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「それ」

これは、私が中学1年生の時に「絶対に忘れない」と心に誓った本当の出来事だ。随分昔の昭和な話しである。

「それ」のはじまり

季節は忘れた。中学校からの下校途中のこと。
私は本の虫と呼ばれるくらい読書が好きで、その日も何かの本を読みながら1人で家に向かって歩いていた。
周囲には同じように下校中の中学生が何人か歩いていたと思う。
今思えば、もしかしたら下校以前から「それ」は始まっていたのかもしれない。
でもその時の私は何も意識していなかった。

「藤田さん、ねぇ、藤田さーん!」
下校中の女子中学生が誰かを呼ぶ声が聞こえた。
私の名は藤田ではない。
目を本から反らさずそのまま無視して歩いていく。
勝手を知る道だから、本を読みながら歩くのも慣れたものだ。
あと200mくらいで自宅に着くという、最後の通りにさしかかった時だった。
うっかり電柱にぶつかりそうになって、ぎりぎりでよけた。
あぶなかった。
その瞬間ちょっと顔を上げると、ぶつかり損ねた電柱に貼ってある広告が目に入った。
「藤田時計店 電話番号 XXX―XXXX」
いつもそこにある電柱の今まで気に留めたこともなかった広告だ。
私は懲りずにまた読書を続け、自宅へ向かって歩いた。

私を追いかける「それ」

家に戻ると、いつものように母がいる台所に顔を出した。
ラジオが好きな彼女は、番組を聞きながらクッキーを焼いている。
既に出来上がっていたクッキーを1枚取り上げ、私はそれを口に入れる。
丁度ラジオのアナウンサーの声が聞こえた。
「藤田がお届けしました」
ああ、そっか、また藤田か。
でも、藤田なんて特に珍しい名字でもないですよ、だ。
熱冷ましのために網の上に置かれていたクッキーをもう2、3枚掴み、私は自分の部屋に向かった。

自室でクッキーを頬ばりながら制服から普段着に着替え、読書の続きをする。
その後机で宿題をやっていたら、小学生の弟が私を呼びに来た。
母が夕食のテーブルの準備を手伝えと言っているらしい。
私は立ち上がった。

台所につながる茶の間に入ると、誰もいない部屋でテレビだけが点いている。
ニュース番組の途中だった。
そのまま茶の間を通り抜けて台所に行こうとする私は、何かの事件について説明するアナウンサーの声を耳にした。
「容疑者の藤田○○は・・・」
ん、と思い足が止まった。
本当にそれだけ。
今日はいやに藤田づいている、みたいなことをかすかに思ったかもしれない。
でも、それがどうした。
そんなことは台所まで10歩進む間に忘れていた。
電話帳を落とすまでは。

電話帳の「それ」

私は、忙しく夕食準備をする母を手伝って、食器を出し、醤油差しをテーブルに置き、父が飲むビールの栓抜きを探した。
栓抜きは電話帳の下にあった。
下に手を突っ込んで栓抜きを取り上げると、派手な音を立てて電話帳が床に落ちてしまった。
開いたページを下にして、べちゃりと床に落ちた分厚い電話帳。
仕方なく折れ曲がってしまったページと床の間に手を差し入れるようにして持ち上げ、よっこらしょと膝の上置いたとき、開いたページから目に入ったものは。

藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 
藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 
藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 
藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 
藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○
藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○ 藤田○○

左のページも、右のページも全て藤田何某の名前で埋め尽くされていた。
ああ。

私はおしゃべりしている母と弟の声を聞きながら、電話帳の折れ曲がったページを真っ直ぐに直して閉じ、静かに元の位置に戻した。

食事中、ずっとぐるぐる考えていた。
ちょっと待て。
こんなこと前にもあったんじゃなかったっけ。
思い出せない。
多分、1、2回あった。
でも無理。思い出せない。
なんだったっけ。
結局何も思い出せないまま夕食を終えた私は自室に戻る。

電話の知らせ

机の上にあったやりかけの宿題を見つけたので、片付けることにした。
なんとなく集中できない。
リーン、リーン。
茶の間の電話が鳴っているのが聞こえた。
やがて、ドタドタと足音がして、母が私の部屋にやって来た。

「今、町内会の役員さんから連絡があったんだけど、あんたの同級生の藤田君のところ、火事でお店も家も全焼しちゃったって・・・。幸いにも藤田君の一家はみんな無事だったらしいけど」

藤田君の両親は、町の北にある土手で喫茶店を営業していた。
そこに家もあった。
藤田君は小学生のときのクラスメイトだ。
同じ中学に入学してからは、クラスも別だったので疎遠になったが、人なつっこい彼は、会えば挨拶もしてくれたし、ひと言ふた言冗談を交すこともあった。

友人宅の火事のニュース。
だが、私は驚くよりは腑に落ちたという気持ちだった。
腑に落ちたわりには砂を噛むような嫌な気分。
そして、こんなことが起きたのは初めてじゃなかったことに気づいた。
似たようなことが以前にもあったのだ。
確かその時も結局何もできないまま終わってしまった。
予兆。
そうだったんだろうか。
もっと私が気を付けていれば、「それ」のサインに気づいただろうか。
結局この話は、その時家族に話すことはなかった。
どうせまともに取り合ってくれない。

しかし、私はこの日の「それ」について忘れてはいけないと思った。
いつか似たような現象が起きたら、その時こそはなんとかしたい。
中学1年生の私はこの日、「それ」を忘れまいと心に決めた。

消えた藤田君

その後、私は藤田君に一切会っていない。
家も店も焼けてしまった彼の一家は、町を去った。
もう、どこへいったかわからない。

結局、「それ」を強く意識したその日以降、似たようなことは二度と起きなかった。
それが良いことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
そのあとの私は「それ」を忘れることはなかったが、考えることもしなかった。
なぜなら全く別の妙な出来事が頻発し、中1の私の生活はそれどころではなくなったからだ。


この作品は月刊「ムー」xnoteの企画で優秀作に選ばれました。
ありがとうございました。