見出し画像

サマソニ2022と差別

両親がムスメを見てくれるので、
母休みをもらってサマソニに参戦。
親友との濃すぎる夏休みを満喫した。

大阪でも東京でも差別だ何やかんやと話題っぽいが、
私なりに考えを整理したいなと思ってコレを書いている。


LGBTQの差別はお互い無意識な部分もあるし、
センシティブな問題なだけに声を大にして主張するのは相当な勇気と覚悟が必要だと思う。
それを踏まえて、当事者たちが差別を受けて改善を主張するのと、第三者が「それは差別だ!」とジャッジするのは全くの別物だと思う。

第三者の協力も必要だとは思うが、多様性に託けて自己愛を炸裂させて方向性を見失っている人もいるのでは?と思ったこともある。

サマソニでトップレスでパフォーマンスするとても素敵な女性がいた。彼女は男女不平等を訴えて、なぜ女性は胸を隠さねばならぬのか?という疑問からの行動らしい。そして女性の裸は性的なコンテンツとして消費されることへの問題提起でもあるそうだ。

それならば逆も然り。なぜ男性は胸を出せるのか。
男性も隠さねばならぬのでは?日本の男性アーティストが彼女のマネをして炎上しているみたいだが、第三者が詳細を知らない状態で「彼女を侮辱している!」とジャッジして攻撃するのはいかがなものかと思う。

本人達が納得していることであれば、第三者が口を挟むことではないし、当事者の代わりに攻撃して良いものでもない。
彼女が不快だと思っていたら大阪でのあの写真は無いのでは?とも思うしね。

そして大阪では彼女がダイブした時、近くの観客が胸のシールを剥がそうとしていたのを見た。東京でも彼女の胸の写真を撮りまくる人がいたそうだ。彼女のトップレスは性的コンテンツではない。音楽を楽しみにきた人達のはずなのに、目の前にトップレスの女性が現れると途端に性的な目で見て、タガが外れたよな行動をするのは何故なのか。

そして彼女のトップレスの写真はSNS等で拡散されるのだろうし、彼らの音楽や信念を全く知らない人のところに届くのだろう。それが彼女の行動を知るきっかけになれば良いが、恐らくは性的コンテンツとして消費されるのだろう。

自分が何気なくアップロードした彼女のトップレス写真、動画がどうなるのか?まで考えられる人はどれだけいるのだろう。そもそもサマソニは撮影禁止だからね。

いつかTwitterで見た『多様性とは最上級の無関心』というワードが今でも刺さっている。
無関心という言葉はとても重たく、冷たいイメージになってしまうが、ものすごくしっくりきた。
自分は自分、他人は他人という自他の境界がはっきりしていて、他人が誰を愛して、何を信じて、どんな活動をしていても「そうなんだね」で終わったらいい話なのでは?と思っているからしっくりきたのだと思う。


同性婚の問題だってそう。
政府の人達が少子化に拍車がとか言っていたが、全員が同性婚するわけではないし、異性婚したからといって子どもを産む産まないは当事者の自由だ。
夫婦別姓だってそう。別姓がいい人もいれば、どちらかの姓に合わせようという人もいる。各々が選択できればいいよね。って話なのにどうしてそんなに複雑になるのか。

これはまた深く考えて別に整理しよう。

この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?