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戦国百人一首

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戦国時代(室町時代から大坂夏の陣まで頃)に生きた人々の辞世を100人分紹介していきます。
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#百人一首

戦国時代の辞世を集め、心を込めて「戦国百人一首」を作る試み

辞世とは死にぎわに残す歌や詩のこと。 仕事で歴史上の有名人についての記事を書くとき、彼ら…

市の辞世 戦国百人一首78

「お市の方」と呼ばれた市(1547?-1583)は、織田信長の妹、そして浅井長政や柴田勝家の正妻…

波多野秀尚の辞世 戦国百人一首77

名前から想像できる通り、波多野秀尚(はたのひでなお)(生年未詳 – 1579)は、『戦国百人一…

波多野秀治の辞世 戦国百人一首76

波多野秀治(はたのひではる)(1529?-1579)は丹波国(現在の兵庫県あたり)の大名で八上城…

千利休の辞世 戦国百人一首75

偉大なる茶聖、千利休(1522-1591)は、商人であり茶人であったのに、まるで武士のように切腹し…

伊賀崎治堅妻の辞世 戦国百人一首74

名前もわからない女性の辞世である。 そもそも武将・伊賀崎治堅(いがさきはるかた)の名を知…

大内義長の辞世 戦国百人一首73

戦国百人一首72で紹介した大内晴持に続き、同じ大内義隆の猶子(養子)となった大内義長(1532-1557)。 ただし、彼の場合は晴持のときほど恵まれた条件での親子関係ではなく、その短い生涯も悲劇的である。 誘ふとてなにか恨みん時きては 嵐のほかに花もこそ散れ 人に誘われて死に追いやられても何を恨むことがあるだろう。 時が来れば、花というものは嵐が吹かなくても散っていくものなのだから。 義長は豊後国のキリシタン大名・大友宗麟の異母弟であった。 さて、大内義隆は1543年

大内晴持の辞世 戦国百人一首72

20歳で海の藻屑となってしまったのが、大内晴持(おおうちはるもち)(1524-1543)である。 死…

真田幸村の辞世 戦国百人一首70

真田幸村(1567?-1615)の名前は通称とされており、諱(いみな/実名)は信繁(のぶしげ)であ…

徳川家康の辞世 戦国百人一首68

徳川家康(1543-1616)の死因が「鯛のてんぷらの食べ過ぎ」もしくは「食中毒」という話もあっ…

桂林院(武田勝頼室)の辞世 戦国百人一首67

桂林院(1564-1582)は、武田勝頼の継室である。 相模の戦国大名だった北条氏康の6女と言われ…

武田勝頼の辞世 戦国百人一首66

病没した武田信玄の跡を継いだのは、武田勝頼(1546-1582)である。 もともと彼は「信玄の側室…

陶晴賢の辞世 戦国百人一首65

陶晴賢(すえはるかた)(1521-1555)は、大内氏の家臣のうちではトップの実力者だった。 1551…

清水宗治の辞世 戦国百人一首64

織田信長の命による羽柴秀吉の中国地方攻略で散った武将の一人、備中高松城主・清水宗治(1537-1582)は、忠義に厚く毛利家が誇る屈指の智将だった。 本家・毛利家も小早川家も最後まで宗治の助命に奔走した。 しかし、宗治は「武士の鑑(かがみ)」と称されるほどの見事な終わり方をもって死んでいった。 浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して さあ浮世を離れ今こそ死後の世界に行くぞ 武士としての名を高松の地の色あせない苔のように永く遺しながら   潔く自分の死を