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「エルマノ・サンティアゴ」アンダルシアでの葬儀

その訃報が届いたのは、子供たちの学校の休暇を使ってスキーホリデーから戻ってきた土曜の夜8時頃だった。
私たち家族はへとへとになって土曜の昼下がりにマドリッドに戻り、私は三度目の汚れ物の洗濯を終了して、すでに乾いた服などを取り入れるなどしていた。

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ダンナの父親が亡くなった。彼の兄・ぺぺからの連絡だった。
それを聞いた私たちは、居間で遊んでいる子供たちから離れたベッドルームで二人顔を見合わせ、言葉も無かった。

うそでしょ。
何かの間違いでしょ。

確かに義父は一時容態が悪かったけれど、体重も少し落として心臓への負担も多少軽くなったし、院内感染と言われていたのも全部クリアした。
最近リハビリテーションで車いすから立ち上がり、多少でも歩けるようになったと聞いていた。
これからどんどん良くなるはずだった。
家族たちは、老人ホームでの暮らしに飽きてきた義父を家に連れて帰ろうかと言っていたのに。
一体どういうこと。
わけわかんないよ。

とにかく急いでダンナのホームタウンに帰らなければ。
私たちは空にしたばかりのスーツケースに再度服を詰め込んで車に飛び乗った。

夜の九時半。
マドリッドからダンナの実家のあるアンダルシアのとある町へは、車で5時間かかる。
お義父さんの遺体は、グラナダの老人ホームからその町の葬祭場に搬送されるそうだ。

葬祭場に行かなければ。

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ダンナは無言で車を運転し続ける。
何を考えながら運転しているのかはわからない。
幸いにも彼は旅先からマドリッドに戻ったあと長く昼寝をしていたので、睡眠時間は充分に取ってあった。
私は、猛スピードで車を飛ばす運転席の彼を後ろから見ながら会話もなく、横で眠る子供たちの手を握って後部座席に坐っていた。

車を飛ばした甲斐あって、4時間半後の午前2時に実家近くのホテルに到着。私は子供たちと一緒にホテルの部屋で休むことになった。
ダンナだけが喪服に着替え、すぐさま通夜が行われる葬祭場へ向かった。
訃報を聞いて駆けつける親戚や友人たちを家族が迎え、家族が故人の遺体と共に一夜を過ごすのは、日本の通夜に似ている。
葬儀は明日だ。
長い日になることだろう。
洗濯に追われて昼寝をしていなかった私は、頭の中でいろいろな考えを巡らせていたが、そのうち眠ってしまっていた。

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翌朝、ホテルでの朝食を終えたあと、部屋に戻って出かける準備をした。

私は、父方の祖父が亡くなったときの通夜だか葬式だかの様子を少しだけ覚えている。6歳か7歳の頃の出来事だった。
柩に入った祖父は、いつもと違った顔色で固く眠っていた。
そして鼻に綿が詰められていた。
その違和感は当時の私には相当なショックで、
「これは本当に死んだってことだ。だって生きている人は鼻に綿を詰めたりしない」
と子供なりに死を納得した記憶がある。

そして、私の娘はそのときの私の年齢に近い。大人になってこの日のことを思い出すだろうか。
子供なりに異常事態を察知し、納得する答えを欲しいと思うはずだ。
娘は、どうして私たちは皆黒っぽい服を着るのかと私に尋ねた。
そこで私は、ホテルのベッドの上に7歳の娘とまだ3歳の息子を坐らせ、何が起こったのか、どうして我々が急いでこの町にやって来たのかを説明してやった。息子は微笑み、娘は神妙な顔をしてこくりと頷いた。

日曜日は暖かくて、青空の広がる気持ちのいい日だった。葬祭場で多くの知り合いがひしめく中、義母を見つけた。いつもよりも数倍の力で私を抱きしめてくる義母の腕。すがるものがあればなんにでもすがりつく勢いだった。
涙があふれて、私は目を閉じて義父の姿を思い描いた。
多くの人が泣き、悲しい顔で首を振るのを目の当たりにすると、話に聞いていた義父の死が現実味を帯びてくる。親戚の人々と悲しい挨拶を交しながら、これは本当のことだったんだ、と自分に言い聞かせた。

