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戦国百人一首

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戦国時代(室町時代から大坂夏の陣まで頃)に生きた人々の辞世を100人分紹介していきます。
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#武田勝頼

戦国時代の辞世を集め、心を込めて「戦国百人一首」を作る試み

辞世とは死にぎわに残す歌や詩のこと。 仕事で歴史上の有名人についての記事を書くとき、彼ら…

諏訪頼重の辞世 戦国百人一首85

信濃の戦国大名で、諏訪氏第19代当主だった諏訪頼重(すわよりしげ/1516-1542)。武田信玄に切…

桂林院(武田勝頼室)の辞世 戦国百人一首67

桂林院(1564-1582)は、武田勝頼の継室である。 相模の戦国大名だった北条氏康の6女と言われ…

武田勝頼の辞世 戦国百人一首66

病没した武田信玄の跡を継いだのは、武田勝頼(1546-1582)である。 もともと彼は「信玄の側室…

武田信玄の辞世 戦国百人一首61

武田信玄(1521-1573)には持病があり、亡くなる前には喀血を繰り返していたという。 彼の病名…

武田信勝の辞世 戦国百人一首60

戦国大名としては、甲斐武田最後の当主・武田信雄(1567-1582)。 武田信玄の孫、長篠の戦いで…

鳥居強右衛門の辞世 戦国百人一首⑤

鳥居強右衛門(1540-1575)という足軽が生涯で注目されたのは、長篠の戦いのとき1度だけだ。 彼はその戦いで死んだ。     我が君の 命にかわる玉の緒を          何に厭ひけん 武士(もののふ)の道 「武士として、我が主君の命に代えてこの命を捨てることなど惜しくない」 長篠城は、もともと武田信玄の手中にあった城だった。 1573年に信玄が病没したあと、徳川家康がこれを奪い、奥平家の当主・奥平貞能と嫡男の奥平貞昌(後の信昌)に託していた。 強右衛門はその奥平