見出し画像

ショパンのマズルカ考察

このエッセイは、2018年5月10日〜12日にかけ、Facebookに投稿したものです。


1

ショパンは、ワルツ、ノクターン、バラード、ソナタなどのジャンルで楽曲を発表してますが、特に他の作曲家に今までほとんどなかった、ポロネーズとマズルカという、2つのポーランド民族音楽のジャンルを敢えて取り上げ、生涯に渡って作曲しています。

ポロネーズは大作指向で、生前に7曲。名曲揃い。

その反面、マズルカは短い曲を3〜5曲まとめる形でいくつも出版され、遺作も合わせれば58曲も書いており、その数はショパンのジャンル中最多で、中にはキレッキレの名作から「なんじゃこりゃ?」という実験作まで様々。

そこまで彼が書き続けたこだわりは何だったのか?

そもそもマズルカはワルツと同じ3拍子ながら、

「タッタタッッタッッ」と跳ねるリズムが特徴。

しかもこの「跳ね」の取り方が絶妙で、ショパンが演奏しているのを聴いたフランス人が「これ2/4拍子じゃね?」と彼にツッコミ入れて激怒された、というエピソードがあるほど。

まさにここが、ポーランド民族の血から来る独特のリズム感なのです。

 例えば、あ、チャチャンガチャン、という日本人なら大体できる合いの手は、実は欧米人には難しいシャッフルのリズムだったりするのです。このリズムは元々田植えから来ているらしい。

その辺の独特のリズムの解釈は、やはり同じポーランド人のルービンシュタインがやはり近いんじゃないかなと思っています。

でもショパンのマズルカは、それだけが特徴ではありません。

例えば左手がワルツの刻みとほぼ同じようなアレンジも随所にありますが、ワルツと決定的に違う点があります。

キャッチーでポップなメロディを持つワルツと違って、マズルカのメロディは、半音進行を多用した、複雑でウネウネしたものが多く、そのおかげでマイナーな曲は鬱屈した曲調となり、さらに高度な転調も多く、マイナーなコードの上にメジャーなメロディが乗ったりなんてのがザラです。

これが行き着いた先が、現代のアラン・ホールズワースなのかも。

きっとベートーヴェンが生前聴いたら、理解できなかったでしょう。

そういう58曲のマズルカ中、僕も多くのファンも「最高傑作」といわしめるのが、第38番、op59-3、嬰ヘ短調 (Key=F#m) 、ショパン35才の作品です。

この前年に大作のソナタ3番を発表し、彼の生涯中傑作が溢れる年の作曲でした。

高度な展開を取り入れつつ、ポーランドの魂がステップに宿っていそうな舞曲に仕上がっています。

いろんな演者を集めた聴き比べがYouTubeにのっかってます。冒頭、確かに2/4ぽく聞こえる感じ、わかりますかね?


2

ショパンのマズルカを民族音楽ぽい感じたらしめている理由は、ふたつの変異音階です。

ひとつは、ドレミファソラシドの「ファ」を半音上げた、業界でいうところのリディアンスケール。グリーンスリーブスなどで使われています。

もうひとつはさらに「ミ」と「ラ」を半音下げてマイナー化した、アラビックスケールつまりアラビア音階です。

(かのリッチー・ブラックモア御大も、レインボーの楽曲で好んで使用しています)

なぜかポーランドにはいつからかこの音階が伝わり、民謡などに使われるようになりました。おそらく迫害され中東などから放浪してきたユダヤ民族が伝えたものなのでしょう。

ショパンも幼少の頃からこの音階を聴いて踊って育ち、体の中に染みついていました。

彼はわずか7才にして初めてポロネーズ、10才にしてマズルカの作曲をし、楽譜を残しています。

10才にして「転調」を使ってる曲!おそるべし!