葬祭場の中には、控え室のような部屋がある。そこに義母、義姉らが親戚の幾人かと一緒に坐っていた。私はふと、その部屋に外を向いていないガラスの小窓を見つけた。覗くと、小部屋に安置された茶色の柩が見えた。
義父の眠る柩だった。
その時、ダンナが
「ごめん。慌ただしくてキミのことを忘れてた。一緒に父さんの顔を見に行こう」
と言ってくれた。
一度部屋を出てその裏側に回り、一つあった鉄のドアを開けると、そこが窓から覗いて見えた柩のある小部屋である。
「大丈夫? 本当に父さんの顔が見たい?」
と尋ねるダンナの声に頷く私。
しかし棺を見つめた瞬間、あれっと思った。

「この棺はお義父さんには小さすぎる」

棺の大きさが間違っている。
それでも義父は本当にこの中に眠っていると言うのだろうか。
とにかく柩の中の人物の顔を見なければ。
その顔が義父で、彼の冷たい頬に触れたなら私もその死を納得できるかもしれない。幼い頃、亡くなった祖父の鼻に詰められた綿のように、生きていない確実な証拠を突きつけられたなら、私は義父の死を納得しよう。

ゆっくりと持ち上げられた柩の蓋の下に眠る誰か。
義父らしいのだが、違和感があった。それが義父だとは到底思えなかった。あんなに大きな人だったのに、この棺桶の中にどうやって入ることができたのだろう。

私はその亡骸の上に手を置いた。
着衣などは見えず、薄青く光る白いシルクの布が掛けられてあった。
布は滑らかで、柔らかくて、よそよそしかった。

違う、違う。
この人は私の知るお義父さんとは違います。
私の本当の義父は、触れてもこんなスムーズじゃないんです。
いつも木綿のシャツを着ていた彼の手触りは、その大きな身体に抱きついて挨拶するとき、もっと誠実でごわごわしていた。
あんなに大きな身体の彼が、こんなスリムな棺桶に入れるわけがないよ。
小さくなってしまったその姿を見て、私は涙が止められなくなった。

ダンナの家族や親戚たちとの食事で、誰もが自分の皿の上のものに気を取られている時、私がちゃんと食べたいものを食べられているかどうか、遠慮して我慢しているのではないかといつも一人声を掛けてくれたのが義父だった。
スペイン語をうまく理解しない私に対し、誰もが話しかけるのをあきらめていた時も、義母が止めるのも聞かずにいつまでもこんこんと話しかけてくれたのが義父だった。
私はそんな義父に申し訳なくて、でもあきらめずに話しかけてくれていることがとても嬉しくて。
いつか、いつの日かもっともっと私の気持ちをこの人に伝えたいと思っていたのに。
ここ数年は食事制限をしなければならなかった義父。糖尿病や心臓への負担を考えてのことだった。なのに彼はこっそり義母に内緒でお菓子も食べていた。偶然目撃した私に、へへへと笑ってウインクしたっけ・・・。

今、表情もなく横たわっているその人は、私の知る義父とはあまりにかけ離れていた。そして私はこの亡骸の頬に、彼の頬に、触れることができなかった。遺体に触れることを畏怖したのではなく、これ以上変わってしまった義父を認めたくなかった。冷たい頬に触れたなら、もっと義父との距離を感じてしまいそうで、どうしてもできなかった。

その日の夕方には町のサルバドール教区教会で葬式があった。
久しぶりに顔を合わす親戚や友人と挨拶をしながら、我々家族はまた涙を流した。

私はカソリックではない。特に信仰を持たない。
でも、カソリックの歴史や文化については尊いものだと思っている。
教会でミサが始まり、参列する者人々が神父の言葉に合わせるように聖書の文言を口にするのを聞くと、彼らの生活に深く根付いている信仰を強く感じた。
皆が同じ言葉を同時に発するとき、各人の心が一つになるような感覚。
それがよく理解できた。

明るい外の日差しがステンドグラスを通して華やかな光となり、教会の中へ導かれる。式は粛々と進んでいった。
私が子供たちにしてやった説明
「アブエロ(おじいちゃん)は空に上っていったんだよ」
というのが確信できるほど荘厳な光が義父の柩を包んでいた。

