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フレディ・マーキュリーの歌詞と音楽と人生〜もうひとつのクイーンの聴き方

 このエッセイは1992年、クイーンのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーのファンクラブ "MZ" が、前年の彼の死去に伴い制作した同人誌 "Mercury" のために寄稿したものを改稿したものです。

 当時私は27才。作曲の仕事を始めて4年目の頃でした。クイーンの音楽に大きな影響を受け、フレディの死に大きなショックを受けた私は、ある音楽雑誌を通してこの "MZ" (Mercury of Zanzibar) のメンバーが主催するイベントに参加し、この同人誌制作に参加しました。その後MZは、FMA(Freddie Mercury Association、フレディ・マーキュリー協会)として再編され、私も企画部会長として、仕事のかたわらチャリティ活動などを通じてエイズ基金を捻出する活動を約10年ほど続け、当時のクイーンのCDのライナーなどに基金の寄付先が掲載されるなど小さな足跡を残しました。インターネットの時代が訪れ、FMAは2008年その役割を終えましたが、今なお日本で広がるクイーンの人気を支え続けてこれたことに、ちょっとした嬉しさと誇りを持っています。

 当時はワープロさえなかった時代で原稿も手書きでした。いつか文字興しをしなければと思っていましたが、近年の技術の発達で、コピーした画像データをあっという間に文字化できることを知り、昨日あっけなくデジタル化に成功。オリジナルの文章は若さ故もあり相当とがっており、とても恥ずかしいものだったので、マイルドにリライトさせていただき、ここにあらためて公開することとしました。

 クイーンの音楽を愛する方とこのエッセイを共有し、より深くクイーンを知っていくための一助となれば嬉しいです。


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「”Bohemian Rhapsody” はいい曲だけど、いまだに僕自身理解できない歌でもある (笑)。今は、聴く人にすぐ分かってもらえる歌を書きたい。『アイツは、なんでこんな歌を作るんだ。これを聴くと、あの時の痛みを思い出すよ』って具合に、リスナーの誰もが一度は経験していることを歌うのが、今のフレディ・マーキュリーなんだ」
(ライブ・アット・ウェンブリー・ライナーノーツより)。

これは1985年に、評論家の今泉恵子さんがフレディに聞いたインタビューだ。フレディが死んだ日 “Innuendo” アルバムを聴き直して、隠されていた歌詞の内容に初めて気が付き、死去のニュース以上のショックを受けた。私は、彼が死ぬまで、彼のゲイ的振る舞いはプロとしてのステージ・パフォーマンスなのだと思っていた (エイズの噂は “Miracle” の時から聞いていたけど)。多くのゴシップ記事が語る内容を初めは信じられなかった。フレディは私にとってずっと「奇跡の音楽家」だったから。
実家へ戻って中学、高校の頃集めていたクイーンの本をもって帰り、もう一度じっくり読み返してみる。当時読み飛ばしていた彼の少年時代、デビュー前の人間関係を整理する。そして、はっと気がついた。そうだったのか。なぜこんな当たり前のことを今まで理解できなかったのだろう・・・。「彼は常に歌に自分を反映してきた」のだ!
私だけでなく、多くのリスナーや評論家が主観的な音楽的嗜好中心に評してきたクイーンとフレディの音楽性。彼の立場に立って彼の音楽を聴いてみると、いかに評論家達が勝手な評価を下していたかが分かるだろう。もちろん、主観的判断で音楽を聴いて好き、嫌いを判断するのは、私達の自由である。しかし、彼の音楽を真に理解しようと思ったなら、制作者サイドで作品を見直す姿勢は避けて通れぬ道である。

