ。

実際のところは箱根を抜け出した五郎は十郎を頼って十郎に助けられて元服して五郎を名乗るわけですけども、SOGAではこの場面で十数年ぶりの再会になるわけで。
こんなに互いを想い合ってる兄弟が、こんっっなにも真情こめて「会いたかったぞ、五郎!」「わしもじゃ! どれほど、どれほどこの日を待ちわびたことか!」って声を震わせて指の一本も触れ合わないとか、

ないだろう!!!!!(つД`)

白刃取りがなくなっちゃったのは、まあ、いいとしても。

せめて1回ぐらいは抱き合わせてあげてほしかった(つД`)

おのれソーry

箱根権現

そして、五郎が別当から薄緑をもらう場面。

ほんとになぜここでG線なのかはナゾですが、ほかのエントリにも書きましたけれど、ここ!

授けられた薄緑の美しさに感激する五郎を見守る十郎の!!!!!

慈愛の微笑みがほんっっっっっっっっっっとに素晴らしいんだよ(>ω<)

日によって揺らぎは多少あるんですけども、感激する五郎を見守るうちに、ああ、本当によかったなあ、ってしみじみ思うのか途中で笑みを深くする瞬間のね、兄者のね!!!!!(>ω<)

ほんっっっとあの微笑は世界の宝。

ほんとにほんとに、ライブ配信全部再配信してほしい。もっとちゃんと演技の移り変わりをきちんと認識して見守りたい。

そして円盤のバクステがほんとに楽しみ。なにかそういう話題が出たとことかうつってないかなコメンタリー次回もあったらなんか言ったりしないかな!!

巣立ちの舞

なんかもうあやなす音から向こうってもうどこもかしこも最初っからクライマックスなんですけども。

巣立ちの舞はやっぱり討ち入り前のクライマックスですよね!

というか巣立ちの舞に入るために必要なあそこ。

母上の、「そなたたちを勘当します!」

大楽で追加になった、上手側からのカメラがとらえた、それを言われた瞬間の二人の、わけても十郎の、驚愕と絶望とショックで放心しちゃった表情と、そこから力が抜けて床にへたりこむ流れ。

マジですごかった。

これは五郎がそれほどでもなかったってことじゃなくて、五郎もすごいんだけど、やっぱり母への思い入れって絶対的に十郎のほうが強いのがここでもわかるわけです。

ほかの誰でもない、この人に、勘当を言い渡されてしまった、という、もう十郎にとっては世界が終わったに等しいような絶望なんですよね。

これもほかで書いたことありますが、私は親子の情ってあんまり重いものだと感じられないので、自分が親に勘当されたとしてもあっそう、ぐらいにしか思わないとは思いますが。

兄弟にとって、母に勘当される、という状況がどれほど衝撃であるのか。

それを、ここまで明確に演技で見せられたら納得せざるを得ない。

背中を向けた母に、それでも必死に、絞り出すようにすがりついて、顔を見せてほしいと懇願して、それも拒絶されて、崩れ落ちて、たぶん声をあげて泣く気力もなくてすすり泣く、十郎の可哀想さときたらもう(つД`)

それでも、やっぱり、仇討ちは諦めないんですよ。

そこが男だよね。

そこはもう決めていて、それを母上には許してもらえなかったことだけが、今生の心残りになってしまったわけで。

まだすすり泣きながら立ち上がって立ち去ろうとして、せめて最後に母上に直接は言えなかった別れを告げようと、十郎は踊り始めるんですよね。

それを見た五郎は、何を思って自分が歌を引き受けたのだろうか。

歌ってる後半で、ものすごくつらそうに兄者を見るんですよね五郎って。
あれは、静かな表情で踊ってはいるものの兄者がじっさいは胸の中でどんな思いをしてるだろうかと考えての表情かなあ。

勘当されてショックを受けて五郎も泣いたけど、これも前に書いたことと重なりますけども五郎にとって母って兄にとっての母ほどには近い存在ではない。人生の大半は母のいない場所で過ごしてるからね。
むしろ「そなたの父上はもうおらぬのじゃ!」って叱って(たぶん幼児の受け取り方としては)意地の悪いことを言ったり、ずっと泣き暮らしてたのをようやく仇討ちという目標を得ることで立ち直ったところで自分だけ箱根山へ追いやられたり、むしろ五郎の人生にとっては障害になってきた人だったと思うんですよね。
だから、五郎は兄よりは早く、気持ちの整理をつけて、というか、整理がついて、立ち上がる。先に屋敷を出ていこうとして、兄がまだ、仇討ちは決めていても母への想いを完全には断ち切れていないのを見てとって、兄のために戻ってくるのかなと思います。

