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自分を虐待した家族との暮らし

(虐待の話が出て来ます。フラッシュバックがある方は注意してください)
機能不全家族でその家族から虐待されていた場合、虐待されなくなっても同じ家に居ないといけない場合、そこにはとても奇妙な緊張感がある。

私を虐待した家族が何もなかったように振舞い、家族なんだからぁと気持ち悪い態度を私に取ってくる。
幼い私はそれに支配されてしまっていた。どこかで気持ちが悪いと思いながらも生きて行くためには従うしかなかった。

10歳未満の、10歳前後の私に何が出来ただろうか?

あるゴミには性的虐待をされ、あるクズには暴力を振るわれていたのだ。時に無視され、食事を与えられなかった。

もう一人のクズは父親でありながらその時期だけ逃げた。家に居なかった。
あるゴミは私が虐待された事を話始めたとき嫌悪感を示して、後は知らなかったふりをした。もう忘れなさいと私に言った。

家族の中に5人もゴミクズがいた事実を振り返る事はとても苦しい。

そういう汚い虐待がなくなった後も同じ家に居ないといけないという地獄。

こんな状況で私が解離性同一障害にならなかったのはとても不思議だ。
離人症はあるけれど、しっかりと分離はしていなかったと思う。私はいつも私一人であった。

こんな地獄を経験し哀しみと怒りを抱えたままの私が、まだ誰も物質的に傷つけていないことに対して賞賛とトロフィーが欲しいぐらいだ。
動物だって殺していない。

そしてびっくりするのは、旅先やバイト先などで出会った人の中には私とほぼ同じ経験をした人やもっと酷い経験をした人が沢山いたことだった。

私がいる場所は地獄なんですか?

私が中学生になった頃、家族を置いて逃げていた父親も一緒に暮らし始めた。その頃は虐待はされてはいなかったけれど、狭い家で私を過去に虐待したクズと見捨てたゴミと一緒に暮らさなければならない現実はとてもしんどいものだった。

その頃反抗期も相まっていつもイライラしていた私は度々大きな癇癪を起すようになった。家で父や母をどなりちらし始めた。(虐待の時の記憶はこの時は封印している、記憶の深い所にはあるけれど押し込めている感じ)

私は日常生活で何かイライラするとドアを強く締めたり、気弱になった母を怒鳴りつけたり、仕事が上手くいっていない父親をなじったりした。性虐待したクズ、無関係を装ったゴミとは途中から一緒に住んでいない。

とにかく私は学生の頃から自分の中に溜まった怒りを噴き出し始めた。
物を壊したりもしたと思う。

当時、裏に住んでいた友人は時折私の叫び声を聞いていたようで心配してくれた。私が家族を罵る声だ。その友人に家に泊めて貰ったりもしていた。

ただ哀しいのは、こんな状況にあってもこんなゴミクズ家族と仲良く家族ごっこをしようとしたり、何か良い思い出を作ろうと私自身がかなり必死に努力をし続けたことだ。情けを与え、お金も与えて来た。

しかも、それは最近まで続けていたのだから本当に哀しい。

家族だからって情けをかけてしまったのが良くなかった。

だからこんな年になるまで自分自身をほったらかしにしてしまい、自分自身を大切にすることが出来ず、結局今の私に残ったのは私を虐待したゴミクズ家族への恨みつらみと虐待の後遺症とそれに伴う精神疾患なのだから、笑えない。ゴミは全て一緒に焼いて処理すべきだった。灰になったゴミクズ達は灰になっても醜いのだろう。

家族だからって情けをかけなければ良かった。

中学から高校の反抗期の時に、過去家族に殴られたことや、性虐待の事実をゴミクズらに突きつけることが出来たらどんなに良かっただろうか?とてもじゃないけれどそれは出来なかった。一人で食べて行くことが出来なかったから。

今の医学では性虐待をされた人がその事実を認識するまでには10年以上、人によっては20年30年以上かかることがあることが分かっている。
この事を疑問に思う人がいたら、とことん調べてみたらいいよ。

その時の私には無理だった。ただ、反抗期に合わせてイライラを爆発させるだけで精一杯だった。

殴られたことや、性虐待をされた事だけは言えなかった。悔しい、今こう書いていても本当に悔しい。あの時言えていたら、ゴミクズの本人たちに突きつけることが出来ていたらどんなに良かっただろうか。それがどんな悲惨な結果になっていたとしても、今みたいな空虚感は持っていなかったと思う。


後に母から聞いた興味深い話がある。

その頃、私に度々どなりちらされていた父が母親にこう言っていたらしい。

「いつか〇〇〇(私の名前)に殺されるかもしれないな」


*父はとってくに病気で他界しています。





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