人生と音楽を語るのであれば、私自身のことにも触れざるを得ないだろう。バンドを始めたばかりの中学2年の秋、FMの特集番組を通してクイーンと出会った。フレディの完璧な音楽性に度肝を抜かれ、図々しくも彼らを「同じ時代に生きるライバル」として、自分も音楽の道に進みたいと思った。”'39” やりたさにフォーク・ギターを買い、”The Prophet's Song” やりたさにエコー・マシンを買った。ピアノは高校1年から始め、音楽科のある大学へ進んだ。高等和声を学ぶため、アメリカの大学へ留学した。私の人生は、クイーンによって確実に変わった。1987年作曲家を目指して単身上京、なんとか仕事を見つけ、今に至っている。アーティスト・デビューを目指し、30曲以上も曲を書いた。が、何かが足りない。どうしても「血の通った」曲が書けない。それが、ずっと分からなかった。フレディがアルバム “Innuendo” にちりばめたものを、その死によって知った時、遅まきながら気がついた。私が今まで追ってきたものは、クイーンとフレディの「外面」にすぎなかったことを。彼が表現しようとしていたものは常に「その時彼がどう思い、どう感じたか」であって、転調がどうの、曲展開がどうの、コーラスワークがどうのといった音楽性は単なる表現形態だったのである。

EL&Pは3人のテクニシャンによってクラシック・ジャズ・ロックの融合を試みようとした。ピンク・フロイドは人間の無意識に潜む感情一孤独や恐怖心を表現した。イエスは自ら創作した様式美の中に、人間のかかえる哲学的命題を拡散させた。こういったミュージシャンとしての一貫したコンセプトが、クイーンにはない。ない、と 断定してしまうと誤解もあるので補足するが、ブライアンが何よりもこだわっていたのは自らの音色とオーケストレーションであったと思うし、ロジャーはとにかくパワフルなロックンロールをやりたかった。ジョンは自らのテクニックがバンドにどのように貢献できるか、を真摯に求めていた。そしてフレディは常に自分達の音楽で「人をあっと言わせたいのさ」。これらの統合体がクイーンの、いわばコンセプトであったのではないだろうか。それが由にイギリスの音楽評論家達から「彼らは軽薄で商業主義だ」と非難されてきたのかもしれないし、それが故に彼らの音楽は時代を超えて残り続けてきたのかもしれない。

ロッキング・オン誌の何月号か忘れたが、アルバム “Innuendo” についてのレビューが載っていた。「フレディは自分の人生をもパロディ化した。彼の作品は彼の創り出す虚構の産物であり、その主人公にひたり切ることで、そこにのめり込んだファンのみを魅了する。私はそれにハマッた」というような主旨の文だったと記憶している。ある意味では正しい分析である。しかし一言いわせてもらう。「パロディ」はないよな。彼は楽曲に自分の人生を投影したのであり、彼がその時感じていたことを一般化し、 作品へと昇華していたのだから。「僕は少しずつ狂っていく」(“I'm Going Slightly Mad”) は正真正銘の命の叫びであり、これをパロディと呼ぶのはあまりに彼の生き様を茶化す行為じゃないのか?
最近クイーンの表面的な音だけ丸パクリしてヒットを飛ばしている邦楽アーティストを見かけるが、なんだか見ていて正直痛々しい。クイーンを極めるには、ミクロレベルでの音の特徴はもちろん、作曲、アレンジのインテリジェントさと、人を驚かすアイデア、そして魂の叫びが必要不可欠だからである。

とにかくクイーンの創り出した音楽はひとつの「ジャンル」といえる程オリジナルなものであった。その中でも他のアーティスト達とは一線を画す特徴の一つに「めくるめく曲展開」というのがある。AメロBメロサビ、という鉄板様式を避け、短い間にモチーフを次から次へと〜時にはテンポも変えてまで〜贅沢に使いリスナーをあっと驚かす。
「人を驚かす」展開というのは、「起承転結」の「転」という、時間と共に展開する芸術の醍醐味。これを軽薄だと揶揄する人は、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『スティング』のような「ジェットコースタームービー」も嫌いな人に違いないはず。
私がクイーンの音楽性を代表する1曲を挙げるとすれば、ためらうことなく “Princes Of The Universe” (プリンセスでなくプリンシズである。注意!)にする 。4分もないこの曲が、次から次へと展開していく様は背筋がゾクッとするほど素晴らしい。こんな展開の曲を他に知らないし、これはまぎれもない音楽革命ではないか。