公演が後半に入ったころから、五郎の歌い方が変わって、この巣立ちの舞の場面での歌に母への思慕や幼い頃の思い出を懐かしむ柔らかさが感じとれるようになったんですが、舞う兄者を見るやるせなさそうな瞳は変わらなくて、やっぱり、五郎の中心にいるのは兄で、仇討ち=兄の望みをかなえることというのは変わってないのかもしれないなあ。

母に拒絶されたことは悲しい。勘当されたことは驚愕で、ショックでもあった。心も痛い。
でも、それ以上に、そのことで兄が傷ついていることが、五郎には何よりつらかったのかもしれない。

もちろん、しつこいけど、だからといって五郎にとって母はどうでもいいわけではなくて。とくに後半のころは、母の「仇討ち、立派につとめて参られよ」への「ありがたき幸せ!」は、ほんとに、母への感謝と愛が詰まってたと思います。

でもって、これも何度でも言うけどね!!!

「母上、・・・お元気で」

って十郎が言う時の、最後のころの笑みがね。泣いてるんだけど懸命に笑ってみせてる顔がね(つД`)

ほんとに十郎は母を愛してるんだな、最後に泣き顔じゃなく笑顔を残して行こうとして、懸命に笑ってるんだなと思うと胸が痛い(つД`)

巣立ちの舞を舞いはじめるところでも、兄者が微笑んだ回が何度かあったんですよね。大楽もそうだったかな、曲が流れはじめて、振り返って、歌い始める前のところ。
ほんとにつらそうな、でも優しい微笑でね。
やっぱりあれも、母に微笑んで舞を舞う自分の姿を見せたいと思ったのかな。

最初の五郎の歌が幼年期、五郎と交代して十郎が歌うのが成長してここへ来るまでの自分たちのことだとしたら、母上が合流してから二人でユニゾンで歌うのは今現在からこれからの自分たちのこと。
それは仇討ちへ向かわんとする決意でもあって、

さて、そのどこに母は父上の面影を見たのやら(・x・)

いやまあ、大きくなったね、っていうか、成長した姿を、とくに五郎の姿はそれこそ十数年ぶりに見たわけで、今まで子供としてしか見てなかった二人をはじめて成年男子として認識して、そこに亡き夫の面影を見たんでしょうけれども。

突如打ち掛けを着込んで踊り始めるくだりに関しては、歌舞伎もそこそこ観る友人によると「そういうもんだ」(とくになんの脈絡もなく踊りはじめるというのはよくあることだ)ということでしたが(・x・)

私も、なんにでも意味をこじつけて尊くなって死んだりくらっときたりとか、そういうのするのは決して好きなほうじゃないというか、むしろそういうのうぜえと思うほうではあるんですが。

にしてもちょっと、母上いきなりすぎませんか(・x・)

詳しいかたの考察ツイートによると、伝統芸能において赤い着物というのは未婚の女性が着るというか、未婚の女性であることをあらわすものであって、母上が着るのはかなり違和感のあるものだそうで、やはりなぜそこで赤い打ち掛けに着替えて踊るのか、ということについては違和感は拭えないということでした。
息子二人に亡き夫の面影を見たことで気持ちが若やいで娘時代に戻った、ということか?というような結論でしたが、・・・まあ、たしかにそのくらいのけっこう強引なこじつけをしないと解釈のしようのない感じです。

ていうか友人の言うように「そういうもんだ」(=たいして深く考えてないよ。適当だろ)である可能性もなくはないわけで(・x・)なぜバッハなんだろうとか。そりゃバッハは音楽の父とか言われててクラシックの中では古典っぽい位置づけだからなんか錯覚してたけど、よく考えたらたかが300年前の人でしかなくて曽我物語の平安末期って1000年前だぜ(・x・)

2019のバクステとか、あとほかのバクステでも時々演技に関してなかなかハードな指導をされてるとことか映ってることありますが、茅野さん場所によってはめっちゃ雑だったりもするし(葵咲本紀というか刀ミュにおける明石の扱いはほんとに雑だと今でも思う。CD出てテーマソングの歌詞一度聞いて二度と聞くもんかと思った。いや、作詞したのは茅野さんじゃないだろうけどなんであれにOK出す?)ほんとにたんに「なんか有名でエモいクラシック流すかーG線とかどう?」だったりするかもしれないし「ここで踊っとこうか。とりあえず2部は白だから1部は赤でいいんじゃね」とかかもしれない。

・・・まあ、できれば、そうではないことは祈りたい。

討ち入り~終幕

さて、ようやくここまできたよ。

討ち入りです。舞台全体のクライマックスです。

舞台というか物語というのはやっかいなもので、物語としてもっとも盛り上がる場面と、全体の流れの中でのクライマックスポイントであってほしいポイント、というのは、ずれることが往々にしてあります(・x・)
それをうまいことどんぴしゃ合わせるのが作る側の腕ということになるわけですが、そうならん時はどうやってもそうならんのでなあ(・x・)