当然ミサは全てがスペイン語で行われる。
残念ながら私にはほとんどが理解できなかった。
が、ひとつ心に染みる言葉があった。

「エルマノ・サンティアゴ」

エルマノとは「兄弟」という意味である。
サンティアゴは義父の名前だ。
イエス・キリストの下では全ての人が「兄弟」であり、「他人」は存在しない。皆が家族のように痛みを分け合って、支えあう。
その考えは、家族の誰かを失った悲しみに打ちひしがれている残された人々にとても温かい。

私はその日、初めて信仰がいかに人々の支えとなり得るのか、ということを理解できた気がした。

我々直近の家族の者たちは、最前列でミサを執り行う神父を見つめる。
だが、ショックもままならない彼らの目が何かをきちんと見つめられていたのかどうかはわからない。
私はというと、家族の嫁という立場で少しばかり冷静に式を眺めていたのだろう。

そして、私はあることに気づいた。

壇上には神父のほかに、もう一人いる。
神父が聖水や聖餅を用意し、お香を使うのを手伝う人だ。
私は、その役割の初老のスリムな男性が式の途中で涙を流しているのを認めた。神父が人々に語りかけている間、その男性は壇上の隅に置かれた椅子に腰掛けていたが、眼鏡をはずしては何度も何度も目を白いハンカチでぬぐっていた。参列者たちの目はもちろん神父に注がれている。その彼の涙に気づいたのは、神父の話す内容が理解できない私以外に何人いただろうか。
私は日本でもロンドンでも数度葬式に参列したことがある。
だが、式を行う側の人が式を遂行しながら泣いているのを見たことはない。
彼は神父の脇に控え、こまごまと式の進行の手助けをしながらただ静かに涙を流し続けていた。
私は小さな感動をもって式の後半ずっと彼を見つめていたと思う。

教会での式の後、私たちは再び葬祭場へともどり、義父の棺桶が墓に入れられるのに立ち会う。
町に唯一つある葬祭場は、この町で亡くなった人々のほとんどが葬られる墓地でもあるのだ。
家族も親戚も友人も皆同じ墓地に眠る。
兄弟みたいだ。
まさに義父は「エルマノ・サンティアゴ」なのだ。

スペインの墓は日本やイギリスの墓とも違い、土の中に埋めるのではない。地面の上に厚い壁が並び、その壁には縦に四つの四角い穴が何列も空いている。亡くなった人の棺桶は上から順にその穴の中に差し込む形で埋葬される。つまりお墓もアパートみたいな感じである。

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義父の棺桶はしめやかに車でその墓の前まで運ばれ、そっと穴の中に差し込まれた。義父の墓の位置が四段のうちの一番下だったので私は嬉しかった。上の段では高い脚立がなければ花を上げたり掃除をすることもままならないが、下の段であればお墓を身近に感じられる。

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作業服姿の市の職員が、差し込んだ棺桶の正面の穴の口を四角く白いコンクリートの板で塞ぎ、それをセメントで固定して墓を閉じる。その後さらにもう一枚の白い壁によって墓は正面より封印された。
新しい墓から突き出たポールには花輪が飾られた。
一つは孫たちからの花。
もう一つは子供たちからの花。
そして最後は妻からの花。
柩が安置されていた葬祭場の小部屋の壁に飾ってあった花輪たちだった。

新たに出来上がった墓の前に立って振り返れば、その墓地が小高い丘の上にあることがわかる。
少し離れたところには別の丘があり、そこには町のランドマーク的存在の「ラ・モータ」と呼ばれる城砦跡がある。
この町で50年魚屋を営み、町中の人に知られた厳しく頑固で、でも茶目っ気のあった男「エルマノ・サンティアゴ」は、自分の町をそこから見下ろしながら、先に旅立った町の友人たちと共に眠ることとなった。

ラ・モータを横目で見ながら、典型的なアンダルシアの抜けるような青空の下、私たちはゆっくりと土埃を立てながら墓地を去った。

2012年2月18日。
それがサンティアゴ・ルエダ・ヴァルヴェルデの76年の生涯の最期の日であった。

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