Princes Of The Universe


ちなみに私のクイーンのフェイバリット・ソングは “The Prophet's Song”。8分という長い曲であるが、中間部に潜むある「しかけ」とそこに至る精巧な曲展開のおかげで、何度聴いてもその崇高さにひれ伏してしまう。

The Prophst's Song


私事で申し訳ないが、私が1990年に書かせていただき、イメージ・アルバム『魔狼王風雲伝』(東芝EMI :TOCT-5897)に採用された「ファンタジア」という楽曲で、このクイーン的な「めくるめく曲展開」を大胆にこだわって取り入れてみた。興味ある方はぜひ聴いてみていただけると嬉しい。

ファンタジア/矢尾一樹


フレディの人生と音楽のことに話を戻そう。初期の2枚におけるフレディ(とそれに触発されたメンバー)のコンセプトは「ファンタジー」である。ドラマティックな様式美の中に、イギリス中世の文学の要素を入れ、古典文法を多用して大仰に雰囲気を盛り上げた。この点においてイエス、ジェネシスの影響あり、とマスコミは評する。

偉大な王ラット、汚らわしき者なりき
(“Great King Rat”)


だが、マスコミの集中豪雨のような攻撃を浴び、彼らは表面的にそ知らぬ顔をしていても、内心かなりショックだったに違いない。ただでさえ「オカマ」のイメージ (ご存知のように、“QUEEN”はスラングで女役のゲイを指す)があり、生意気でインテリジェントな彼らである。「売れないんなら、この道を捨てよう」とあっさり決断してしまうところが「クイーン流」。これがまたトラッドなロック・ファンには耐え難いことなのかもしれない。客観的に見ても、ファンタジックな “Seven Seas of Rhye” の次のシングルが娼婦の歌 “Killer Queen” となれば、彼らは自分達のポリシーがないのか、と思われるのもうなずける。だが、それは所詮理屈である。”Killer Queen” はとにかく美しい曲だった。
この、舞台設定を現代にした「ファンタジー」のヒロイン、“Killer Queen” と呼ばれる売春婦こそ彼らそのもののことである、と仮定してみると、不可思議な歌詞の謎がピタリと解ける。「僕たちはクイーン、音楽性なんていつでも変えられる。そしていつでも君のことを吹き飛ばせるのさ。音楽に身を売った、華麗なクイーンをあなたも試してはいかが?」と聞こえてくるはずだ。

めんどうを避けるため
彼女は決して同じ住所にいない
(“Killer Queen”)


「僕は音楽の売春婦さ」とインタビューで答えたフレディ。”Sheer Heart Attack” アルバムのレコーディングは、ブライアンが十二指腸潰瘍の手術の最中に行われた。アルバム・コンセプトはブライアン抜きで詰められたのかもしれない。フレディよりは若干様式にこだわりを持っていたブライアンがいなかったおかげで、あのアルバムは過去と次回作を分ける「転身」が計れたのかも、という仮説。古典を振りかざす大作主義から、バラエティに富んだ華麗なるバンドへの変化、そして次のアルバム “A Night At The Opera” は、アルバム作りがブライアンからフレディ主導になって生まれたのかもと妄想したりしている。

もう一つ “Sheer Heart Attack” におけるフレディの歌詞についてだが、やたらとお金にまつわる歌が増えてくる。

金もうけの機械を使い、君を誘惑する
まったくのうそっぱち(大金、ゴッソリ)
君を偽札造りの機械にしたあげく 最後のグッバイ
これは略奪だ
(“Flick of the Wrist”)


90ドルの微笑をもつダディ・クール
感謝も忘れて僕の金を盗り
さっさと街を後にした
(“Bring Back that Leroy Brown”)


僕の金、君が話したいことのすべて
(“In the Lap Of The Gods – Revisited”)


これは “A Night At The Opera” にまで影を見せる。

あんたは俺の金を全部奪ってまだ欲しがってる
(“Death On Two Legs (Dedicated to...)”)