ですが、曽我物語に関しては、だいじょうぶ、ちゃんとこの討ち入りから兄弟の最期までの一連の流れが物語面でもクライマックスになってます。
巣立ちの舞はめちゃくちゃ最高の名シーンだけど、あとに討ち入りを控えているからこそのエモさであって、その後の討ち入りから終幕までがかすんでしまうようなものではないので。

まず必見ポイントその1。

兄者のふともも。

エモいがどうこう語っておいてまずこれかというところはお詫びします。

でも、ここがまず第一でしょう!!!!!(>ω<)

祐経の陣に押し入って、ばん!と欄干に足乗せて!「ちはやぶる」の辞世の句をうたったあとで、スロープに足を踏み降ろす と こ ろ !

股立を取るというか、結ばないから実際には股立を取るわけではないんですけども、こう、袴の裾をぐっとたくしあげて、足を踏み出す時にね!

あにじゃのふとももが!!!!!

チラっとどーんと!!(なんだそれ)見えるのですよ(>ω<)

べつに跡部様やってればハーパン? 男子のあのテニスやる時の服ってなんていうのか知らないんですけども、腿なんか丸見えではあるんですけどね?

でも、本来は袴で足首まで隠れてる場所を!

本人が!

ぐっ! と袴をたくしあげてちらりと見せる!!!!

こーれーが! たまらんのですよ!(>ω<)

ちょっと前にも書いたようにSOGAは歌舞伎の演出をあちこちに取り入れてて、この辞世の句を詠むところもそうだし、この股立を取る動きも、たぶんそうですよね。
そのあとスロープを駆け下りて、名乗りを上げて見栄を切る。めっっっちゃかっこいい。

曽我十郎というのは歌舞伎では女形役者がやるような和事のキャラで、そういうところも兄者にはぴったりなわけですが、戦化粧なのか隈取なのか、2019のときはもうちょっとがっつり隈っぽく目の下にもラインを入れてたんですけど、今年は五郎との対比をよりはっきり出すためなのか目尻にちょっとだけと唇に紅を入れてるという、このなんとも艶めかしい色気(>ω<)

それでいて、強いわけです。決して姫じゃない。袖をからげて、取り囲む祐経の部下たち何人もを相手にひけをとらない。

「……来い(タメたあげくの超ドスきいた低音)」

くー兄者かっけぇ(>ω<)

一方の五郎もこっちは片肌脱いでがっつり隈入れて、もとからだけど袴の裾は脚絆巻いて押さえて、いかにもな荒法師姿。これも、五郎は荒事のキャラだそうなので、そのへんを引いてるわけで。

たしか2019のコメンタリーでも当人たちも言ってましたけども、五郎はわりと重くてどっしりした殺陣、十郎は逆に軽やかでジャンプを多用する殺陣なのも対照的になってて、対照的でキャラがよくわかるというのもあるけど、めりはりもついてすごく殺陣が華やかですよね(>ω<)

五郎をかばって祐経の矢を受けて倒れて、五郎を先に行かせたあとの兄者がまた超絶見せ場ですよねえ(>ω<) これも歌舞伎の、縄をかけられる演出。

右胸に刺さった矢を折って、2019では「来い」って凄んで口に咥えて戦うのが2020では背後へ投げ捨ててた、っていうかあとから2019復習したら初演は咥えてたのかー、ってなったんですけども。
絶対、咥えてる状態で縄演出のほうがかっこいいじゃん!!!(>ω<)

と思ったら。

兵庫はつけてなかったけど舞浜はフェイスシールド着用での上演だったんですよね(・x・)

私舞浜の初回は現地だったもんで、最初なんか口元あたりが光反射してて、は?なに?えっ??まさか??ってなってたらよくよく見たらやっぱりフェイスシールドで、当初ものすごく腹が立ったんですね。
直前に別公演で罹患者が発生してしまった騒ぎがあって、だから舞浜から急遽フェイスシールドを強要されちゃったのかな、って。
えーとその、私は自分もいちおうは創作をするし、表現をする人間で、かつ、けっこう「権利や自由を侵害される」ってことに自分がものすごくかちんときちゃうタイプなんですね。
だから、じっさいには不要な「念のため」とか忖度とかちゃんとやってますよという意味のないパフォーマンスのために、表現の自由が侵害されるっていうのはすごい腹が立っちゃうんです。
今回のこの舞浜のフェイスシールドもそれなのかなって思ってすごく憤ったんですよね。

