ヒメニナル 12
童話の姫君の名前を持つ存在・貴属が、理を書き換え続ける世界。アルビノの少女萌は、16歳の誕生日を控えたある日、旅人エルニと出会う。穏やかな日常を願う萌はその時から、世界の果てと魔法の始まりに関わる争いに巻き込まれることになる。
人魚姫と日常の終わり
「だ、大丈夫? このへん水みたいなのがふわふわしてるし、ぼんやりして浮かんでる人がたくさんいるし。待ってて、いま引っ張るね!」
買い物袋を放り出しみずきの手を取るも、萌はあっという間に海に飲み込まれる。
萌の頭上には白い小さな魚が泳いでいる。何物にも染まらない、無垢な処女雪の白。
「あばば息が!! んッ? 息はできる。でも泳げない! こんな時って救急車かな? レスキュー? それとも警察が先?」
萌はまがい物の海の中でもがきながら、携帯端末を手に慌てている。
(あいかわらずお人好しなんだから。危ないことがあったら何を置いてもまず逃げなさいって、いつも口を酸っぱくして教えてるのに……)
「ねえ萌、お願い聞いてもらえるかな?」
「うん?」
異常事態にも関わらず落ち着いたまま問い掛けるみずきに、じたばたもがいていた萌は不思議そうな表情を向ける。その頭上で泳ぐ白く小さい綺麗な魚。その身体は今まで見たどの魚とも違う輝きを見せている。この鱗を加えれば、みずきの魚はさらに美しく、力強い輝きを放つだろう。
(――さっきは少し鱗を剥がし過ぎたのかも。ちゃんと加減をして、少しだけなら)
「あなたの鱗、とても素敵よ萌。少しでいいの。痛くしないから――」
「うろこ?」
戸惑ったまま浮かぶ萌に、みずきの手が届きかけた瞬間。
「飲み物一つ買うのにどれだけ時間を掛けるのかと思えば、ずいぶん面白いことになってるじゃないか」
みずきは海水が伝える敵意に反応し飛びのいた。短剣を杖に立つ声の主は、別れたばかりのクロエと――魔女と――同じ顔を持っていた。
「エルニ! 違うの、ジュースは買ったんだけど海がね……ああ、みずき、紹介するね。この子が朝言ってた旅の人、エルニだよ」
二人の間に流れる緊迫した空気を読めぬまま、萌はくるくる回りながら嬉しそうな声を上げる。
「どういうこと? さっきの今で、もう約束を反故にするつもり?」
少女の――エルニの敵意のこもった視線を受け、みずきは声を荒らげた。だが、冷静になってみるとさっきとは服装が違う。クロエと名乗った魔女と違い、目の前の少女は黒いボレロに枯葉色のワンピース。怪我でもしたのか、レギンスの脚に巻かれた応急処置の布には血が滲む。何よりシアンの瞳が放つ鋭い殺気はまるで別人の物だ。
「さっきの事なんか知らねえよ。いや……なんだ、そうか! どうやら罪をばらまく魔女に追い付いたらしいな。見たところ生まれたばかりのようだが、残念ながらお前の国造りはここで終わりだ!」
エルニの頭上には恐ろしいものが浮かんでいる。鎧にも似た鱗を持つ、龍のようにも蛇のようにも見える古ぶるしい魚の姿。
みずきは不意に全てを理解した。魔女に魅入られ貴属の力を手に入れたのは、みずきにとって幸運ではなく不運でしかなかったのではないか? 選ばれ認められた訳ではなくもっと別の、何か大きな企ての一部として巻き込まれただけに過ぎないのではないか?
先ほどまでの高揚感は微塵も無くなり、焦りがじわじわと恐怖に塗り替えられてゆく。
「この子を捕らえなさい!」
みずきは生み出したまがい物の海の中に浮かんでいる、鱗を献上させた者たちに主として命じた。数十人からの従者が、みずきの意のままにエルニに襲い掛かる。だが、この力を与えてくれた魔女と同格と思しき存在に対し、それはどれほど意味のある行為だろうか。
エルニは鞘を払わぬまま短剣を振るい、掴みかかる従者達をさばいている。
「残念だったな、人魚姫。もっと時間があれば、堅牢な居城や強大な海魔だって用意できたろうにな!」
「やめて、みんな! 何、どうしちゃったの?」
萌は事態に追い付けないまま、海の中をたゆたい叫んでいる。萌が大きな声を出すのは、みずきは数える程しか耳にしたことがない。誰を止めれば良いのかさえ分からないまま、萌は泣き出しそうな顔で叫び続けている。
手近にいた従者達はみなエルニ倒されてしまった。この少女が貴属と同じ力を持つ者なのか、それ以上の存在なのかは分からない。だがエルニの言うようにもう少しでも時間があれば、迎え撃つに充分な準備を整えることも出来たはずなのに。
「こんなの不公平じゃない! せっかく貴属になれたのに! なんで、なんでこうなるのよ!!?」
浮かぶエルニが地に落ちる己の影に手を伸ばす。影はエルニの体を無数のリボンで縛り、拘束着めいた道化服を仕立てる。湧き出す無数の青白い手は、影の底から漆黒の巨大な両手鎌を黒い魔女と化したエルニへと恭しく捧げた。
「やめて! やめてエルニ! みずきはわたしの親友なの!」
今更ながらに、萌はエルニの明確な害意を感じ取ると、日傘も買い物袋も放り出し、もたもた泳いで二人の間へと割り込んだ。逆刃の鎌を大きく引き身構えるエルニの前で大きく手を広げ、みずきの身を庇う。
「萌!?」
「お前……」
鎌を振り払う直前で動きを止め、エルニはわずかに顔をしかめた。
みずきの目の前では、萌の頭上、小さいが美しく輝く魚が泳いでいる。
(この輝く鱗を奪えば、魔女から逃げる時間を稼ぐくらいは――)
「大丈夫……大丈夫だからね……」
みずきの耳に萌の囁く声が響く。みずきを安心させるように、自分に言い聞かせるように、萌は囁きを繰り返す。言葉とは裏腹に、その語尾も身体も小刻みに震えている。
萌の心の魚へと伸ばしかけていた、みずきのナイフを持つ手が止まった。
「今度はわたしが助けるばん――」
振り返る萌は、みずきに涙交じりの無理やりの笑顔を向ける。
「まったく。あんたはどうしてそうお人好しなのよ」
泣き笑いの表情で、みずきはひとつため息を漏らした。
青白い手の群れを足場に跳躍したエルニが、裂帛の気合とともに鎌を逆薙ぎに払う。
みずきの頭上の魚――エルニには長い鰭をもつ虹色の蛇に見えるもの――は、千人の老婆のため息のような泡だけを残し、みずきの意識と共に姿を消した。
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