この曲が捧げられている人物とは、トライデント社社長、ノーマン・シェフィールド氏のことだといわれている。クイーンが最初にマネージメント契約をした先は、最新鋭の録音スタジオを経営するいわゆるハードウェア会社で、アーティストのマネージメントというソフト管理は初めての試みだった。クイーン側もその新しさに賭けたのだと思うが、フタを開けてみると、過酷なツアーとレコーディングのスケジュール、いつまでたっても上がらない給料にメンバー達は相当腹を立てていたことは間違いない。あれだけ日本でスーパースター的な扱いを受けたというのに機材ひとつ買ってもらえない惨めさ。フレディなら当然歌にするだろう。
その後なんとか彼の元を離れ、彼らの最高傑作アルバム “A Night At The Opera” が生まれるのは承知の通りだが、実はこのアルバムが売れなければ莫大な賠償金で破産するギリギリの状態だった、ということはもう少し知られていい事実だ。

“Bohemian Rhapsody” の成功で自信をつけたクイーン。本人達さえも予期しなかった、とんでもない作品を生んでしまった。だが、スターダムにのし上がる夢を手にいれたフレディには「普通」の生活は営めなくなっていた。恋人メアリーとの仲がこじれにこじれる。5枚目のアルバム ”A Day at the Races” における彼のテーマは「失恋」である。

だから、どうか行かないで
僕をひとりにして、行ってしまわないで
ずっと僕は孤独なんだ
(“You Take My Breath Away”)


今、僕は悲しい
君は遠くに行ってしまった
僕は座って、毎日毎日時間を数えている
戻ってきておくれ、君の愛がいるんだ
(“The Millionaire Waltz”)


僕は君をずっと信じてきた
だけど僕の心はもう安まらない、神よ!
(“Somebody To Love”)


そして彼女との終焉を次のアルバム”News of the World”で歌う。

僕のベイビーは、新しい奴を見つけて行っちまった
このことはあまり話したくない
忘れちまいたい・・・
(“My Melancholy Blues”)


それ以降の彼は、自らの孤独から逃げるように、毎夜の戯れにふけり始めて行く。
「僕の中にある淋しさは、最も耐え難いものだよ。ひとりで自分の部屋に閉じ込もるなんて類のものじゃないんだ。人ごみの中にいてもなお、誰にも属していないという 理由で装われる淋しさなんだから・・・」('86年ミュージックライフ)。
その孤独癖は思春期の頃に芽生えたゲイ指向をどんどん開花させることになる。初期のクイーン・ファンは、”Good Old Fashioned Lover Boy” の歌詞に皆ギョッとしたという。

これ以後、彼の「エッチ」な歌詞は次々と作られていく。

君が僕の体を受け取り、僕は君を熱くする

(“Get Down, Make Love”)


僕はセックスマシーン、もう一度出来るぜ
(“Don't Stop Me Now”)


私は、初期からのクイーン・ファンではない。むしろそのことに感謝している。もし私がリアルタイムでクイーンを聴いていたら、他の私よりもっと熱心で熱狂的な多くのクイーン・ファンのように “News of the World” や “Jazz” にがっかりさせられたに違いない。私がクイーンと出会ったのは1979年、“Live Killers” の頃で、クイーンのいわゆる過渡期だった。私にとって最初の新曲は “Play The Game”。初めてラジオでかかった時は背筋がゾクゾクした。”The Game” “Hot Space” “The Works” についての評価は、面白いことに初期のファンであればある程「もう聞けない」「見放した」と辛らつになってくる。

