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戦国百人一首

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戦国時代(室町時代から大坂夏の陣まで頃)に生きた人々の辞世を100人分紹介していきます。
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#麒麟がくる

戦国時代の辞世を集め、心を込めて「戦国百人一首」を作る試み

辞世とは死にぎわに残す歌や詩のこと。 仕事で歴史上の有名人についての記事を書くとき、彼ら…

松永久秀 最期の言葉 戦国百人一首㊺

松永久秀(1510-1577)は、日本の戦国三大梟雄(きょうゆう)として斎藤道三、宇喜多直家と並…

斎藤義龍の辞世 戦国百人一首㉝

斎藤義龍(1527-1561)は、1556年に父親の斎藤道三を討って美濃国で斎藤氏の第2代の当主となっ…

斎藤道三の辞世 戦国百人一首㉜

近年、斎藤道三(1494-1556)の生涯については見直されている。 彼が僧侶から油売りとなり、そ…

明智光秀の妻 煕子の辞世 戦国百人一首㉚

煕子(?-1582)は明智光秀の正室である。 光秀との間には3男4女あったと言われるが、そのうち…

明智秀満の辞世 戦国百人一首㉛

明智左馬助、光春などの通称でも知られる武将・明智秀満(1536?-1582)は、明智光秀に関係す…

明智光秀の辞世 戦国百人一首㉙

明智氏は美濃の土岐氏の支流であり、さらに遡れば清和源氏につながるということだが、明智光秀(?-1582)自身は出自や青年期の行動がはっきりするほど高い身分ではなかったと考えられる。 心しらぬ人は 何とも言はばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ 私の心の内を知らない者は、何とでも言うがいい。 この身など惜しくはない。名誉を失うことも惜しくはない。 光秀は斎藤氏に仕えたあと、苦労を経て織田信長に仕官した。 高給待遇を受けた信長の元では、順調に出世して近江国坂本を与えられ、