でも、あとになって考えたら、舞浜ってたしか今回に限らずなにか別の公演でも観客全員絶対にフェイスシールドだった会場で、1席あけで販売した上に最後方の席でさえ絶対にフェイスシールドつけろって会場なんだから、板の上に乗る演者にだってフェイスシールドの着用求めるよな、って。

で、そこまでいって、そうか、今回兄者が矢を咥えないのは兵庫ではナシだけど舞浜でフェイスシールドが入るからだったんだなあ、って、やっとそこがつながって納得したわけです。
もし、舞浜もフェイスシールドなしがそもそもの予定だったら、たぶん、矢は咥えたと思うんだよね。矢咥えてる兄者マジでものすごい色気だもん。

で、フェイスシールドじたいも、その後の配信でよく見ると私らがつけさせられたりたまに街なかで装着してたり販売されてたりするような機動隊の盾みたいなやつじゃなくて、ほんとに最小限口元を覆うだけみたいなタイプで、しかも初回2日めぐらいはけっこう歌う時に音がこもったりとかもしてたけどなんか数日うちに音響さんが慣れたのか少しシールドじたいのつけかたとかを変えたのかほとんど声というかマイクに入る音にも影響を感じなくなって。

微妙につけかたの角度の違いとかあるのかけっこう口元が曇ってた回があったり、あとそれこそ討ち入りのシーンの五郎はもう、最後シールドぐっちゃぐちゃになってたけどw まあ、あれだけ激しい殺陣やって叫んで、ってやってたらそれはしょうがないよね(・x・)
でも、フェイスシールドを全編してたにしてはそれがほとんど気にならないようになってたのほんとにスタッフさんの進化と、あとはたぶんつけてるほうも呼吸のしかたとか工夫してたと思うからそのへんほんとすごい。

ええと、で、兄者が矢を咥えなかった話からフェイスシールドに脱線しましたが、兄者ここでも「来い」って凄むんですよね。

どうもこの繰り返しがやや私は気になってて。

五郎も、このあと祐経との対面から戦闘になるんだけど、最初に祐経に弓で狙われて矢をよけた(てかこれも3回めだよね父上の時とさっき兄者にかばってもらったけど五郎を狙った時と今回で。ちょっとワンパじゃないですかね祐経どの)あと「祐経どの!お命頂戴仕る!」って言って、そのあと最後に兄者にとどめを刺せって言われた時もあらためて「祐経どの!お命頂戴仕る!」ってもういっぺん言うんですよね。

その繰り返しが果たして繰り返しの美の範疇に入るのかというと、どうも私には「えーそれもう見た」感があってですね(・x・)

いや、兄者の「来い」はめっちゃ色っぽい上に鬼気迫っててすっごくいいんですけども!

でも、だからこそ、ここぞというところで使ってほしいわけです。

だったら最初に雑魚に囲まれたとこは別のせりふでよかったと思うし、五郎も、最初(2回め)に祐経の矢をよけたところでは「お命頂戴」は言わないでなんか別のせりふにしてもよかったんじゃないのかしら、と思ってしまうのです。

まあ、これは自分が、意図して重ねるのは別として無意識に同じ表現を何度も使ってしまうということに抵抗があるからだとは思うんですけども。

祐経を倒すまでの流れも、ソーシャルryで2019とはまったくちがう展開にしてましたね。やっぱり制約のない2019の、五郎をかばって自分が斬られた兄者がそのまま自分の体にさらに祐経の刀を深くめりこませて抜けないようにして五郎に斬らせる、というほうがドラマティックではあったかなとは思いますが。
でも2020の、じつに都合よく(笑)祐経が切り落とした支柱を兄が槍に使って致命傷を負わせて、五郎に止めを刺させる、というのもこれはこれで熱い展開だったと思います。その手前で兄者が祐経に右手を斬られて刀を落としてしまう、つまりもう十郎には祐経を「斬る」ことはできない、っていう前フリというかその場へ持っていくための段取りもきちんと段階を追って用意されてたし。

ただ、やや違和感があるのは弟が祐経に最後のひと太刀を浴びせたあとで、兄弟が揃って納刀して祐経が死ぬように祈るような演出になってたことかな。自分たちの力で倒すんじゃなく、斬ったあと相手が死ぬかどうかは神頼み、みたいな演出はどうなんだろうとちょっと。2019の時はあのお祈りの演出はなくてふつうによろよろ階段をあがっていった祐経が下手奥の、父上も入っていった冥府の入り口的な出口から退場して、それでおさまったと思うんですが。
あれも歌舞伎の型てきな流れのものなのかなあ。ほんとこういう時、自分の教養のなさ浅さに辟易しますね。知ってればもっと納得もいくだろうに。