その初マズルカにはまだ、この2つのスケールは現れていません。おそらくまだその概念を掴み切れていなかったのでしょう。

僕も10才の時、家のピアノで小曲を初めて作ったのですが、頭にあるメロディが掴みきれず、結局ピアノでメロディを作ってしまった記憶があります。(ショパンと比べるなんて畏れ多いのですが、そのモヤモヤ感は今でも覚えています)

ところが16才(17才という説もあり)になると、音楽学校にて、マズルカをロンド形式で書いちゃえ!という斬新な発想の作品を発表します。

この時既に彼は、上記ふたつのスケールを自分のものとし、比類無きテクニックで、転調と装飾音を駆使した、後の名曲のいしづえとなる「ショパン風メロディ」を作り上げているのが驚異的です!

途中のアルペジオフレーズは、後のバラードにも転用されていますね。

(ちなみに僕も17才で初めて「勇士ギルガイアス」という歌を作り、POPCONの予選を勝ち抜いて県大会に出場しました。わはは)

まさにショパンにとってマズルカは、ポロネーズと共に彼の「血」であったことがわかります。


3

アカシメソッドでも指摘したように、ショパンのピアノメロディは歌メロ向けではありません。息継ぎする余裕がないし、音があちこち飛びすぎて超絶歌いにくいのです。

(彼は歌曲も書いていますが、それはまた別の話)

アカシメソッド第14回

それはそれとして。

一般的にはメロディは、下からドレミファソラシド〜と、上に行けば行くほどエネルギーが高くなって盛り上がります。

このように一音ずつ上がっていくことを業界で「順次進行」と呼ぶのですが。

この順次進行をうまく使った例として、ビートルズの "All My Loving" なんかが上げられます。

(以降、移動ドです)

ファミレー、と一旦下がった後、ミファソラシド〜、と大変ハッピーに盛り上がります。

クイーンの "Bohemian Rhapsody" の名ギターソロ(フレディ作)なんか、

ソラシドレミファソ〜、(一旦下がって)ソラシドレミファソラ〜

とぐんぐん上がって感動を誘います。

ショパン20才作曲、3年後パリデビュー直後に出版され話題を呼んだ「5つのマズルカ op.7」の第1曲は、まさにこの順次進行まっしぐらのメロディで、強烈に印象に残る大好きな小曲です。

ソソラ〜シ〜ドレミ〜ファソラシドレ〜

と、オクターブを軽々越え、さらに5度上のレまで上がってトリル。

彼の曲では順次進行はよくありますが、ここまで順繰り上がって突き抜けるのは、他にはないはずです。

陰鬱な曲調が売りの彼らしくなく、ひたすら明るい!(そして短い!)

若さを謳歌しているようです。

(次回最終回で紹介する、彼最後のマズルカとは全く対照的です!)

そしてお約束の「ファ」の半音上げでアレ?と驚かせ、さらに中間部ではアラビア進行のメロディが唐突にキター!で、民族っぽさを醸し出すところが、ワルツとは違うところ。

そして何事もなかったかのように明るいメロディに戻る、というとてもユニークな構成の曲になってます。

昔の映画などで、ショパンはポーランドの紛争が原因で国を追われ、泣く泣くフランスへ亡命したというエピソードが流され、未だそれを信じている人も多いのですが、それは全くの誤りです。

ショパンがウィーンに旅立った1830年当時は既にポーランドという国はなく、ロシア領になっていて、もう大きな紛争は起こっていませんでした。

ショパンは、作曲家・ピアニストとして名声を得ようという大きな野心を持って、音楽の都ウィーン、さらにパリへと乗り込んだのです。

彼の登場は、当時のパリでセンセーションを持って迎え入れられました。

その高揚感が、この曲ととてもマッチしています。

国を思い亡命した人がのん気に発表できる曲ではないはず。

(せいぜい、片思いの恋が祖国で終わったぐらいのレベルでしょう。実際そんな曲もありますし)

そして彼は、いつでも戻れるはずのワルシャワへ結局一度も戻らない人生でした。

「祖国の英雄」というショパン像は、後世に政治的に利用するため作り上げられたことが、様々な資料で明らかになってきています。

「マズルカ」というジャンルの作品を敢えて出版したという行為は、自分がポーランド人だという誇りを持ってした、というよりは、彼の「他にはない」個性を前面に押し出すための「売り」だった、というのが真相かなと僕は推測しています。

ショパン、という姓が示すように、もともと彼の父ニコラは、フランス人です。

フランス革命の戦火から逃げるようにフランスから亡命したのは、父の方でした。

なので当時の多くのフランス人は、ショパンがフランス人と信じて疑っていませんでした。本人も、そのことによる利益の方がまさっていて、その幸運を味わったのではないでしょうか。


4

最後はショパンのスワンソング、すなわち最後の作品について。

彼が死の間際まで病床で書いていた作品もまた、マズルカだったのです!

