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弘智の辞世 戦国百人一首95

弘智こうち(?-1363)は厳しい修行の末に即身仏となった。

「即身仏」をご存知だろうか。
途中で投げ出すことを許されない修行を絶命するまで行い、自らの身体をミイラにして生前の姿を保ちつつ、仏として未来永劫祈り続ける僧のことだ。

弘智法印の即身仏は、新潟県寺泊野積てらどまりのづみ西生さいしよう寺に現存するが、それが日本で見られる20数体ある即身仏のうち最古のものとなる。「法印」とは、僧の最上位を示す称号だ。

岩坂の主は誰ぞと人問わば墨絵に書きし松風の音

岩坂(弘智が修行をしていた養智院がある場所の地名)の主は誰かと人が問えば、それは墨絵に描いた風に揺れる松の音だ

「松」が風に揺れる墨絵が描かれることがあっても、その風の音まで絵として見ることはできない。あるが、ない。ないが、ある。
弘智の幼名は音松(吉松とも)といった。松の音とは、弘智のことと考えられる。
岩坂で即身仏となった弘智法印は、「居ないが居る」のだ。
まるで墨絵に描かれた松が、揺れるときにたてる描かれることのない音のように。

彼は下総国にある大浦村(現在の匝瑳市そうさしの農家の生まれである。幼少時代に大浦にある蓮花寺で出家した。地元や武蔵野での寺院住職を経て50代ごろに伝導の旅へと出発。東北や北海道を中心に33ヶ寺を建立し、のち高野山で密教を学んだ。しかし、世の中と高野山という仏教世界にさえ広がる末法の乱れに心を痛めて、高野山を去り、その時代に生きる衆生を教化し救うために即身仏になる決断をした。

諸国行脚の旅ののち越後国(新潟県長岡市)の西生寺の裏の岩坂に草庵「養智院ようちいん」を結び、名を弘智と改めて即身仏となるための修行を行う。そして、1363年にその地で入寂(亡くなること)した。

彼の生涯は、弘智の即身仏がある西生寺に残された『弘智法印即身仏御縁起』(成立年代不明)に書かれている。

即身仏となるための方法は、想像を絶するほど過酷である。
1000日から5000日間山に籠って座禅や写経、滝行、礼拝などを行いながら、米や麦などの穀物を断ち、山で採れる木の実や草だけを食す。これが脂肪を落とし、身体を浄化して腐りにくい体質に変える修行「木食修行」である。修行によっては毎日漆を飲み、生前から体内の防腐処理をしていく場合もあるという。全てきれいにミイラとして自分の身体を残すためのプロセスである。

やがて当人が命の限界を感じるようになると、呼吸用のフシを抜いた竹筒を空気パイプのようにして取り付けた木箱に入る。木箱は深さ約3メートルほどの穴の中に設えた石室に入れられ、修行者は呼吸だけが確保されたその中で断食を行いながら、鈴をならしつつ経を読み続ける最後の修行を行うのだ。
鈴の音が止まれば僧の絶命を意味する。そして3年3か月後に掘り起こされた修行者の遺体は、すでにミイラ状態となっており、即身仏として寺に安置されるわけである。

弘智も上記のような修行の末に1363年10月2日に座禅を組んだまま入寂したという。その身体は、信者によって土中から引き上げられ、奥の院の小堂に安置された。その後紆余曲折はあったが、即身仏は「弘智堂」に安置され、現存している。

弘智が入寂した年の翌年、足利義満が征夷大将軍となった。1336年以来、朝廷が2つに割れた南北朝の時代からようやく抜け出し始め、京の室町に政権が誕生する。弘智はそんな時代に仏となった僧侶だった。

江戸時代には、俳人として知られた松尾芭蕉が訪れたとされている。曹洞宗の僧侶として名高い良寛も西生寺に滞在した。そして弘智の辞世に感銘を受け、弘智を詠んだ漢詩を残している。

弘智法印の入寂からすでに660年経った。
彼は今も「居ないが居る」。
そして、その祈りも存在している。