ところで、この最後のお祈りのシーン。

大楽だけ思ったことがあります。

えっ、兄者の着物、背中濡れてる(・x・)

いや確かに、大楽の討ち入り後の殺陣、今までになく高く跳んでるなあ、やっぱり大楽だし気合い入ってるんだなあ、と思ってはいたんですけども。

ちょっといまいち思い出せないんですが、あんなふうにあのお祈りのシーンで兄者の着物の背中が汗に濡れてたことって、なかったと思うんですよね。兄者の服は五郎のと名前の上では同じ青でもうすい青で、五郎の濃い青の服より絶対、濡れてればめだつと思うんですよ。
汗をかいてないというわけでは、もちろんないでしょうけれど、そんなにぴたっとした服じゃないし、めちゃくちゃびっしょり汗をかくのでなければ、そこまで濡れないと思うんですよね。

どんだけ大楽がんばったの三浦くん(>ω<)

いや、ほんとにそれも納得のジャンプの高さと激しい殺陣でした(>ω<)


さて。

そして、ついにラストシーンがやってくるわけですが。

祐経が死んで、二人とも力が抜けて倒れ込んで、やったな、五郎、ああ、やったな、ああ、って笑いながら言い合って。

そして、立ち上がった兄者が血を吐いて倒れる。

ほんととくに兄者よくここまでもったよね。
五郎かばって右胸に矢を受けてまだ鏃入ったままのはずだしその状態で縄かけられてその囲みを破って脱出して(さらにその過程でも右肩斬られて)、分銅つき鎖にからめとられて斬られた五郎を助けて合流して二人がかりで祐経と戦って、祐経にも右肩斬られた上に右手も斬られて、もう兄者の右半身完全に瀕死のところを五郎を助けにもう握れなくなった右手のかわりに左手で刀持って割って入って右脇ぐっさりやられて、それでも竹槍に全体重のっけて祐経を貫いたわけで。
まさに仇を討つというその一念だけでここまできてるわけで、祐経が果てて、そりゃあ気がゆるんだら血も吐くよな(つД`)

だいたいが配信で見てるわけですからついに血を吐いて倒れた兄者はアップになるわけで。

バミりが見える(・x・)

でもって、そのバミってある位置にたぶん肩があるのが正しい位置のはずなんだけど、日によってはやっぱりほらその、ずれが生じるわけで。

そして三浦くんは血を吐いてよろめきながらそこへ倒れ込むので、だいたい、バミリより外に倒れちゃうんですよね。内側はバミりに気がついてからは見たことがない。

あ、兄者そこちょっと遠い(>_<)って思うと、最後の力尽きた手のあいだの距離がな(>_<) いつもよりちょっと広いんだよね(>_<) あれは切ない(>ω<)

倒れ込んで、もう動けなくなって、兄者はでも、「よくやったぞ、五郎」って笑って。

地面を、あんまり力の入ってない拳で、叩く

・・・のを、最後の2回か3回は確認したんだけどあの動作それより前にしてたっけか?? やった、やったぞ、って地面ばんばんってする気持ちはすごくわかるんだけど、あれって最初のころやってた??

だからライブ配信を全部もういちどry

そして兄は雁の声を聴くわけです。

この時はもう明らかに目見えてないよね(>_<)

再びの雁が音をとぎれとぎれに歌って、五郎のほうへ手をのばして。

父上、の

って呟いて、こときれる。

そう見えない時もあるんだけど、そこはもう日ごとの差で、ただ、ふっと逝ってしまうだけでもやっぱり美しいんだけども。

この時に、はっきり口元に微笑が浮かんでると、最高に美しい。

完全に満足しきった、本当に本当に幸せそうな笑みなんですよ(>_<)

もう何一つ思い残すことのない、美しく清らかな笑みを浮かべて、兄は死んでいく。

そして、その兄のこときれる瞬間を、弟は目の当たりにするんです。

その瞬間の絶望の表情たるや。

実際には襲撃は5月で雁の飛ぶ季節ではない上に夜にも飛ばないし当夜は雨だったので、雁は絶対に飛んでない。
おそらく兄弟はどちらも失血で目はもう見えなくなっていて、そのせいで雨の音を雁の羽音と聞き間違えたんだろう、という考察をいくつか見ます。

でも。

十郎は確かにもう倒れた時点で確実にこれは見えてないな、って視線になってて、五郎の方へ手をのばすのも、はっきりそこに五郎がいるとは認識してないんじゃないのかな、って感じはあるけれど。

五郎は、すくなくとも十郎がこときれた瞬間を自分の目で見てる。

見て、はっと息を呑んで目を見開いて、兄者あーーーっっ!って慟哭するんですよね。(このへんで「兄上」って言っちゃった回があるらしくて私観てた日かどうかわからないし観てたとしても気がつかなかったからライブ配信で流したやつをもう1回ry)