アルバム “Hot Space” が発表された1982年、フレディは7年来の恋人メアリー・オースティンと別な人生を歩もうと決心し、ミュンヘンに移住している。「バミューダ・トライアングル」と呼ばれるホモ街の生活でゲイの道へとひた走る時期だった。その事を念頭に置いて “Body Language” “Staying Power”、そして前の年に死んだジョン・レノンに捧げた”Life Is Real” をひもとけば、赤裸々でリアルな歌詞を理解できるだろう。これがクイーンが大胆に音楽性を変えた一つの解答である。

成功は僕の呼吸する場所
自分自身でたどり着いた
自分で値段をつけ、現金にするさ
受け取ることだって、手放すことだってできる
孤独は僕の隠れる場所、自分自身で受けとめる。
これ以上何が言えるだろう
ずっと苦い薬を飲み込んできた
そいつを味わえる 僕はそいつを味わえる」
(“Life Is Real”)


このことから目をそむけるべきではない、と私は思う。ブライアンがどう否定しようが、フレディがバイ・セクシャルだったことは明白であり、そのためにエイズで亡くなったのである。以下の文は、1992年現在まだ邦訳されていないイギリスの “The Show Must Go On”(Rick Sky著) からの引用である。

「誰とだって、僕はベッドに行くよ。僕のベッドはとても広くて、6人が快適に寝れるんだ。僕のセックスは誰にも邪魔されたくない。僕はその時、ただセックスのためだけに生きてるからさ。」
「僕はいつだってファックしてる。以前よりはずっと人を選ぶようになって来てるけどね。」

同書によれば彼は100人以上の男女と性関係を持ち、「フレディ&ゴモラ」というセックス・グループを作って、メンバー全員にロールス・ロイスをプレゼントしていたという。コカインの常習者でもあったらしい。フレディは、自分の欲望に正直であろうとしたし、スーパースターであったが由に、それができたのだと思う。フレディのこの自由奔放な人間性を否定してしまうことは、バラエティ豊かな彼の作品をも否定してしまうことだ。
1980年になって、アメリカでゲイ開放の波が進む。もうゲイは裏の世界に潜まなくてもよい。堂々とゲイであることを誇示できる時代が来た。マッチョを振りかざし、ヒゲ面にレザー・パンツをはくゲイ達に、フレディは大きく影響された。かつての女々しいイメージをメアリーと共に捨て去り、髪を切り、体を鍛え、ロヒゲを生やし始める。クイーンの音楽性と同じ位フレディの外見が激変しているのは、彼が自分の気持ちに忠実に自分を変えていくからに他ならない。まさに、これがクイーンとフレディのマジックである。このことが理解出来れば “Hot Space” や “The Works” さえ 、ヴィヴィッドなフレディの、ファーストアルバムから変わることのない制作姿勢が分かるであろう。
誤解を恐れず書けば、フレディの音楽性とは非常に仏教的なのだ。「すべてのものは移り変わる。そのことが、ただ一つ変わらぬ本質なのである」。フレディは自分のやりたい時にやりたいことをやり続けたことで、何よりもピュアだったのだと思う。後期ビートルズは、自分達の作り上げた音楽の偉大さに押し潰されて解散への道を進んだ。他のバンドも、音楽性が合わないという理由で、メンバーチェンジが頻繁に行われる。クイーンは、自らの音楽性を変えることで、メンバーが変わることなくやって来れたのではないか。初期の「プログレッシブ・クイーン」にブライアンがこだわっていたら、今ごろジョン・アンダーソンがクイーンに入っていたかも知れない(!)。

1984年、アルバム “The Works” の頃から、自分や世界を見つめ直して問題提起する歌が増え始める。この頃から未知の病気「エイズ」が話題になり始め、フレディのボーイフレンドもエイズに感染していることが判明する時期だ。

これが我々の作った世界なのか?
我々は一体何をしたのか?
これが我々が侵略した世界なのか?
法に背いて・・・
(“Is This the World We Created?”)