ショパンにとって最高のプロデューサー、マネージャー、そして看護師だったパートナー、フェミニズムの祖ともいわれている作家のジョルジュ・サンド。

ショパンが孤高の作品群を生み出すことができたのは、まさに彼女のおかげといっても過言ではないでしょう。

それと引き替えに、生まれながらに病弱だった彼と波乱の生活を送ることにもなり、創作と闘病の絶妙なバランスの中で、ふたりの気持ちは少しずつ変わっていきます。

ふたりの関係に終止符が打たれたのはショパン37才の時。彼が亡くなるわずか2年前です。

サンドとの別れによって彼は、創作力も健康状態も一気に落ちていきます。

友人達はそれを何とかしようと、彼に英国公演をブッキングしますが、激寒のロンドンはさらに彼を弱らせてしまい、遂にひとりで階段の上り下りすらできなくなってしまいました。

最後はピアノすら弾けなくなり寝たきりになってしまうのですが、驚くべき事にショパンは、その状態でも作曲を続けていたのです!

下の写真がショパンの自筆譜(国際楽譜ライブラリープロジェクトより転載)なのですが、なんとこれ、ベッドに寝ながら仰向けで書いていたもの!

ペンがすべってる箇所がいくつもありますね。

それより驚くべき事は、彼の脳内で「エアピアノ」ができていたことです!

こんな転調満載の複雑な曲を、実際に弾かずに作れてしまうという彼の神業を、あらためて感じざるを得ません。

まさに命を削って、なぜ彼はこれを書いたのでしょう?

ポーランドの国を思って、というのはまずないと思います。

〆切に追われているわけでもないですし。

自分が生きているうちに何か書かねば!というのも何か違う気がします。「〜しなければ」だけでは人はひとりでは動けないし、そんな焦りの中で作品は生まれてきませんから。

創作する立場で想像するならば、このメロディが突然彼の頭に「降りてきた」から、なんだと思います。

作曲する一番の動機は、ワクワク感。「行ける!」と思ったからこそ、ショパンは最後の力を振り絞って、この「天啓」を形にしようと思ったのではないでしょうか。

それがワルツでもバラードでもない、マズルカだったところが、彼らしさなんだと思うのです。

常に彼の頭の中には、デフォルトとして幼年期初めてピアノに触れてから常に、3拍子のマズルカのリズムが身近にあったが故に、これだけマズルカを書き続けることができたのではないでしょうか。

そう、ショパンは「3拍子の人」なんですよね。

(ちなみに僕の中には4拍子の、コージー・パウエルのドラムビートが鳴り続けています(笑!)

(マイケル・シェンカーの新作も3拍子だったなあ〜、あ失礼・・・)

この曲は結局このスケッチの段階で絶筆となり、生前よりずっと信頼していた友人フォンタナが、ショパンの死、1849年の6年後、他の未発表作と共に「4つのマズルカ op.68」の4曲目として発表。

当時は自筆譜の解読が困難だったため(そりゃそうですわ!)中間部分がカットされていましたが、後年ショパン研究家であり「エキエル版」としてショパン業界では有名なヤン・エキエル氏が1965年見事に復元。全体像が初めて日の目を見たのでした。

作風はマズルカといわなければ、ノクターンにもバラードにもワルツにも取れる、憂鬱と優しさが交錯するショパン節。

でもやはりこれを「マズルカだ」といって手渡した彼の心情には、マズルカに対する愛がひしひしと感じられます。

了。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?