あれはちゃんと自分の目ではっきり見たからこその慟哭だと思うのです。
というか、そうであってほしい。
だからこそ最後のほうのカメラはこときれた兄上とそれを見てはっと目を見開いて絶句する五郎を二重写しにしてたと思うんですよ。
気配だけで兄の死を理解しただけじゃ、あそこでのあの血を吐くような絶叫って、出ないと思うんだ。

まあ、そのあとで失血でもがっくりきてでも、それで目が見えなくなってもいいんだけど。
五郎が雁の声を聞くのはそのあとのことだし。
でもさすがにそれはなんかちょっと、ご都合すぎる気もしないではないので。

私としては、本当に、二人は、何かを錯誤して聞いた気になって勘違いしたまま死んでいったのではなく、あの幸せだった幼い日に聞いた雁の声を、それぞれが同じように心の中で聞いたんだと、思いたい。
まだ父上が生きてて、東の空にうかぶーつーき、あれはじゅさんにちめのつき、って母上と歌った、あの日の雁の羽ばたきを、きいたのであってほしいと思います。

十郎が「空耳だろうか」と歌って、五郎が「空耳ではない」と歌うのは、実際に五郎が雨音を羽ばたきに聞き間違えて空耳ではなかったぞ、と兄者に教えるために歌った、というよりも、兄が「空耳だろうか」と言ったのを受けて、五郎にもあの日の雁の声が聞こえて、もう聞こえなくなってしまった兄に「空耳ではない」と答えてあげた、と、私は思いたい。

こういう解釈には正解ってないし、たとえ演出家が自分はこういうつもりでここのシーンをこう演じるように指示を出したと言ったとしても、受け取る側が俺はこう思った、こう受け取った、これが俺の解釈だ、って思うならそれがその人にとっての真実だと思うので。

私の解釈は、兄弟はあの日の雁の音を聞いた、にしときます。

五郎が再びの雁が音の最後を歌って。

あれは、きっと。

父上と、母上と、そして、われ、ら、の

と兄に最後の力で手を伸ばしながら呟いて、そこで果てる。

最後の日まで、結局手は届きませんでしたね。

ここで、十郎の最後の言葉が「父上の」おそらくは「仇(を、あるいは、が、ついに討てた)」であったことに対して、五郎の今際の言葉が「我らの」だったことが、またなんとも対照的かつ象徴的です。

そこまでは、常に「我ら」と言ってたのは兄だったのに。

五郎のほうが荒々しく敵に向かっていくタイプだったのに。

結局やっぱり、兄は最初から最後まで仇討ちのことだけを何よりも強く思い定めていて、弟にとってはやっぱり最後に脳裏に浮かんだのは兄と自分のことだったということになるわけで。

それを思うとなんとも胸に沁みるものがあります。

もうひとつ対比があって。

兄が透明な、本当に満足げな美しい微笑を浮かべて、まるで光に包まれたかのように死ぬのに。

弟は、もっともっと泥臭く、なんというか、リアルにというか、白目を剥いてがくりと事切れる、ように死ぬんですよね。

兄は結局はずっと仇討ちの理想を見ていて、弟は現実の自分と兄を見ていた、とか、そういうふうにもとれるかもしれません。

2019では十郎は五郎の腕に抱かれてピエタ状態で絶命して、その兄を抱いたまま五郎もついに力尽きて折り重なってこときれるんですが。

どっちも美しいしアリだと思うけど、どっちがよりこの兄弟の最期にふさわしいか。純粋に演出という目で見るなら、ソーシャルディスタンシングの結果のほうが甘えがないというか、そりゃあ兄と弟には抱き合って手をつなぎあって黄泉路へ旅立ってほしいという願望はあるけれど、効果という意味でみると手が届かないまま、というほうが美しいような気がします。

エンディングと

最後に二人をさがしにきた母上がひとくさり嘆き悲しんだあと瞽女に戻って二人を人形に戻して終わるわけですが。

前にもちょっと書いたことがありますが、私は、自分が親と子の関係にあまり思い入れがない上にせっかく兄弟がそれこそ瞽女の言葉じゃないですが美しく気高くこときれたところに母上が出てきてああだこうだ叫んで嘆いてむだにうるさく騒ぐっていうのは蛇足じゃないかなと思うので、最初から瞽女で出てきて「さて、それも今となっては詮無き話」につなげてもよかったようにも思うんですが。