クイーンがあれだけ世間の反対にもかかわらず、アパルトヘイト中の南アフリカへ行ってツアーをした理由を、私は、実はフレディは単にこの曲を彼らに聴かせたかっただけなのではないか、と思っている。

なぜこの世界は憎しみであふれているのか
至る所で人は死んでゆき
我々は創ったものを壊していく
(“There Must Be More to Life Than This”)


1986年。マジック・ツアーが終わった後、恐らく彼は自分がエイズに感染した事実を知る。今までの性に乱れた生活をピタリとやめ、修道僧の様に禁欲な毎日を送り始めるフレディ。その様子は、ドイツのゴシップ誌「BUNTE」に掲載された彼のガールフレンド、女優のバーバラ・バレンティンのインタビューが生々しく伝えてくれる。彼女の名前は彼のファースト・ソロアルバム “Mr. Bad Guy” のクレジットに、メアリーと共に出てくる。
'87年にはすでに膝に腫瘍が出来、普通に歩けない状態だったこと(“Barcelona” のプロモ・ビデオをよく見るとそれが分かる)、顔の「カポジ肉腫」を隠すためにファンデーションをつけていたこと、スイスでの極秘の血液交換・・・。彼にとって自己との闘いの始まりである。

「自分のことを歌っているみたいだ」と共感し、カヴァーしてしまったオールディーズ “The Great Pretender”。このビデオで「再撮影」した過去のクイーン・フィルムの名場面集は、まるで自分自身の集大成である。これが「なぜ今さらオールディーズのカヴァーをして、”Crazy Little Thing Called Love” の二匹目のドジョウをねらうのか分かりかねる」などと書く、何も知らないジャーナリスト達への答だろう。
そして、憧れのディーヴァ、モンセラ・カヴァリエとのデュエットアルバム ”Barcelona” が満を持して完成する。私は疑うことなくこのアルバムがフレディのマスター・ピースだと思う。ブライアンのギターがオーケストラに置き換わり、フレディはついに究極の夢を叶えた。

今、僕の夢は少しずつ本当になっていく
(“Barcelona”)


悲しみにつつまれた大きすぎる世界の中で
僕はどうやって忘れられよう
僕たちがわかち合ったすばらしい夢を・・・
(“How Can I Go On”)


そして、帰るべきところはクイーンだった。彼を中心に結束を固めるメンバー達。最後の2枚のアルバムのテーマは、まさにフレディの「遺書」そのものである。

グッバイ、グッバイ・・・ パーティは終わっ・・・
―誰が僕のパーティーが終わりなんて言ったのさ!?
(“Party” ~ “Khashoggi's Ship”)


”Scandal” は当時の彼らのゴシップ記事に怒る歌 。”I Can't Live With You” はおそらくブライアンが離婚したクリスティーンについて歌ったもの。だが、その他の曲のほとんどは、フレディの命の叫びである。ぜひあなた自身が確かめてほしい。

最後に興味深いフレディの歌を紹介したい。ファースト・アルバムに収められた歌である。

今日、偉大な王ラットが死んだ
5月21日に生まれ
44才の誕生日、梅毒で命を落とした
(“Great King Rat”)


彼は45才。11月24日にエイズでその尊い命を失ったが、彼は果たして“Dirty old Man”だったのか? この歌は彼の人生を恐ろしく暗示してはいまいか。

近いうちにフレディの人生を描いた本が次々に訳され、出版されるだろう。週刊誌でも再び興味本位の取り上げ方をするに違いない。が、私はフレディがまっすぐに人生を歩み、スキャンダルを吹き飛ばすほど素晴らしい作品を作り上げた業績を知っている。自信を持って、私はそんなフレディを尊敬している、といえる。
ついに彼と出会う夢は断たれたが、その死によって私は何かをつかんだ。
フレディ、ありがとう。これからの私を見ていて下さい。

(※訳は全て本人による)

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