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日本史関連の記事

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#豊臣秀吉

へぇそうなんだ日本史⑬【たった8年で取り壊された聚楽第】

学校の授業で習ったとき、聚楽第のことなんだかピンとこなかったのです。 豊臣秀吉による豪華…

安国寺恵瓊の辞世 戦国百人一首82

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(1539–1600)は臨済宗の僧侶である。毛利家の一外交僧から豊…

中村文荷斎の辞世 戦国百人一首80

この人物を知る人はなかなかの歴史通かもしれない。 柴田勝家が切腹した時、勝家の介錯を行っ…

千利休の辞世 戦国百人一首75

偉大なる茶聖、千利休(1522-1591)は、商人であり茶人であったのに、まるで武士のように切腹し…

宇喜多秀家の辞世 戦国百人一首58

宇喜多秀家(1572-1655)は、元服の時に豊臣秀吉から「秀」の字を与えられて名を「秀家」とし…

一の台(豊臣秀次室)の辞世 戦国百人一首53

豊臣秀吉の甥で、彼の養子になった豊臣秀次の側室(もしくは正室とも考えられている)が「一の…

豊臣秀次の辞世 戦国百人一首52

「殺生関白」(摂政と関白という役職名にかけたあだ名である)と呼ばれるほど猟奇的で悪逆非道な人物だったと言われる豊臣秀次(1568-1595)。 しかし、現在の研究で彼の悪逆非道な行為は後世の創作であると考えられている。   月花を 心のままに 見尽くしぬ なにか浮き世に 思ひ残さむ 月も花も思う存分見ることができた。浮世に思い残すことはもう、何もない 秀次の父は尾張犬山城主や清洲城主を務めた三好吉房(出自についての詳細不明)、母は豊臣秀吉の姉・とも、つまり秀吉の甥っ子だ

織田信孝の辞世 戦国百人一首㊳

納得できない死を前にして怒りを爆発させた辞世を残したのは、織田信孝(1558-1583)である。…

初代本因坊 算砂の辞世 戦国百人一首㉘

わが国最初の囲碁棋士、これが算砂(さんさ)(1559-1623)である。 将棋の名手でもあった。 …

黒田如水(黒田官兵衛)の辞世 戦国百人一首㉗

黒田如水(1546-1604)は豊臣秀吉の参謀として、軍事戦略・調略・交渉などに活躍し才能を発揮…

茶々(淀殿)の和歌 戦国百人一首②

豊臣秀吉の次には、彼の側室・淀殿(1569?-1615)の歌である。 淀城を与えられて住んだため「…

石川五右衛門の辞世 戦国百人一首③

石川五右衛門(未詳-1594)は、実在した人物だ。 義賊のイメージが強いかもしれないが、なかな…