入手した曽我物語の本の前説部分に、曽我物語は女の物語だという部分があってですね。

兄弟の母である満江御前は、本来であれば夫を弔って出家するなり後を追うなりするのが当時としては常識だったのに兄弟を育てる必要があるがゆえに曽我太郎に再嫁しなくてはならなかった。兄弟が死地に赴くのを送り出さなくてはならないのも母で、SOGAには出てこないけど十郎の愛妾である虎御前もその後二人を弔って、かつ二人の物語を語り継いだと言われていて、つまり、これは兄弟の仇討ちの話であると同時に男たちの美学に振り回される女の涙の物語でもある、という記述でした。ついでに、この物語を語り継いだのは虎にはじまってその後も瞽女によって語られたらしいので、そういう意味でも女の存在が必須の物語だ、と。

まあ、有名な本のようですし、「宇多天皇に十一代の後胤」のフレーズもそのまま紹介されててじっさい茅野さんもこれはごらんになってるんだろうなあと思うんですがw だから、加納さんは随所で過剰すぎるほどに母の悲しみを嘆いてみせたのかなあ、と思わないでもありません。
もっと現実的なことを言うなら母がそうやって伝統的な表現にのっとってよよよと泣き崩れてる間にうしろで兄弟が呼吸を整えて水を含んだり着替えをしたりして次の場面の準備をする時間を稼いでるわけではありますが(笑)。

ちなみに瞽女かつ母の加納さんですが、・・・めちゃくちゃ噛みまくってましたね(・x・)
今日は噛まなかったな、って思ったの、たぶん兵庫初日と兵庫の楽だけだったような気がします。大楽もいくつかせりふ落としてました。
・・・のわりに、そのことを話題にしてる人ってTLでは見たことがなくて。
みんなやさしいなあ、見て見ないふりしてあげてるのか、それともいちいち台本とせりふがあってないんじゃね?とか気にするのは私がアスペで正確性に強烈なこだわりがあるせいか?とか思ったりもしたんですけれど。

よく考えてみると、現地鑑賞した日に、瞽女あるいは母上が噛んだかどうか私まったく記憶してないわ(・x・)

そういうものなんだね、たぶんね(・x・)

気にするしないっていうか、それどころじゃないんだな(・x・)

でもって、まあ、もちろんのことどれも似たような感じの説明せりふということもあるとは思うんですが、そうやって加納さんが噛みまくってたのに対して、すくなくとも私が観た限りでは一度もミスらしいミスをしなかった三浦くんと高野くんが、

むしろ、すごくね?(・x・)

ていうか、私2.5もちろんそんなにものすごくたくさん観てるわけではないんですけれども、基本的にほとんど、役者さんが噛んだところを観てないと思うんです。

いちばんそれらしいところで、まんばのおはげのうたげですかね(・x・)
あれはものっそ染鶴につっこまれてネタにされてたからむしろ楽しい言い間違いでしたし、そもそもが日替わりのお笑いネタだったので噛んでもぜんぜん問題なかったと思うし。
それとあんステでやっぱり日替わりのあとでまんばじゃない凛月がせっちゃんとなっちゃんを言い間違えてつっこまれてたっけ。どっちもまっきーじゃんw

あと、舞台じゃないけどサクセス荘の2のどれかで小西くんが見事にとちってせりふ言い直してたのがあったかな、ぐらい。

双騎でとちりっぽいものを思い出すとするなら、言いにくいのか演技なのか、あたまのほうの一万の「ははどりが、ひなの、せわをしているのをみて」の、「ひなの」のところがいつもちょっとたどたどしいんですけど、そこを大楽でちょっと三浦くんがいつもとイントネーション違ったというかひっかかって間延びしたとか、討ち入りの、二度めの「お命頂戴」のとき、なぜか高野くん何度か「祐経との」って言ったなあ、とか、せりふは、私が観た15回の公演の中ではそのくらい。はっきりまちがえた、噛んだというとこはなかったと思います。

せりふじゃない部分だと、巣立ちの舞で弟が扇子をうまく懐のポケットに入れられなくてそのあとの兄者とのユニゾンの踊りに入れなくて遅れたことが一度。どうやらその後ほかのかたのレポツイをあさってたら兵庫でも一度、やっぱり扇をしまえなくて遅れたことがあったらしいです(笑)。
それから、五郎と十郎の再会のシーンで、兄者が納刀しそこなったのが1回ありました。刀をおさめる動作をしたあとで、話しながらもう一回鞘におさめてたw うまく入らなかったなww とおもってみてましたが、べつにまあ、それで芝居がひっかかるようなことはなく。
納刀でいうなら二部のほうですけどいっぺんお膝がテーマ曲の最後で納刀しそこねて抜身で持ったまんま最後のおじぎをしたのがあって、兄者が獣で脱ぐ時に身八つ口に腕が入っちゃって肩出せなかったとか、EndlessNightで手袋つけるの忘れてきた時があったとか、アクシデントはちょこちょこあったのかなw
でも、それと、芝居の時にせりふをまちがえるのはやっぱりちょっとちがうと思うし、そういうのは別にありっていうか、手袋とかしててもしてなくても歌が変わるわけじゃないしね。

