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レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ 55

 塔に戻るとき、わたくしは振り返ってギルフォート様を見た。ギルフォート様も振り返り、「ジェーン!」と切羽詰まったように叫ぶ。彼が何を言おうとしていたのかは今でも分からない。ただ、わたくしたちが言葉を交わすことは許されず、彼は引きずられるようにしてわたくしから引き離された。かつて社交界で持て囃された整った顔立ちは変わっていなかったが、頬は少しこけて青白かった。出会った頃の軽薄そうな雰囲気は無くなり、おどおどとして所在なさげな印象を受けた。わたくしにとって結婚は大きな失敗だったが、彼にとっても同じだったのだと思った。わたくしと結婚するまでは、彼の人生は順調そのものだっただろう。父親の失脚で、遅かれ早かれ捕らえられていたのかもしれないが、裁判を受け、四つ裂きの刑が言い渡されることはなかった。
 わたくしは幽閉されている場所に戻るとき、何度も後ろを振り返った。ギルフォート様と会ったのは、それが最後になった。

 メアリー様の婚約というおめでたい話を聞いたのは、裁判が開かれて少し経った頃だろうか。メアリー様が、スペインの王太子であるフェリペ様との婚約を発表された時、多くの人々は困惑し、その婚約を嫌悪した。スペインは大国だったし、スペイン側に有利な政策をとられるのではないかと危惧したのだ。また、イングランドの正統な血筋に他国の血が混じることにも反発した。また、メアリー様が熱心なカトリックの信者だったこともあり、彼女のプロテスタントに対する風当たりは強かった。そういった不満が頂点に達し、一部のプロテスタントたちが各地で反乱を起こした。メアリー様は鎮圧軍を放ち、迅速に反乱を鎮めていく。
 しかし、その中でも最も大きいものだったトマス・ワイアットの反乱の中に、わたくしの父が参加していたのだ。反乱はすぐに鎮圧されたが、わたくしの父が反乱に関わっていたことを知ったメアリー様は激怒された。父が捕らえられた時、母が熱心にメアリー様にお願いし、保釈金を払って開放してもらった恩があるというのに、あろうことか父はそれを裏切ったのだ。そして、また宮中での権力を欲したのか、わたくしを旗印にしてメアリー様への反乱を起こした。わたくしがそのことを知って、どれほど呆れ、困惑したかなど本人は知らないだろう。
 父がわたくしを担ぎ上げて反乱を起こしたせいで、メアリー様の周囲はわたくしという不穏分子の存在を許せなくなってしまった。メアリー様の御厚意で伸ばされていた処刑を行うことを周囲に迫られたようだ。メアリー様は、周りの大人たちの犠牲者でもあるわたくしにひどく同情していたようで、側近を通して何度もカトリックへの改宗を迫られた。カトリックへ改宗すれば命だけなら助けてやる、と言われたが、わたくしの気持ちが揺らぐことはなく、最後までその話を拒み続けた。
 メアリー様からカトリックへの改宗を迫られた時、すぐに義父であるノーサンバランド公爵のことが浮かんだ。自分の命欲しさにカトリックへの改宗を誓い、惨めに命乞いをするなんて、たとえ短い間だけでも女王だったわたくしにすることは出来ない。そのような情けない姿を記録され、後世に語り継がれるのは御免だ。仮にカトリックへ改宗したとしても、そのような者を神がお赦しになるというのか。いつか皆平等に死が訪れるというのに、死ぬまでの時間をほんの少し長引かせたところで何だというのか。それならば、潔くプロテスタントの信者として死を受け入れ、神に祝福されたい。何度も改宗を迫られたが、わたくしの気持ちが変わることはなかった。
 メアリー様は、わたくしとギルフォート様の死刑執行書にサインした。それは、2月の厳しい寒さのなか行われることになった。  
 死刑の日が決まり、わたくしは数少ない持ち物をお世話になった人たちに残すために整理していく。侍女たちが泣きながら片付けているのを、まるで劇を見ているような気持ちで眺めた。
 処刑の日の前日、ギルフォート様から「会いたい」という連絡があった。わたくしは即座に、それを断った。「すぐにまた会えますから」と言うと、周りの侍女たちのすすり泣く声が聞こえた。
 

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