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石川五右衛門の辞世 戦国百人一首③

石川五右衛門(未詳-1594)は、実在した人物だ。
義賊のイメージが強いかもしれないが、なかなかのワルだとの話しもある。
京都の寺院・大雲院に彼の墓がある。
戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。
なぜか刑死した人物にしては格の高い戒名だということである。

石川五右衛門 決定

  石川や 浜の真砂子はつくるとも 世に盗人の 種はつくまじ

「浜辺の無数にある砂が尽きることはあっても、世の中に泥棒が尽きることなどないだろう」

実際の五右衛門像を伝える記録は多くはない。

キセルを手にして京は南禅寺の三門から満開の桜を眺め、
「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ」
のセリフと共に見得を切る。
これは、歌舞伎「桜門五三桐(さんもんごさんのきり」の一場面だ。
五右衛門と同時代の天下人・豊臣秀吉の鼻を明かし、命を狙う役柄の痛快さが庶民にウケた。

五右衛門には丹後国の豪族石川氏の出身だという説、もともとは伊賀流忍法の祖である百地三太夫の弟子で、その彼の妻と密通して逃亡した伊賀の抜け忍(忍者を辞めた者)だったという説などいくつか挙げられるが、どれも確証はない。

芝居に見られるような義賊であったのかも怪しい。義賊だというのは、浄瑠璃や歌舞伎という創作での世界の中のイメージに影響されている。
盗みを働くのは金持ちからだけ、との話がある一方、卑怯な盗賊だったとも言われる。
豊臣秀吉が朝鮮出兵した時には、警固が手薄だった京や大坂などの都市部で徒党を組んで荒らし回ったらしい。

あるとき五右衛門は、盗賊としての腕を見込んだ豊臣秀次から豊臣秀吉暗殺の依頼を受けた。
しかし、五右衛門が秀吉の寝所に入ってたところ、部屋に置いてあった千鳥の香炉の鳥が鳴いて知らせたのでしくじったという話しがある。
作りものの鳥が鳴くわけもないが、焚かれた香のたゆたうわずかな気配の違いで気づかれたのかもしれない。
結局配下の者が全てを白状し、五右衛門の一党約20名が一網打尽となった。
秀吉の逆鱗に触れた五右衛門は、母親や子を含めた一党もろとも京の三条河原で見世物のようになって処刑された。

日本に滞在していた貿易商・ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』やその注釈、公家・山科言経の日記『言経卿記』などに彼の最期についての記録が残る。
皮肉にも、盗賊集団とその頭目が処刑されたという複数の記録の一致が、石川五右衛門と一党の実在を証明した。

記録に残るのは「釜煎り」という聞き慣れない処刑の方法だ。
「釜ゆで」とは記録されていない。
そのため解釈に、「煎られた」「茹でられた」「油で揚げられた」など諸説がある。

子供が五右衛門と一緒に処刑されたというのは事実である。
高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた、あまりの熱さに子供を下敷きにした、苦しまないよう先に子供を釜に沈めたという3つの説がある。
絵師による処刑記録から、先に沈めて殺してやった説が有力だという。

彼の辞世はふてぶてしくも強い。
そして彼が言う通り、今の世も盗人が絶えることはない。