せりふ間違える、ちょっとひっかかる、噛むとかも舞台では往々にしてあることだし、つねに100パー完璧にやれとは思ってないので、瞽女もべつにいいんですが。回数見すぎて間違えた回数もすごかったから気になっちゃっただけで、今も書いたようにむしろまったく間違えたところを思い出せない高野くん三浦くんがすごい。

思い返すに、わりとせりふを噛むのって助演のナレーター兼務の役者さんのことが多いような気がします。やっぱり伝えないといけない情報が多くて難しいんでしょうねN的なせりふって。


さて、瞽女の締めのひとくさり。残された者にできることは二人の物語をのちの世まで語り継ぐこと、というやつ。

あれの最後のフレーズが「令和の世で(も?)」だったとようやく理解できたのは現地で聞いた時だから6回め? いや間に2019を2回か3回見てるから10回めぐらいかww 長かったわ(・x・)

またG線が流れて、瞽女の手下軍団に操られて再び十郎と五郎は人形になる(髭切と膝丸(の人形)に戻る)わけですが。

ここはなんか逆な気がしてしまいます。

今まで板の上にいた、十郎と五郎のほうこそが生きていて、苦難と激闘の末についに悲願を果たしてこときれた彼らを、瞽女とその眷属が人形にして保存して、そのまま何年も何百年も、それこそ令和の世どころか2205年まで語り継がれて、髭切と膝丸が刀剣男士として顕現する際の依代に使われたんじゃないか、みたいなねw

最初にも書きましたが2部MCでの「僕らはさっき、曽我兄弟を演じたわけだけど」はちょっとおいといて、あの十郎を兄者が五郎を弟が「演じた」にしてはやっぱり何かそうじゃない感がどうしてもあるので、逆に彼らの姿を保存したあの人形こそが髭切と膝丸の原型となったのだと思うほうが個人的にはしっくりくるかなー、と思います。

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ディレイ配信も終わっちゃって、次は写真集がたしか年内ぐらいに出て、2月に新曲のCDが出て、円盤の発売はいつですかね2021年としかまだ出てなかったような。その後アルバムが出るはずですが、円盤の直前か直後ぐらいにたぶんWOWOWで放送があって、そのあとdアニメに入る流れでしょうか。
再び動く兄弟が観られるまでにはだいぶ時間があります。
というか来年は、再演の再演なり新しい双騎なり、兄弟が揃って出るミュや乱舞祭はあるんでしょうか。壽音楽祭は、兄の中の人がモンティ・パイソンなので弟のみの出陣で(弟も日程の半分)、二人は揃わないのでちょっとさみしい。

ロスというほどでは、たぶん、ないような気はしますが、巣立ちの歌は2019のCDのほうだというのにこっちが聞いたタイミングによっては聞きながらまだ職場の休憩室にいても号泣できて相当自分が気持ち悪いですが、ほんとに、なんだって私はここまで双騎と兄者が好きになっちゃったんでしょう。いまだに理由はわかりません(苦笑)。

私は兄推しで、でももちろん弟とセットでいてこそあの兄の兄らしさが輝くので弟もいてくれないと困るんですけれども。

初演の双騎のライビュを観た時、再演の発表があってとなりの席にいたお嬢さんが突如号泣しはじめて「よかった・・・卒業じゃなかった・・・よかった・・・」って泣きじゃくってるのを見て、そんなに好きになれるってうらやましいなあ、と思ってたんですけども。

うん。私も今三浦くんが万一兄者卒業とかなったらめちゃくちゃ取り乱す自信あるわ(・x・)

もちろんこういう作品なのでキャス変はサイレントにせよそうでないにせよあることではあるんですけれども。

でも、どうやってもその人にしかできない役、というのも存在すると思う。

刀では、私はそれはミュの源氏兄弟と、あとステのわだべとまんばだと思ってます。

演技力があるだけあってどの子もどんどん忙しくなっていくだろうけど、でも、これだけは作品が続く限り、出演し続けてほしいなあ。

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まあ、1万字ぐらいはいくだろうから1部と2部は別記事にしよう、とは、書き始める時点でおもってはいましたけど。まさか2万字余裕で超えるとは思わなかったねwwww 2日かかったわwwwwww

平日にはとても今の状況だとこういう分量のものは書けないので、2部の話は、また次かその次の週末あたりに。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。
おつかれさまでした(>ω<)

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