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日本史関連の記事

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2020年7月の記事一覧

山崎宗鑑の辞世 戦国百人一首㊷

俳諧の創始者として知られる山崎宗鑑(1465?-1554?)。 一休禅師とも親しくしていた間柄だ…

大嶋照屋の辞世 戦国百人一首㊶

大嶋照屋(おおしまてるいえ)(?-1565)は、㊵で紹介した大嶋澄月の兄であり、同じく肥前国…

大嶋澄月の辞世 戦国百人一首㊵

大嶋澄月(おおしますみつき)(?-1566)は、兄・照屋(てるいえ)と共に嵯峨源氏の血を引く…

頓阿の辞世 戦国百人一首㊴

頓阿(とんあ)(1289-1372)は、鎌倉時代後期から南北朝時代に登場した僧であり、歌人でもあ…

織田信孝の辞世 戦国百人一首㊳

納得できない死を前にして怒りを爆発させた辞世を残したのは、織田信孝(1558-1583)である。…

今川氏真の辞世 戦国百人一首㊲

今川氏真(1538-1615)は駿河国・今川氏の第12代当主である。 前半は大名、後半は文化人として…

今川義元の辞世 戦国百人一首㊱

今川義元(1519-1560)は、「海道一の弓取り」と呼ばれ、天下取りに近いとされた駿河国・遠江国の戦国大名であった。 三河を勢力下に収め、さらに尾張を狙って2万5千人の大軍を率いて織田氏討伐に乗り出したが、1560年6月12日の桶狭間の戦いで敗死した。 夏山の 茂みふきわけ もる月は 風のひまこそ 曇りなりけれ  夏山の茂みが風に揺れて月の明かりがこぼれ見えるが、風がやむとまた月が茂みで雲隠れしてしまう これは、正確には辞世の歌ではない。 この歌を詠んだとき、今川義元

細川忠興の辞世 戦国百人一首㉟

ガラシャの辞世を紹介したあとは、その夫の細川忠興(1563-1646)の辞世を紹介しよう。 彼は15…

細川ガラシャの辞世 戦国百人一首㉞

明智光秀の娘であり、細川忠興の正室であった細川ガラシャ(1563-1600)は、キリシタンだった…

斎藤義龍の辞世 戦国百人一首㉝

斎藤義龍(1527-1561)は、1556年に父親の斎藤道三を討って美濃国で斎藤氏の第2代の当主となっ…

斎藤道三の辞世 戦国百人一首㉜

近年、斎藤道三(1494-1556)の生涯については見直されている。 彼が僧侶から油売りとなり、そ…

明智光秀の妻 煕子の辞世 戦国百人一首㉚

煕子(?-1582)は明智光秀の正室である。 光秀との間には3男4女あったと言われるが、そのうち…

明智秀満の辞世 戦国百人一首㉛

明智左馬助、光春などの通称でも知られる武将・明智秀満(1536?-1582)は、明智光秀に関係す…

明智光秀の辞世 戦国百人一首㉙

明智氏は美濃の土岐氏の支流であり、さらに遡れば清和源氏につながるということだが、明智光秀(?-1582)自身は出自や青年期の行動がはっきりするほど高い身分ではなかったと考えられる。 心しらぬ人は 何とも言はばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ 私の心の内を知らない者は、何とでも言うがいい。 この身など惜しくはない。名誉を失うことも惜しくはない。 光秀は斎藤氏に仕えたあと、苦労を経て織田信長に仕官した。 高給待遇を受けた信長の元では、順調に出世して近江国坂本を与えられ、